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Moon Child  作者: かゆき
第七章 不滅の青
64/89

15

 酷い恐怖感に襲われ目覚めた朔夜は、自らの内に(こご)ったどす黒い不安感を発見した。

 その暗闇はあまりにも深く、体の内側全てが空洞になったような感覚を覚えた。

 世界の全てがなくなり、ひとりで取り残されたような感覚。

 それはあまりにも痛く、底が見えないほどの暗さを持っていた。


 想像を絶する孤独感に朔夜は耐え切れず、絶叫した。



「朔夜?!」



 軽い音を立てて扉が開き、シンが駆け寄ってくる。

 朔夜はシンが側に来たことすら気付かず、叫び続けた。


 咽喉から声が出てくるたびに暗闇が広がり、そこに溜まった不安感がまた朔夜を刺激する。



「朔夜!」



 体に振動が走ったが、それは暗闇の世界を崩壊させるほどの威力は持ち合わせていなかった。

 引きつけを起こしたように体がぶるぶると震えて、視線が定まらなくなる。


 頭を抱えたまま、朔夜は叫び続けた。


 無理な発声に咽喉が焼けるように熱くなり、叫び続けるせいで酷い頭痛がする。けれどもそれらの痛みがあるおかげで朔夜の意識は、どうにかこの場に繋ぎとめておくことが出来た。



「朔夜!」



 狂ったように叫び続ける朔夜に、シンは大きく手を振りかざして頬を打った。



「しっかりしろ!朔夜!!」



 バチンという音とともにじんわりと頬に痛みが広がる。


 朔夜は呆然としたように頬に手を当て、それから顔を強張らせながら自分の胸倉をつかみあげる少年を見上げた。


 怒ったようなその表情にわけが分からないというように目をしばたたかせていると、体の奥の方からまたじわじわと恐怖か込みあげてきて、朔夜は再び叫びだしたいような衝動に駆られた。

 むずむずするようなその感覚はこの上なく気持ちが悪く、不快だ。


 あばれだしたいような暴力的な気分に襲われながら、朔夜はそれをまぎらわすかのようにシンに縋りついた。



「朔夜……?」



 突発的な朔夜の行動にシンは瞠目している。朔夜はそれに構うことなく叫んだ。



「おれは……、おれは誰だ!」



 シンが着ていた厚手の上着は朔夜が握り締めているせいで、ひどく皺が寄っている。



「朔夜?」



「誰なんだ?!」



 動転したように同じ言葉を叫びながら、朔夜はシンの上着を掴んだまま、うずくまった。



「おれは」



 つかんだ手の中がじんわりと熱い。じとりとした汗を掌に感じながら、朔夜は吐き出すように叫んだ。



「おれは朔夜じゃないかもしれない!」



「……」



「望かもしれないんだ!!」



 黙ったままのシンに不安を覚えつつも、朔夜はそれを隠すように言葉を重ねた。



「教えてくれよ!!」



 けれどシンの答えはなかった。


 なにがしかの反応を期待していた朔夜は、しんと静まり返った部屋に恐怖にも似た不安を感じつつ、顔を上げた。


 暗がりの中でシンは黙ったまま、こちらを見下ろしている。

 その表情は何か考えているふうでもあり、沈黙が余計に怖ろしかった。


 何を云われるのだろうかと、朔夜は顔を強張らせてルームメイトを見つめた。



「シン……?」



 シンは朔夜の顔を真っ直ぐ見据えながら、驚くほど冷静な口調で告げた。



「本当に知りたいのか?」



「え?」



「本当に自分が誰なのか知りたいのか?」



「あんた、知ってるの?」



 シンは静かにかぶりを振った。



「じゃあ……」



「答えは朔夜自身が知っている。おれはその手助けをするだけ」



 朔夜はシンが何を云っているのか理解出来なかった。目をしばたたかせて眼前の顔をまじまじと見、微かに眉を寄せる。


 シンはなだめるように目を細めた。



「お前に知らない過去があるのは、その過去に何かショックな出来事があったからだ。それは多分、お前のご両親が亡くなったことも関係あるとは思うが、おれは弟のことが一番の原因だろうと、考えている」



「望の……」



「断定は出来ないがな。そういう可能性もあるということだ。それでも知りたいか? 記憶を失うというのはよほどのことだ。サーヴァイン・ルパスクの記憶を失ったのも、もしかしたらそういうことと連動していたせいかもしれない」



「え?」



「サーヴァインの記憶だけがああも完璧にないのはおかしい。幼いお前にとっては一大事だったに違いないが、親友が引っ越したことが両親の事故よりも衝撃的な出来事だと思うか?」



