6
買い物から帰ると時刻はすでに十六時を回っていた。
疲労のあまり品物を冷蔵庫に押し込む気力もない。前日にシンに起動させてもらったヘルパーマシンをフル稼働させ、荷物の整理と調理を依頼した。
母が生きていたら怒られそうだ。朔夜はリビングの円形ソファに寝そべった。
目の前に広がる庭の一部が金色に輝いている。とろりとしたハチミツ色の光は母親の作ってくれたスポンジケーキを髣髴させた。甘くてしっとりとした空気。
朔夜はクッションに顔を沈めて襲いくる眠気に抗おうとした。気を休めると一気に意識を奪われそうなほど強力な睡魔がさざなみのように押し寄せてくる。
どう考えてもこの眠気は一昨日の試験疲れだ。
射撃検定、地球近代史、基礎病理学、総合光学、一般生物学。どれも苦手な科目だった。
というより、あまりにも授業を聞いていなかったせいで、朔夜にとってほとんどの科目は苦手なものに分類されていた。
手ごたえもなく、特待生であることの条件に成績が入っていたならまず間違いなく落とされるであろう破滅的な出来だった。
朔夜はソファに横になりながらナーサリーを追い出されたあとのことを考えていたのだが、自分でも気付かぬ間に眠っていた。
そのことに気がついたのは目を開けて、何気なく視線を庭にやったときだった。それまで赤とオレンジが入り混じったような色だった外はいつの間にか、真っ黒になっている。いまだにとろんとした意識の中、朔夜は遠くで人の話し声がするのを耳にした。
そうだ、あいつをここに呼んだのはゆえ対策のためだった。
本来の目的に気付き、朔夜は慌ててソファから起きあがった。
シンはダイニングの方でおとなしくテレビを見ていた。
寝ていた朔夜を慮ってか音量はかなり低く、テレビ画面に映った人物が何を云っているのか理解出来ない。
テレビのスクリーンは壁一面に張られた窓で、そこに映し出されているのはシンの父親にして政府高官でもあるヨーウィス・ライザーの姿だった。声は聞こえなかったが多分、前日に衛星連合が発表した声明文に対する発言だろう。心なしかヨーウィスの顔が普段に比べて強張っている。
後ろ姿のため、シンの表情を見ることは叶わないが、やはり心境は穏やかではないのだろう。彼がまとう空気は普段より重く感じられた。
しばらくその背を見ていると、そのことに気がついたのかシンが振り返った。
ぱちんと電源をおとし「起きた?」と訊く。窓はテレビの役目を終え、すっかり日の落ちた夜の庭を映し出した。おもむろに頷くと、シンは椅子を引いて立ちあがり、スリッパをパタパタと鳴らしてやってきた。
「見ろ、セッティングは完璧だぞ」
自慢げに指差す方を見ると、確かにダイニングテーブルの上にはすっかり食事の用意が整っている。
ヘルパーマシンたちも夕飯開始の合図までおとなしく待っていた。
その様子にかつての家族のひとときを思い出し、朔夜は胸が熱くなるのを感じた。
「お前たち、天才だな」
真っ白なスープの中で豆腐やら野菜やらがグツグツ煮立っている。シンはそれを見るなりヘルパーマシンの頭を撫でた。
「鍋なんて誰でも作れる」
ヘルパーマシンのアームが菜箸を器用に操りながら二人の前に取り分けた皿を出した。シンの皿には彼が異様な執着を示した白菜が乗っている。
「おれたちじゃ出来なかっただろ。自慢じゃないがおれは生まれてこの方、料理などというものをしたことがない」
「本当に自慢げに云うことじゃないね」
「じゃあ朔夜は出来るのか?」
「鍋くらいなら出来る」
茹であがった鶏肉を箸で切って口に運びながら、朔夜はシンを盗み見た。
猫舌なのか、シンは摘んだ野菜に盛んに呼気を吹きかけている。
「じゃあやればよかっただろ」
「やればって何でおれがあんたのために料理を作らないといけないんだよ。これだからお坊ちゃんは」
「またそれ」
シンはいやみよりも「あんた」呼びに反応した。
「仕方ないだろ、慣れていないんだ」
「呼んでいれば慣れる」
傲岸不遜な台詞を吐く少年を尻目に、朔夜は野菜と肉を掻き込んだ。ヘルパーマシンが空いた皿に野菜を盛った。
鍋と双方の小皿から立つ湯気はダイニングの上空をあっという間に覆い隠し、窓と映像スクリーン両方の機能を兼ね備えたガラスを曇らせた。
外寒そうだな、とつぶやくシンの声に朔夜は少なからず驚いた。
