後
なんか重量マシマシに……orz
死霊の王の直臣は、生者と亡霊の淡いに立つ。
ゆえに、ディーノは生者でも亡霊でもいられぬ代わりに、そのどちらにも叶わない事ができるのだ。
――例えば、生者の目を欺く隠密能力や、思い浮かべた場所への転移。
肉体の軛を喪った亡霊は、生者の眼に映らず、物理的な距離や物資の影響を受けることがない。
だから、ディーノもまた、強く望むだけで、帝国の皇族以外の目を逃れることができるし、一拍もかからずに望む場所に行けるのである。
ディーノが、帝都近くの街道で連行されていた斧槍を分捕り、皇族への献上品を奪われ大わらわな一行を、暢気に指さして笑っていられたのも、主君を介して与えられた、神の恩寵のおかげだ。
――例えば、常世を彷徨う亡霊を縛っている、無念や怨讐を断ち切る刃。
死と再生を司る神に仕える帝国の皇族は、神の恩寵をもって亡霊を慰撫し、彷徨える死者を神の御許へ導く。
一方のディーノは、死霊の王の権能の一端を貸与されたに過ぎないから、死者を導く前に、冥府まで強引に蹴り落とすぐらいしかできないけれど。
ディーノが投擲した、黒緋の長針に貫かれた死者が、苦悶の表情で夜闇に崩れ溶ける。
主君が弔うように、神の御許へ死者を誘うのは、ディーノには無理だった。
夜空に張り付く、嘲笑う口元に似た三日月が、皇族の肩書に不釣り合いな少年の寝室に、青白い光を投げかけている。
頑丈さが取り柄な寝台の上、心もとない月光に浮かび上がる主君の顔は、血の気が失せ、蒼白だ。
闇も昼間も変わらなくなったディーノの目に、また、侵入者の姿が飛び込む。
ディーノの同朋達と似たおぼろな姿は、しかし、どす黒い霧に浸食され、そこだけ嫌に輪郭のはっきりした双眸は、憎悪と狂気に塗りつぶされていた。
緩慢な動きで主君に手を伸ばす死霊の、救い手さえ奈落へ引きずり込みかねない渇望が忌々しく、ディーノは、密偵にあるまじき舌打ちをする。
ディーノは、皇族本来の責務に誠実な主君を見習えず、死霊が敵にしか見えなかった。
外では、帝都から主君に付き従ってきた死せる老将が、寄ってくる亡者どもを端から狩って回っているが、流石に手が足りないらしい。
――主君が仕える、死と再生を司る神は、死者への慈愛に溢れた神である。
死者に寄り添い、来るべき時に新たな生へと送り出す神の恩寵は、だから、自らの激情に耐えられず、狂気に呑まれた死霊どもの、恰好の誘蛾灯だ。
今夜のように、限界まで死霊の王の権能が行使されたら、なおさらに。
神の恩寵の一部である黒緋の長針を、ディーノが構える前に、黒緋を帯びた斧槍が、狂気に侵された亡者を両断した。
自分を見下ろす黒緋の瞳に、ディーノは不機嫌に眉を寄せる。
元はと言えば、ディーノの主君が寝込んでいるのも、死霊が湧いてくるのも、目の前の相手が原因なのだ。
「そこの坊主は」
低く、やや掠れた男の声は、空気を震わせ、ディーノの耳に届く。
「――これを、知っていたのか?」
「当たり前だ」
壮年の偉丈夫の質問に、ディーノはつっけんどんに答えた。
幼い死霊の王は、直臣を増やす手順も危険性も知っていた。
しかし、主君がやると決めてしまったから、ディーノは少年の行動を止められなかったのである。
帝国と戦い果てた南国の王は、なぜか、老帝の孫皇子に痛ましげな眼差しを向ける。
「そうか」
愛想のないしかめっ面で、だが、憐れむように主君を見やる男の意図が、ディーノには理解できなかった。
亡国の姫君を置いて死んではいけなかったディーノとは異なり、死せる王には、幼い死霊の王に首を垂れる理由がないはずだ。
かつての南国の長は、死と再生を司る神の恩寵と、それに仕える帝国の皇族の血で作られた掌を、じっと見つめた。
「……知っているか?