 確かに。



 そのことは朔夜も考えたことがあった。

 けれどそのときはおかしいかな、くらいにしか思わなくて、特に変なことだとは思わなかった。


 ただ、違和感にも似た不安だけがずっと胸の内に(こご)っていて、何かあるたびに落ち着かないような気分になっていたのだ。

 けれどもようやく今、他人の口から云われて、その正体が具現化した気がした。つかえていたものがとれたような、そんな爽快な感覚が全身を駆け巡る。


 霧が晴れたように明るい脳内画像のその向こうには望の姿があった。



―――朔



 耳の奥の方から望の声が聞こえた。双子の弟だけが呼ぶその名。満月と新月。



―――朔、(ぎん)(りょう)草が咲いてる。来てみなよ



 むせかえるような緑の匂いと近くで聞こえる息遣い。空から零れる水紋のような細かい光。

 その記憶は確かに存在するはずなのに、そのときの望の顔はまるで思い出せない。



―――朔……



「――いいよ」



 吐息のように小さな声にシンはいぶかしげな顔をした。


 朔夜はそれで少しとまどったが、このまま放置して何度もわけの分からない恐怖にさらされるよりかは、きちんと原因を理解しておいた方がいいに違いない。


 朔夜は小さく息を吐くと、シンの顔を見据えた。



「記憶、あんたが云う方法で記憶を取り戻させてよ」



「朔夜……」



 シンは気遣うような視線を送って朔夜の意思を確認してきた。

 本当にいいのかという無言の確認に朔夜は少し気が引けたが、授業のときに味わったような恐怖を思い出し、意思を新たにした。



「いいんだな。後悔するなよ」



「怖がらせる気?」



「お前の心に負担がかかるかもしれないと心配しているんだ。誰も脅かしてなどいない」



「負担って」



「記憶喪失部位を蘇らせようとしているんだ。心に負担がかかるに決まっているだろう。出来るだけそうはならないようにするつもりだが、それでもフラッシュバックは免れないと思え」



「フラッシュバックって、そんなに……」



「無意識下に封じ込めてしまうほどのことだ。何があったかは想像もつかないが、覚悟はしておけ」



「やっぱり脅されてる気がする」



「馬鹿」



 シンはふっと微笑うと、朔夜の首に腕を巻きつけた。



「ちょ……っ」



「大丈夫」



 シンはぐずる子供をあやすように、背中を叩いた。

 ポンポンと鳴る軽い振動が、甘い感覚を呼び起こす。


 脳裏で細かい泡がぱちぱちと弾け、荒ぶっていた感情を沈静化させた。気持ちがいいようなくすぐったいような、よくわからない感覚が全身を駆け巡る。



「大丈夫だ。おれはずっとついてる。どんな記憶を思い出してもずっと側にいる」



「シン……」



 呼ぶと、シンは顔を上げた。

 至近距離の真正面から見つめられて、心臓が締めつけられたように痛んだ。


 きらきら光る大きな目から逃れるようにうつむき、朔夜はそっと胸元を押さえた。



「おれがもし…望だったら……」



「この間も似たようなこと聞かれたな」



「は?」



 訊き返すと、シンは、こっちのことだと、苦笑気味に朔夜を見た。



「それで、朔夜は何を心配しているんだ?」



「――…もし…望だったら…これまで朔夜として生きてきたおれはなんだったのかって……」



「そんなの、名前が変わるだけだろ」



「え?」



「もしかしたら手続きの問題で、朔夜として通さなきゃいけないかもしれないが、それでもお前はお前だろ?」



 シンは何をそんなに悩むんだとばかりに肩をすくめてみせた。



「おれにとっての朔夜は、初日に二時間も遅れてやってきた奴だ。悪びれもしないで、不機嫌そうに会釈して、それから、突然名前について言及してきた男だ。本当は望だったとかそういうことは関係ない」



「それに」



 朔夜は顔を上げた。

 息がかかるような至近距離にシンがいる。


 朔夜は直視出来なくて目を逸らした。



「バビロニア神話の月の神の名前、持ち出してくる奴なんてお前の他にいないぞ」



 何だよバビロニア神話って、と、シンはあきれたように笑った。



「おれのトップシークレットも聞かせたんだからな。お前とは一連托生だ」



「一生?」



「勿論」



「……ものすごい迷惑……」



「迷惑? 光栄、だろ?」



 顔を強張らせて否定した朔夜に、シンは眉を寄せた。



「ありがたく思えよ」



 思うかよ。朔夜は心の中で付け加えた。



「――で、具体的にはこれからどうするの?」



「とりあえずジグラ軍医のところに行く」



「ジグラ軍医? 精神科の? 何で?」



 脳の奥深くにまたきらきらとしたものが踊った。

 それは何だか悲しげな色をしていて、朔夜はまじまじとシンを見つめた。


 シンはうつむいて呟くような小さな声で云った。



「……その人がそのための装置を起動させる権限を持っているからだ」



「行けるか?」



 朔夜は頷いた。


 あれほど不安だったはずなのに不思議ともう恐怖感は感じなかった。


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