シンが発する言葉にはときおり自分の現在の心境を代弁するようなものがある。かつては朔夜をいたずらに苛立たせるだけだったそれも今では何も感じない。
相当毒されてきたな。
朔夜は絡めた指の上に額を乗せ、嘆息した。
「腹でも痛いのか?」
鍋の底に沈んでいる物体を箸の先で探索しながらシンは云った。
見当違いのその言葉に先程感じたことは誤りだったのかもしれないと思う。
止まった手を再び動かして、クリームスープに浸かった鱈の身を切り分ける。ひきこもり時代には面倒だと思い、設定すら行わなかった料理だったが、こうして作ってみるとレトルトより遥かに美味しい。材料費も安くつくし、次回から在宅の際は出来るだけマシンたちに作らせてみようという気になった。
最後にうどんを入れ、鍋の底の底までさらうとすっかり腹は満たされた。
ソファの背にどっかりともたれ、目をつむる。胃に充満している食べ物のせいで動く気にならなかった。
シンは意外と食べるのが遅く、椀に残ったうどんを頬張っている。やはり家柄が良いだけあり、箸の使い方も綺麗だった。白い光沢が照る麺をするっとすすり、味わうようにして噛みしめる。見ているだけで顎が良くなりそうなその様子から目を逸らし、窓側に視線を移した。
ガラスはいまだ白く曇っていたが、その合間から見える闇は先刻見たものとは少し違っている。
朔夜は何が違うのかを確かめるように目を細め、窓を凝視した。
「雪」
朔夜の疑問を払拭するようにシンの声がかかる。心を読んでいるのではないかと思うほど、見事なタイミング。ぎょっとする朔夜にシンはふっと笑いかけると、今夜は大雪になるらしいぞ、とつぶやき再び箸を動かした。
食事が終わり、マシンたちが片づけにいそしんでいる間テレビをつけた。窓に投影されたテレビでは殺人事件ドラマをやっていた。
幼いころから弟にコンプレックスを抱いていた兄が成長してもその思いから逃れることが出来ず、一人の女性を巡る過去の記憶との狭間でがんじがらめになるという話だった。全く関係がなさそうな場所で起きた殺人が兄の抑圧された意識と絡み合い、それが事件の解決に大きく関わってくる。
朔夜は設定が自分と似ているような気がして、何となく居心地の悪い気分になった。
食後のデザートとしてみかんを頬張っている間に物語は佳境を迎えた。
タコ足状に剥かれたオレンジ色の皮が無造作に転がるテーブルの上に肘をつきながらシンは画面に見入っている。
最新の科学技術の投入、狙われた兄を庇い負傷する弟、殺人だと思われた事件は実は自殺だったことなど、大して面白くもない展開が続く。そして極めつけは最後の事件を通して兄弟の絆を再確認させられた二人は、これからはもっと助け合って生きていこうと誓い合うのだった、という落ちである。
こんな兄弟、世の中にいるかよ、と朔夜は思わず毒づきたくなった。
「現実でもこうならいいんだがな」
エンドロールが流れる画面を凝視しながらシンはつぶやいた。
「何の話?」
「いくら兄弟間でも一度出来た溝は早々簡単には埋められないって話だ」
「あんたのとこ、仲悪かったんだっけ?」
「最悪。特に一番上のルーカス兄上とは仲が悪いどころの騒ぎじゃない。あいつはライザーの名前がなかったら今頃殺人未遂容疑で六回は逮捕されている。上二人の兄もあいつに殺されかけたんだ」
「……危険人物すぎだろ。しかもあんた今さらりと危ないこと云ったし。一般人に被害が行く前に突き出さないといけないんじゃ……」
「突き出せるならとっくにしている。ライザーの名に傷がつくのが嫌なのか何だかわからないが、本当に理解不能だ」
シンは顔をしかめながらおもむろに懐を探った。現れた手には銀色の銃が収まっている。見たことがない形だった。
「外に出るときはいつも持っているように云われているんだ」
「銃の携帯は禁止されてた気がする」
「ライセンス保持者は登録さえしていれば外に出るときは返してもらえる」
「ライセンス?」
「特級だぞ」
自慢げに云い切り、シンは銃をしまった。朔夜は隣に座る少年が特級ライセンス保持者だったということよりも、そんなものを必要とするくらい殺伐とした人生を歩んでいるということに驚いた。
ライザーの血族にあたる者ならさぞかし優雅な生活を送っているだろうくらいにしか思っていなかったからだ。
ということは、これまでの事件の数々はこいつを狙った刺客だったということか?