――はじめに救われなかったのは、帝国の皇族の方だったと」
ふいに落とされた、独白ともつかない言葉は、ディーノに沈黙を強いる重さを孕む。
炉と技巧を司る神に、自ら磨き続けた技量を奉じてきた南国の長の声は、祝詞をあげている時の主君の声音に、どこか似通ったものがあった。
昔々、帝国は小国に過ぎず、大陸を制していたのは、天と雷を司る神に仕える一族が統べる国。
奉じる神より、雷を操る恩寵を授けられた一族の長は、死を厭い、死と再生を司る神に仕える一族から、巫女姫を奪い取った。
死と再生を司る神に愛された姫君に、死を祓わせ、死を遠ざけた雷の王は、完全なる不死を求めて小国だった帝国に攻め入った。
雷の王の権能に怖れをなした周辺国は、援軍を求める帝国の懇願を一顧だにせず、捨て置いた。
そうして、抗いながらも攻め立てられ、帝都陥落を待つばかりとなった時の皇帝は、雷の王に奪われた愛娘の首に、――己の神を利用することへの躊躇いを捨てたのだ。
死者を視る皇帝の求めに応じた、亡霊たちの働きにより、雷の王の軍略は帝国軍に筒抜けに。
数多の軍を蹴散らしてきた天と雷を司る神の恩寵は、しかし、皇帝の直臣を二度殺すことは叶わなかった。
こうして、雷の王は死霊の王の直臣に討たれ、天と雷を司る神に仕える一族の多くは皇族の手に掛かり、かつての大国は滅びを迎えることとなる。
――それから、もう二度と奪われないために、帝国は死霊を使いだす。
皇族の手に掛かれば、死者としての尊厳共々、生前仕えていた神の恩寵が奪われると、大陸中に知れ渡ったのはその頃だ。
自らを見捨てた国々に攻め入った帝国は、滅ぼした王統の死霊を使役し、大国と共に失われたはずの雷が、戦場で猛威を振るったのである。
皇族の恩寵に怖れをなした各国の王は、帝国が奉じる神と対をなす、生と豊穣を司る女神に希望を見出す。
しかし、女神の腕に抱かれた小国の王は、変わらぬ平穏を望み、他国の使者の前で城門を固く閉ざし、……一族を国から出すことを拒んだのだ。
途中、寝室に侵入してきた死霊に邪魔されつつも、淡々と語り終えた偉丈夫に、ディーノは返す言葉がない。
――下界の狂騒を面白がりながらも、まさか、山脈地帯の辺鄙な小国まで帝国が攻め入るわけがないと、そう驕っていたのは、ディーノも同じだ。
死霊の王の新たな直臣は、失血で動けなくなった少年に、音もなく近づいた。
そして、無骨な指先が、白鼠色の柔らかな髪の乱れを、そっと撫でつける。
「子供に」
ディーノと同じく黒緋に変じた、亡き王の双眸に浮かんだのは、混じりけのない怒り。
「――何もかも背負わせるのは、間違ってる」
吐き捨てた男の理由は、ディーノの胸にすとんと落ちた。
ディーノが、前の主君への忠誠を貫けなかったのは、よりにもよって、不死に狂った老帝の孫皇子に、忠節を誓おうと決めたのは、……失望したからだ。
姫君を守り通せなかった自身だけでなく、――はじめに、たった一人、小さな小さな姫君を置き去りにすると決めた、かつての主への。
――小国丸ごとだけでなく、帝国側の多くの兵士たちの運命を狂わせた、亡都の凄惨。
覚えている、忘れない、忘れられるわけがない。
ディーノの時間は、あの日、あの場所、あの瞬間で、永遠に止まったのだ。
そして、亡都が産声を上げた時、あの惨劇が隠し通した姫君の、小さな肩に、一国すべての希望が載せられた。
分かっている。
ディーノは、同朋達は、情けなくなるほど怠惰だったのだ。
自分達の王が示した、亡びへの道を、誰も彼もが従順に辿っただけ。
そうやって、まだ何も知らなかった姫君を、希望という言葉で丁寧に包んで、無関係な未来に放り出してしまった。
――そんなことは、間違っていた。
間違っていると、死んでから、なにもできなくなってから、ディーノは気付いた。
小さな小さな、みんなのお姫様。
死んでまで、幸せになって欲しいと願うなら、生きて傍にいて、幸せにするべきだったのに。
「死者と言葉を交わし、生者のために死者の力を借りるが、死霊の王よ。
……もう、帝国には、この坊主以外の死霊の王など、いないのだろうな」
かつての南国の長の、言葉から漂う寂寞の由来を、ディーノは知らない。
