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レースのカーテンがさらさらと揺れている。冷たい風がふうっと吹き込むそのたびに、琥珀色のレースがふわりと舞い上がり、顔の前に灰色の影が通りすぎる。オーロラのような琥珀色の幕は、目前で幾度となくたなびき、夕暮れが迫っていることをひしひしと感じさせた。
もうそんな時間なんだ。
ベッドの上にあおむけになりながら、どこか遠いところでそう感じた。その感覚は本当に遠くて自分の意識かどうかも定かではない。
群れて鳴き交わすカラスの声、身じろぎをするたびに立つ音。静寂が支配する部屋の中で音が立つたびにむなしさはさらに高まる。
何を見るわけでも意識するわけでもなく、ただぼんやりと中空に視線をさまよわせていた。
シーツの上にたまったはちみつ色の光が、日の当たる水面のようにきらきら揺れている。
なめるように伸びた薄い灰色の影が床の上にまで続いていて、それが何故だか悲しみを誘う。
急に泣きたい気分に駆られ、寝台の上に突っ伏した。
「サヴァ……」
悲しくなったとき、いつもその原因を作った友人の名をつぶやく。そうすると親友だった少年が頭の中に浮かんでくるのだ。
花びらのような雪がはらはらと散るアプローチ、血のように赤い花弁にかかった真っ白な雪片。重たげにこうべを垂れる椿にやんわりと光がそそぐ。
―――朔夜、メール出すから、絶対出すから待っていて
また会いにくる。そう云ってこの街を離れた少年はそこでぷっつりと消息を絶った。
あれから四ヵ月。もう季節は冬ではなく春になりつつある。
はじめのころこそ引っ越したばかりで忙しいと云っていた母ですら、どうしたのかと心配するようになり、それが不安を一層募らせた。
忙しくて送る暇がないのならと、意を決して出したメールも電波が届かないという表示が出るのみ。
もしかしたら認識IDを間違えてしまったのかもしれないと、同じ内容のメールを何度も出した。
けれども結果は全て同じだった。
「……うそつき……」
思い出すと、こらえきれなかった涙が頬を伝った。
切り裂かれたように痛い咽喉と心臓を圧迫する熱い塊。
わけもなく涙があふれ、こらえようとするとさらに苦しさが増す。自分でもどうしてこんなに泣かなくてはならないのかわからなかった。けれどこみあげる情動が次から次へと涙をつくりあげる。
気がつくと、いつの間にか日が暮れかかっていた。
濡れて冷たくなった枕に頬を押しつけて身じろぎすると、シーツが揺れ、その上にたまったみかん色の光が揺れる。
生温かくなったシーツを引き込んで、端末を開いた。いつものようにサーヴァインの名を告げて、メッセージを吹き込む。
すぐに電波が届かないという、いつものメッセージが届いた。
それを見るなり、急激に怒りが湧いて出る。
端末を腕から抜いてベッドにたたきつけると、マットレスの上で一度跳ねて床に転がった。
メッセージを見た瞬間、胸にこみあげた怒りはそのまま虚しさにすりかわった。
ぼんやりと虚空を見つめる。
望が帰ってきたのか、階下が少し騒がしい。
今会いたくない。そう思ったそのとき、脳裏にある考えがよぎった。
そうだ。電波が届かないのなら、もっと高いところに行けばいいんだ。
突如として浮かんだそのアイデアは何かの宝石のように輝いていた。
勢いよく起き上がり、高い場所を思い浮かべる。
あの秘密基地ならすごく高かったし、あそこならきっと通じる。
クローゼットからコートを引っ張り出し、野生動物よけの装置をポケットに入れて階段を降りた。
ちょうどそこで上がろうとしていた双子の弟と鉢合わせになった。
「朔、こんな時間にどこ行くの?」
「……散歩」
弟をおしのけて外に出ると、いつも見る景色のすべてが輝いて見えた。
大きく息を吸って、飛び跳ねる。
きっとつながる。
こみあげる嬉しさに口元からこぼれる笑みをこらえられなかった。
スカイトラムを乗り継いで郊外に出ると、民家はほとんどなくなり、木々がまばらに生える丘が近付いてくる。