脳裏にふっと閃いたそれはあまりにも的を射ていた。というよりそう考えた方が現実的だ。夢の中で交わした会話が原因だと思う方がどこかおかしい。
馬鹿だ。
朔夜は自分の早とちりと非現実的な考えに捕らわれたという情けなさで、体から一気に力が抜けるのを感じた。脱力してソファに背に身を預ける朔夜を見て、シンは思い違いをしたらしい。神妙な面持ちでこう云った。
「おれがお前より銃器の扱いに長けているのはそのためだ。追試をくらっても気に病む必要はないぞ」
事件の犯人がゆえではないとわかった以上、朔夜にはシンと共同生活をする理由はなかった。
もともと嫌々ながら呼び寄せたのだ。明日にでも帰ってもらうことなどわけない。
自分の発言が原因でシンが死んでしまったら後味が悪いだろう何てことももう考えなくてもいいわけだし、いざ狙われたときにどう対処すればいいか、なんてことでも悩まなくてもいいのだ。これでもうこいつと関わり合いにならなくて済む。これまで通り他人と極力関係しない人生を歩むのだ。
朔夜は安堵の溜息をつこうとしたが失敗した。肩の荷が下りたはずなのに心の中にわだかまった何かは溶解しない。
まさかもうこいつを受け入れてしまったのだろうか。
そう思うと苛々したが、それでもそれはかつてのものとは比べ物にならないくらい大人しい感情だった。
「――追試かどうかなんてまだ分からないだろ、結果が出るのは休み明けだ」
「いや間違いない。だってスコア見たろ? あれで合格する方がおかしい」
くすくすと笑って、シンは鉢に盛られたみかんの山に手を伸ばした。
中空をさまよった挙句に選び取った艶やかな果実を親指だけを動かして剥いていく。薄皮ごと食べる主義らしく、シンはあらわになった実をそのまま口に含んだ。
「――お前のところは兄弟仲よかったのか?」
スクリーンの中では最近売れ始めている何とかという歌手が化粧品の宣伝をしている。
髪を緑に染め、目も同じ色にした彼女の服は銀紙のような激しい光沢のワンピースで、他の星から来たエイリアンのように思えた。
「……よくはない」
曖昧な返事に、向かいでみかんを頬張る火星人は少し目を細めた。それから口に入れたみかんをこれまでと同じテンポでゆっくりと咀嚼し、嚥下する。こくんと小さく咽喉が動くのが見えた。
「そうか」
掌の上に残った最後の一切れを親指と人差し指の間でもてあそびながら、シンは朔夜をじっと見つめた。
何故こんな至近で話しているというのに嫌悪感を覚えないのだろう。
他人と話すときに必ず感じるような透明で堅い壁は酷く薄くて、ややもすると壊れてしまいそうだった。ナーサリーの同級生やヤーンスの人間を始めとする他人には鉄壁の強度を持っているはずの壁。
それがシンを相手にするときだけはひび割れてしまっていてあまりにも頼りない。
いつか壁がなくなってしまう日が来るのではないか。
朔夜にはそれがとても恐ろしいことのように思われた。
何が怖いのかはよく分からない。ただ体内に内蔵された感知器は激しく明滅していて、今すぐ縁を切れと騒ぎ立てている。壁は崩れてはいけないのだ。誰の前でも強固にそびえ立ち、こちら側には一ミリたりとも踏み入れさせてはならない。
朔夜は頬杖をついた指の合間からテーブルの向こうにいる少年を盗み見た。
テーブルの上には散乱するみかんの皮があって、細い指がそこに新たな数を加える。一体いくつ食べれば気が済むんだと朔夜が指の間から見ているとシンは大きく溜息をついてソファの背にどっかりともたれた。癖のついた明るい金髪がクリーム色の生地の上にゆるく広がる。
ぎくりとしていると、シンはそのままの姿勢で首だけを朔夜の方に向けた。
「ナーサリーに来る前、自分の中で賭けをした」
盗み見ていたのがばれたのか、シンの目は面白そうな色を湛えていた。朔夜は頬杖をやめ、顔をひそめてシンを見た。
「賭け?」
「うん。本名を見ても動じない人間がいたのなら、相手がどんなに嫌がっても絶対友達になろうって」
「迷惑すぎる話なんですけど……」
「でも、しつこく迫ったおかげで朔夜とは友達になれた」
「友達?」
「違うのか?」
ソファの上部にもたせかけていた頭を離し、シンは少しむっとしたように反問した。
「こういうふうに向き合って話しても、まだ通りすがりの人間と同じか?」
感情豊かな大きな目が朔夜を見あげる。朔夜は何も答えなかった。
