エピローグ
名古屋に来て、五年が経った。
俺、北山誠司は今日も朝七時に起き、コーヒーを一杯飲んで、スケーリルのダッシュボードを確認する。ユーザー数は今や二十万を超えた。トワイライトテクノロジーズに買収されてからも、サービスは誠実に育ってきた。CTOとして関わる仕事は、やりがいもあり、忙しくもある。
「誠司、今日早くない?」
隣の部屋から咲の声がした。
「打ち合わせが入ってるから」
「ご飯、用意するね」
五年前、さきかぜのカウンターで出会った女性と、今は同じ部屋で朝を迎えている。咲は今も「さきかぜ」を続けている。誠司が仕事で遅くなる日も、咲は黙って待ってくれる。誠司が行き詰まると、咲は余計なことを言わず、コーヒーを入れてくれる。
そういう日々が、当たり前になった。
「お前、変わったよな」
先日、田村が言った。五年ぶりに二人で飲んだとき、田村はビールを飲みながらそんなことを言った。
「どう変わった?」
「なんか、落ち着いた。前は静かなだけだったけど、今は静かで幸せそうだ」
「そんなか」
「そんなだよ」
田村は笑った。俺も笑った。
大輔がどうなったか、共通の知人から断片的に聞くことがある。会社を辞めて、その後は転職を繰り返しているらしい。今は中小の営業会社にいるとか。昔ほどの勢いはないという話だった。別に、ざまあみろとは思わなかった。あいつはあいつなりに、後悔を抱えて生きているだろう。人生はそういうものだ。誰かを傷つければ、それが自分に返ってくることがある。怒りで報いるのではなく、時間が静かに報いる。
奈緒のことも、少しだけ聞いた。看護師として今も働いているらしい。大輔とは三年前に別れた後、しばらくして別の男性と付き合ったが、それも続かなかったと聞いた。今は一人で暮らしているとか。
「もう遅い」という四文字を送ったあの夜のことを、俺はたまに思い出す。怒りはなかった。ただ、「終わった」という感覚だけがあった。あの四文字は、奈緒へだけでなく、俺自身への言葉でもあったかもしれない。立ち止まっていた時間はもう戻らない。だから今を動くしかない、という。
俺は動いた。名古屋に来て、働いて、咲に出会って、サービスを育てた。正解だったのか分からない。ただ、後悔はない。
「誠司、冷めるよ」
咲の声がして、俺はダッシュボードを閉じた。
ダイニングに行くと、咲がトーストを並べてコーヒーを注いでいた。テーブルには今朝届いた書類と、咲が最近読んでいる本が積んである。窓から朝の光が差し込んでいた。
「今日の打ち合わせ、何時まで?」
「六時には終わる」
「じゃあ一緒にご飯食べられるね」
「そうだな」
それだけの会話で、トーストを食べた。五年前、一人でこの街にやってきた夜のことを思い出した。手に持っていたのはキャリーケース一つだった。何もなかった。次がどうなるか分からなかった。
今は違う。仕事がある。咲がいる。積み上げてきたものがある。
人生は静かに変わる。怒鳴っても、わめいても、大きくは変わらない。ただ、動き続けた人間が少しずつ遠くに行く。それだけのことだ。
誠司はドアを開け、外へ出た。
ガラス越しに見た夜から、五年が経った。あのガラスの向こうにあったものは、今はもう俺の人生にはない。あの場所も、あの疑念も、あの夜も。ただ遠くに、霞んで消えていった。
俺の足元には、今日も歩くべき道がある。それで十分だと、静かに思いながら、俺は歩き出した。