ディーノの記憶にある、主君以外の皇族は、もはや人間の皮を被ったナニカに成り果てていたから。
死せる王は、言葉を紡ぐ。
「――嬢も、耳を塞ぐな、瞼を開けろ。
人の言葉を丸呑みにせんで、自分の頭で考えろ」
振り返る偉丈夫の視線を追ったディーノは、ほんの少し開いていた扉にようやく気付き、頭をぶん殴られた気分になる。
亡き王の昔語りに気を取られていたとは言え、みんなのお姫様を見逃していたなんて、いくら何でも密偵失格だ。
扉の隙間から、主君の寝室をこっそり覗き込んでいたお姫様は、そろそろと扉を開け、潤みかけた大きな瞳で偉丈夫を見上げる。
休息を必要としない同朋達も、主君の恩寵が乱れた状態では、寝間着姿の姫君に侍られなかったらしい。
新たな直臣を迎え入れた反動で、幼い死霊の王は、仕える神の恩寵が色濃くなっており、死霊を誘引するような悪影響が出ている。
また、あまりにも死の側に傾いた、今の主君の傍らにいられる生者は、生と豊穣を司る女神に愛されたお姫様ぐらいだろう。
小さなお姫様を見下ろす偉丈夫の横顔には、厳しさと同時に気遣うような温かさがあった。
「守られていたいなら、別に好きにすればいい。
――だがこのままでは、いつかまた、嬢は置いて行かれるだろうよ」
見慣れぬ偉丈夫の台詞に、亡国の姫君はこてんと首を傾げ、ぱちぱちと瞬く。
むぅっと、幼子特有のすべすべとした眉間に、きゅっと皺が寄るが、何拍か置いて、それは綺麗になくなった。
……大人の言葉を理解しようとすることに、お姫様が飽きた時の表情だ。
亡き王の教えは、小さなお姫様には、まだ難しかったらしい。
――いや、お姫様に理解させてこなかったのは、ディーノたちの方か。
当初の目的を思い出したのか、姫君の青い瞳が、寝台に横たわる少年を心配そうに見ていた。
「エルは、だいじょうぶ?」
小さなお姫様の無垢な問いに、ディーノは言葉に詰まった。
処置は済んだとはいえ、ディーノの主君は大丈夫とは言い難い。
ディーノ自身の時は、そのことを気にかけもしなかったが、多くの出血を伴う権能の行使は、幼い身には負担が大きかった。
老帝が己の直臣を持たぬことから分かるように、死霊の王が新たな直臣を迎える事は、軽々に行えるものではないのだ。
「心配なら、そばにいてやればいいだろう」
肩をすくめた偉丈夫が、主君の寝室にお姫様を招き入れる。
女官長あたりが、淑女が云々と騒ぎそうだが、その辺りを何も考えてなさそうな姫君は、とてとてと婚約者のところへ寄ってきた。
同朋達は、未だにぶつくさ言っているが、騎士領主の養女であるお姫様と、老帝の孫皇子である少年の婚約は、皇帝直々の命でなされたものである。
――それに、みんなのお姫様が、自分だけの王子様を一心に慕っていることなど、誰の目にも明らかなのだ。
ディーノは、柔らかな表情で、小さな姫君に笑いかけた。
「姫様、今日は若君とねんねしますか?」
「はいっ!」
ディーノは、大きな目をキラキラさせるお姫様を抱き上げ、皇子様の隣に寝かせてやる。
お転婆なところがある姫君は、けれど、少年の傷に障らぬように、そぉっと主君の体にくっついた。
死霊の王は、失血などからの回復のため、深い眠りについているのだろう。
普段から他者の気配に敏感な主君は、一連のやり取りの間も、人形と勘違いしてしまいそうなくらい、静かに横たわっていた。
一度は布団の中に潜り込んだ青い目が、ひょこっと現れ、ディーノを映し出す。
「ディーノ、あのね」
「なんですか、姫様?」
「エル、あしたはげんきになる?」
姫君の質問に、ディーノはにこりと微笑んだ。
「――ええ、きっと」
小さなお姫様に恩寵を授けたのは、生と豊穣を司る女神。
傷を癒し、病魔を払い、そうして寿命さえも引き延ばす権能を求めて、不死に狂った老帝は、女神の愛し子を欲した。
満足気に目を閉じたお姫様を見下ろし、ディーノは、明日は晴れればいいと願う。
自分だけの王子様と遊べば、みんなのお姫様は、今日の心配を忘れるような笑顔になるだろう。
亡国の小さな姫君を幸せにできるのは、死した密偵でも亡霊たちでもなく、まだ幼い死霊の王であるのだから。
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