第1話 国王失踪と、円環の旅
中世ヨーロッパの面影を残す「Cメジャー王国」には、たった一つの絶対的な法律があった。
ドレミファソラシ――音楽学ではダイアトニック・スケールと呼ばれるこの七つの音の並びに従い、国民は生き、恋をし、争い、そして最後には必ず国王トニック(C)のもとへ帰る。「解決」と呼ばれるその瞬間だけが、この国で唯一許された安らぎだった。
石畳は白く、道は迷わず、誰もが自分の帰る場所を知っている。
それが、Cメジャー王国の日常だった。
――昨日までは。
その朝、王宮の玉座は空っぽだった。
「陛下……? 陛下はどちらに……」
侍女の震える声が、誰もいない大広間に虚しく響く。国王トニック(C)が、忽然と姿を消していた。
真っ先に異変に気づいた宰相ドミナント(G)は、青ざめる間もなく執事サスフォー(GSus4)を呼びつけた。
「カーテンを閉めろ。誰も王宮に近づけるな」
「宰相様、しかし民には何と……」
「王は今、重要な思索の最中である――そう伝えよ」
嘘だ、と誰もが心のどこかで気づいていた。
王宮から「解決」の音が消えたその日から、Cメジャー王国の隅々には、少しずつ得体の知れない不安が広がり始めていた。国民はそれを「不協和音」と呼んだ。名前のない、けれど確かに不快な、居心地の悪さ。
誰も、その正体を口にはしなかった。
*
王国の最果て、国境の荒野。
そこを一人で守る騎士がいた。
生まれつき体に刻まれた呪いのせいで、誰からも遠ざけられてきた男――ビマ(Bm♭5)。人々は彼を、名前ではなく「フラットファイブ」という蔑称で呼んだ。
彼のもとに、王家の封蝋が施された手紙が届いたのは、国王失踪の報せが荒野にまで届くよりも早かった。
差出人は、国王トニックその人だった。
「ビマよ。お前の呪われた『悪魔の音』――トライトーンだけが、この閉じられた秩序を打ち破る鍵となる。王国の裏側へ向かえ。そこに、真の解決がある」
ビマは、しばらくその文字を見つめたまま動かなかった。
誰からも必要とされたことのない自分の「歪み」を、王だけが「鍵」と呼んだ。
「……フン。年寄りの戯言かと思ったが」
剣の柄を握り直し、彼は初めて、荒野の向こうへ目を向けた。
*
「ビマさん! お待ちください!」
王宮を飛び出してきたのは、庶務官のディマ(Dm)だった。生真面目を絵に描いたような男は、息を切らしながら荒野まで駆けてきていた。
「王の失踪を隠すために、偽りの報告書を作れと命じられました。……僕にはできません。法律の向こう側にある、本当の音楽を信じたいんです」
ビマは何も言わず、ただ小さく頷いた。
二人は、規則正しく並んだ白い石畳を後にする。
その先に何が待っているのか、まだ二人は知らない。
王国の法律が届かない、名もなき音たちの領域――「新大陸」への道が、今、開かれようとしていた。
**♪ 今日の音楽理論ひとくちメモ**
国王トニックの「トニック」は、音楽用語で「主音」――その調の中心となる音のこと。物語のあらゆる出来事が、最後には必ず帰っていく場所、というわけです。