通りすがりでないことは確実だが、友人であるとは全く思わないし、大体なりたいと思わない。
休暇をともに過ごしているのだってそうしたいからなったわけではなく、ありえない妄想を信じた結果の不可抗力だ。この休暇が終わればまた元の関係に戻る。そしてシンは他人の中の一人として大勢の中に埋もれる存在なのだ。思いあがってもらっては困る。
「素直に友人だって認めろよ」
「……」
「ひねくれもの」
答えようとしない朔夜にシンは揶揄するように云って笑った。
明るい声がそのまま水泡のような透明な粒となり、朔夜の前で弾ける。その一つ一つが彼の神経に直接触れ、相手との繋がりを明確にした。実の両親との間にさえ感じていた壁が今はパラフィンのように薄い。
吹けば飛んでしまうほどのその膜がかろうじて相手が自分とは違う他人だということをわからせてくれていた。
今、空間を共有しているのは間違いなく自分と他人、二人いる。そのはずなのに何故、こんなにも隔たりが薄いのだろう。
人にはそれぞれ自分だけのパーソナルスペースがあって、それは薄い色がついた透明な球体をしている。相手との接合を拒むと球体は強度を増し、擦れた嫌な音を発する。
朔夜はそれまで、射程距離に入りそうになる人間が現れるたびに条件反射のように球体を凍らせていた。
ダイヤモンド並みの強度を誇るそれを打ち破れた者は朔夜の記憶の範疇ではいない。
いつからそんなふうに頑なになってしまったのか、それは朔夜自身もよく分かっていなかった。
気がついたときには他人と自分とのラインは明確に分かれていて、近付こうとしても摩擦音があまりにも不快過ぎて、どうにも歩み寄れなかったのだ。
境目は歳を経るごとに顕著になっていき、同じ場所に立っていても自分の周りには常に深い谷が存在しているようになっていた。
人の声はいつだって遠い場所で鳴いている蝉の声のように希薄で、生きている実感に欠けている。
実は地球はとっくの昔に滅びていて、生存している人間が自分だけだと告げ知らされたとしても漫然と受け入れるだろうと思うくらい、朔夜にとって他者の存在は薄かった。
しかし、シン・ライザーは違っていた。こちらがいくら拒もうと、交わす言葉は大気に溶け、混ざり合い、空間を同一のものに塗り替えてしまう力を持っている。
異質なもののはずなのにともすれば己の一部のような、そんな不思議な感覚がそこにあった。
これが友達ってやつなのか?
朔夜は首をかしげた。
そういう感覚は前にもどこかで味わったことがある。言葉を交わす間に必ず生じる齟齬ですら自然に修復してしまう力を持った不思議な空間。他人に対していつも意識しているはずのパーソナルスペースもそこには存在しない。そうだとしたら友人関係とは案外心地のいいものかもしれないなどと朔夜は思った。
しかしこの感覚を享受するようになってしまったら、のちのち後悔することになるだろうとも思った。
不安定なその感情から逃れるように朔夜は身じろぎをした。
ナーサリーにいるときは欠かさずに行っていたトレーニングをここに来てからは一回も行っていない。そのつけがきたのか、上体を起こしただけでも軽い疲労感を覚えた。
朔夜は吐息をこぼし、鉢に手を伸ばすシンに視線を向けた。
「あんた、一体いくつ食べたら気が済むんだよ」
「仕方がない。体が求めているんだ。不足している成分は補わなくてはならない」
もぐもぐとせわしなく口を動かしながら、シンは新たなみかんを剥いていった。
鉢に盛ってあったオレンジ色の山は今や、谷型と化している。上着の下から覗く体はびっくりするぐらい華奢なのに、シンはよく物を食べた。
スクリーンに映し出された新たな番組は二人の好みに合わなかった。適当にチャンネルを替えては、適当なところで止めて見入る。
そんなことを繰り返しているうちに睡魔が襲ってきて、朔夜は何度か欠伸を噛み殺した。
「眠いのなら無理に起きている必要はないぞ?」
幾度目かの欠伸を手で抑え、眠気に耐える朔夜にシンは云った。
「あんたはどうするの?」
「朔夜が寝るんだったらおれも寝る」
眠気など微塵も感じていないような顔でシンはしれっと返した。
「じゃあ、寝るぞ。あんた風呂は入るの?」
「入る」
洗面所に向かうシンの後から朔夜もついて行った。使い捨てのコップに洗浄液を垂らし、水で薄め口をすすぐ。朔夜はコップを手に取るシンを鏡越しに見ながらぼんやりとした気分で呼びかけた。
「ねえ」
「何だ?」