親友サーヴァインと行った八ヵ月前は、まだ丘がまぶしいくらいの緑に覆われていて、あれからまだ一年も経っていないのにずいぶんと昔の出来事のように感じられた。
丘を越えてしばらくすると、ヤーンスの街を囲むようにして広がる樹海が現れる。
サーヴァインがいたころ、森の奥にある十二神の塔とその支柱ビルが秘密基地だった。
大人ですら滅多に近付かない、測位システムも利かない樹海でどうして迷わなかったのかはよくわからない。
サーヴァインは当たり前のように森に分け入り、同じような景色の樹海を苦もなく進んでいた。
鬱蒼とした森の中は、山の端から漏れる西日で真っ赤に染まっている。ちろちろと舌を出す炎が黒ずんだ幹を這い、あたりを焼き焦がしていく。
どうしよう、怒られるかも。
鬼のような形相で見下ろす母が頭の中に思い浮かぶ。
高揚した気分が一気に沈むのを感じたが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
頬をパンとたたいて、道なき道を進む。
その間に空気はじょじょに濃くなっていく。濃いオレンジから血のような暗褐色へ。
樹海の奥深くの街跡にたどりついたときにはあたりは真っ青になっていた。
その色はいやでも夜が迫っていることを感じさせて、思わず身を震わせた。
手はかじかみ、冷たくなった掌に息をあてる。生あたたかい空気とともに吐き出された呼気は煙のように白く、速やかに淡青色の大気の中に溶けていく。
「着いた……」
自らを鼓舞させるように呟いて、薄闇の中、天を貫かんばかりに高いビルを見上げた。
十二神の塔を支えるように建つ崩れかけたビルが、サーヴァインと一緒に見つけた二人だけの秘密基地だった。
魔法のような手を持つ幼馴染みがビルのコントロールパネルを探し出して復旧させたので、このビルだけは使用されていた当時の機能の一部が使える。
サーヴァインはシステムについて説明をしてくれたが、その話は難しくてほとんどが理解できなかった。それでも目の前でエレベーターが動き出したときは自分の友人は本当に魔法使いなのだと思った。
―――秘密だよ
口元に立てた指をあて、サーヴァインが微笑む。
親や望にも内緒というその約束は、幼い自分にとってはこれ以上ないくらい甘美な響きを持っていた。
首が痛くなるくらいうなずいて、ミカにもヒイロにも云わないようにしようと固く心に誓った。
いつもサーヴァインがしていたようにコントロールパネルをいじって七十階を指定した。
本来はもっと高いはずのビルだったが、老朽化の影響もありこれより上には行かない方がいいとサーヴァインが決めたのだ。
七十階について扉が開くと同時に冷たい強風が吹き込んできた。
息苦しささえ感じながら壁際に沿ってがらんとしたフロアを進む。
経年劣化により崩れてなくなった窓辺に近づき、端末をかざしてみたが、電波感度は地上よりもよくなるどころか却って悪かった。
がっかりしながらもフロアを散策すると、あるポイントにさしかかったときだけ大きくノイズがはしった。
それは見たこともない揺らぎ方だったのでひょっとしてと考え、端末に近くのチャンネルに合わせるよう指示してみた。
「……し……えらあ…と…あ……か……で……」
ひときわ激しいノイズのあと、人の声のようなものが聞こえたような気がした。
耳を澄ましてみたが、その後いくら待っても何も聞こえなかった。
やはり無駄なのだろうか。
最後にもう一度だけサーヴァインにメールを送ろうとしたそのとき、体が凍りつくかとおもうほどの恐怖が襲った。
エレベーターが動いているのだ。
誰か、来る。
あわてて逃げ込もうとするが、あいにく隠れるような場所はどこにもなかった。
一部崩落した窓辺を覗くが、きりたった崖のようになっていてとても降りようとは思えない。
ごうごうと鳴る騒がしい風音も、弾けそうなくらいに高鳴る鼓動にかき消されてしまって何も聞こえない。
あらゆる状態が限界にきたとき、エレベーターの口が開いた。
「―――のぞ…む……?」
エレベーターの中から現れたのは、鏡に映したようにそっくりな姿をした双子の弟だった。
「望……」
途端に緊張が解けた。
大きく息を吐き、凍りついたように動かなかった手を怖々と下ろした。
足が思ったように動かせず、崩れるようにその場に座り込む。
「朔」
極限まで張りつめた緊張感のせいで、体は発火するかのように熱い。
おぼつかない手つきでコートに手をかけると、望は足早に近寄ってきた。
「どういうこと」
「え……」
弟の硬い口調と怒ったような表情に面食らう。
どうして怒っているのかまるでわからない。
目をしばたたかせていると、望は苛立ったような声をあげた。
「何やってんの」
「望こそどうして……」
「どうしてじゃないよ。あんな時間に出てったら気になるに決まってるだろ。何で樹海なんかに入ってるんだよ」
「だってサヴァにメールを……」
「馬鹿じゃないの」
望は盛大にためいきを漏らした。
「あのさ、朔、サーヴァインはもう引っ越したんだよ? 連絡がないってことはしたくないってことだろ。認識IDは変更出来ないんだし、電波の届かないとこなんてこの地球上にはないじゃん。サテライトまで届くんだよ。よく考えてよ。いつまでもめそめそすんなってパパとママも云ってるじゃん。早く帰るよ」
望に腕をつかまれた瞬間、体勢を崩した。
よろめいた拍子に握っていた腕輪型の携帯端末が手からこぼれ落ち、割れた床の上でかつん、と音を立ててバウンドした。
「あっ」
そのまま端末はくるくると回って、吸い込まれるようにして割れ目に落ちていった。
「望の馬鹿!」
カッとなって、呆然と立ち尽くす弟に向き直る。
「どうするんだよ! 落ちちゃったじゃん、何で急に腕なんてつかむの?! あそこにしかサヴァのデータ入ってないんだよ。望のせいだ! 全部望が悪い! ぼくとサヴァが仲良くしてたのが気に食わなかったんだろ! だからこんないやがらせして!」
云いながら心臓がかき回されたような痛みを感じた。
怒りとショックで頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「ぼくはもう絶対望のこと許さない。口だってきかない。大嫌いだ! 望なんて死んじゃえ!!」
望は真っ青な顔をしていた。
「朔! 謝るから!!」
「うるさいな! どっか行ってよ!」
望は悲痛な声で叫んでいたが、それさえも苛立ちを募らせるだけだった。
気がつくとビルの前に立っていた。あまりにむかつきすぎていつエレベーターで降りてきたのかまるで覚えていない。
「どうしよう……」
空は真っ青だった。心なしか空気まで青いような気がする。森の奥はもう真っ暗で、とても一人で帰ることなんて出来そうにない。
いまだ望への怒りはくすぶっていたが、恐怖がそれを上回った。
呼吸をするたびに綿毛のように白い息が暗がりの中に浮かぶ。
家から持ってきたコートを上に置いてきてしまったせいで余計に寒く感じる。
肌をさすり、掌に呼気をあてながらビルの前を行き来する。
「何やってんだよ、遅いんだよ」
しかしいくら待っても望は降りてこなかった。怒りにまぎれて苛立ちが募る。その間にも夜はどんどん深まっていく。
寒さと怒りと不安でどうにかなってしまいそうだった。
夜の闇はいよいよ濃くなり、それにともなってビルの明かりが顕著になっていく。
暗い尖塔から漏れる黄色い光。それは闇が濃くなるにつれ際立ち、あたりの暗闇を切り裂く。
早く、早く。
弟への悪口をつぶやきながら地団駄を踏んでいると、突然足元から風の気配を感じた。
「望?」
見下ろすが、足元は地面で風が吹きあがってくる要素は何もない。
何だか非常にいやな予感がした。
先程まで寒くてかじかんでいたはずの掌が妙に火照っている。こすりあわせると、不安になるほど大量の汗が出た。
したたり落ちそうなほどの汗を見ていると、ひざが震えた。
叫びだしたいくらいの恐怖が指先から全身に伝わる。
―――望!!