鏡越しで目を眇める少年を見て、朔夜は自分が何を云い出そうとしたのか分からなくなった。
眠いせいか脳が上手く機能していないのだ。覚えていないくせに、何かのきっかけがあったら思い出すような気がして気分が悪い。
朔夜は咽喉に小骨が突っかかったような気分を味わいながら「何でもない」と云った。
「変なの」
「眠いから」
シンは笑い混じりにふーんと返すと、朔夜がしたのと同じように洗浄液をコップに入れた。透明な液体が淡い緑色に染まる。微かに薄荷の匂いがするそれを口に含み、シンはガラガラと音を立ててうがいをした。そしてよろよろと去っていく朔夜をわざわざ振り返って見る。
朔夜が何だよと渋面するとシンは首を傾けて笑った。わけが分からない。朔夜は眉をひそめてきびすを返した。
「おやすみ」
心臓がどきりと跳ねたのが分かった。
動揺したことを悟られないようにそのまま歩みを進め、階段をあがる。
たわいない挨拶のはずなのに、なんだかとても心地が良かった。
部屋に戻り、着替えもせずに寝台にうつぶせる。包み込むように柔らかな言葉が耳に残っている。
朔夜はそっと耳殻に掌を寄せると静かに目を閉じた。
◇
その街はいつでも青い大気に包まれている。誰一人として住んでいない無数の家並みに、一台の車も通らない車道。巨大な塔を中心として円形に広がる街は常に耳が痛くなるほどの沈黙と身が張り裂けんばかりの孤独に支配されている。
時折吹く、冷たい風がその雰囲気を助長する。
数カ月ぶりの街の空気にぶるりと身を震わせ、朔夜は掌に呼気を当てた。藍色の車道に映る紺碧の小さな影が、それにともない微かに揺れる。
影が小さいのは体がこの世界にやってきた日から成長していないからだ。
家族全員を突然失った忌まわしいあの日――
朔夜はくしゃりと顔をゆがめると、ベビーブルーのパジャマに覆われた自らの体から視線を外した。
こんなに時が経っているのにここに来てこの姿を見ると、いつもあの日のことを思い出してしまう。
息が出来なくなるほどのショック状態に陥ることはなくなったが、時折杭を打ち込まれたような痛みを心臓に感じることがあった。いつになったらあのころから抜け出せるのだろうか。
自嘲気味に片側の口角をあげていると、不意に皮膚をかすめる冷気に混じり、ふわりとした暖かな空気が頬を撫ぜた。
何だ?
朔夜はその柔らかな空気に導かれるようにして顔をあげ、息を飲んだ。
烟るような青い直線道路に、きらきらと輝く白い人影が佇んでいる。
今朝方見た、純白の雪のように穢れのない白。それ自体が発光しているようにきらめく白い空気を身にまとい、少女は音もなしに現れた。
「…ゆえ……?」
つぶやくようにその名を呼ぶと、光の靄の中で少女は泣きそうな顔をした。青い目をゆがめて震える唇で声を紡ぎ出す。
「久しぶり、朔夜……会いたかった…」
云い終わるか終わらないかのうちにゆえは朔夜の首に縋りついてきた。
服の裾がふわりと広がり、夜陰の中に真珠のような光をこぼす。慣性が働き、朔夜はゆえに抱きつかれたまま、中空を移動した。
「どうして…今まで……」
「朔夜の心が拒否していたから、側に行けなかった」
「……ごめん」
朔夜の謝辞に、ゆえはゆるく頭を振って応えた。
「来てくれたから、もう……いい」
伏せていた顔をあげ、ゆえは朔夜の頬に自身のそれをこすり寄せた。
「本当に……会いたかった…」
幾度も告げられるその言葉は回を重ねるごとに上擦ったものになっていった。
夢の中とはいえ、ここの時間は現実と同じように流れている。
誰もいないこの空間でたった一人、自分が来ることを信じて待ち続けていた少女。
そのことを考えると朔夜は、この少女がたまらなくいとおしい存在に思えた。
だらりと垂れた手に力を込め、のしかかる細い体を抱きしめる。
「ごめん」
大きな双眸が一瞬、驚いたように見開いた。だが、それはすぐに嬉しそうに細められた。年齢相応の頑是ない笑顔。晴れやかで自信に満ちたシンのものとはまるで異なるそれに、朔夜はどきりと心臓を躍らせた。こぼれるような微笑を湛えたまま、ゆえは朔夜の肩口に顔を埋める。
「――少しの間、こうしていて」
「……ん」
誰もいない街の道路で抱き合ったまま、二人はしばらく中空を惰性で移動した。
dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……