とても自分のものとは思えない強すぎる念で頭が爆発したと思った。
閃光が脳内だけではなく体の中まで広がり、世界の全てを染めていく。
ふと気がつくと、スローモーションの世界の中にいた。ゆっくりと遠ざかっていく明かりのついたビル。
嘘。
ぽかんとした感情が頭の中に浮かぶ。どうしてこんなところに、何故こんなことに。
様々な感情が一瞬で過ぎ去り、遅れてこれはまずい。死ぬかもしれない。そんな雑多な思いが去来する。
けれど言葉に出来ていたのはそのときまでだった。
軽い衝撃が全身を揺さぶり、宙で体の向きが変わる。二度三度、続けざまに衝撃がはしった。
―――あと、もう少しだったのに……
腕輪型の端末が頭のすみにちらつく。
そして次の瞬間、これまでとは全く別の、経験したことのない衝撃で目の前が真っ白になった。
「あ…あ……あ……」
何が何だかわからなくなった。
下にいたはずなのに落ちる際の恐怖や激突した瞬間の衝撃が全身を駆け巡っているのだ。痛いはずなのに何も感じない。血が出ているはずなのに出ていない。
腹のあたりから何かが出ているような気がして、おそるおそる体を見る。
その瞬間、呼吸が止まりそうになった。
体は黒く染まっていた。どろりとした熱い液体が触った指の間から零れ、どす黒い塊が掌を伝ってぼとりと下に落ちる。
体が震えた。
相変わらずまったく痛みを感じない体にそろそろと手を這わせる。
首、胸、腹。脇腹からは自分の体ではないような硬い感触が手にあたった。
触れば触るほどぬめりのある液体がぼたぼたと垂れる。
◇
「強制終了する!」
アラートが鳴り、シンは大きく体をひきつらせた。つんざくような音の警戒音はいまだ鳴りやまず、シンの気をさらに動転させる。
「朔夜は無事か?!」
「脳波、バイタル共に非常に不安定――心停止しました! 補助の自動拍動装置に切り替わりました。……拍動再開します」
「補助は脳波が安定するまで切るな」
カプセルの中で苦しむ朔夜の姿はそのまま幼いころのアルカスの姿になった。暗殺者に狙われた自分をかばって撃たれた甥。何日も生死の境をさまよった上、変わってしまった。
何事もなかったように目覚めてほしい。
祈ることしか出来ない自分が歯がゆい。シンはカプセルの中で苦しみに耐える朔夜を見ながら、唇を噛んだ。
「―――もう大丈夫だ」
ジグラの薬剤調整技術が功を奏したのか、朔夜の容態はじょじょに安定してきた。
補助装置を外すことを許され、カプセルを開けたシンは、以前と同じ寝息を立てる朔夜を見て、ほっと肩を撫でおろした。
「朔夜……良かった……」
ためいきをつくようにつぶやいたそのとき、朔夜の目じりから涙があふれた。灰色のまつげを濡らし、湧水のようにあふれた滴りが頬の上を滑る。
「のぞ…む……」
朔夜は目をつむったままきゅっと眉根を寄せると、かすかな吐息を漏らした。
「ごめん……」
わなないた唇が声に出せなかった言葉を紡いだ。
「ごめん、望……」
「朔夜……」
シンは顔をゆがめると、指の腹で朔夜の涙をぬぐった。




