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Moon Child  作者: かゆき
第四章 星に願いを
22/89

3

 向かい合わせでデリバリーのラーメンをすすったあと、二人は二階にある朔夜の部屋へ移動した。

 客間がないので最初、朔夜はシンをリビングで寝かせようと思っていたのだが、当人がごねたのでこういうことになった。



「望遠鏡だ」



 部屋に入るなり、シンは(のぞむ)のものだった天体望遠鏡に近寄った。

 寝台に寝転がりながら見られる移動式のそれは六回目の誕生日に両親が弟にプレゼントしたもので当時の最新型だった。慣れない手つきで組み立てた望遠鏡を一番始めに見せてくれたのを覚えている。



―――朔、見える? あれがジェミニのアルファとベータだよ



 双子座の星を指差す手がそう告げる。



―――ずっと一緒にいられるように星にして貰ったんだって



 双子座の金と銀の星を見るたびに自分はあと何年生きられるのだろうか、と考えたりした。

 しかし実際死んだのは望であり、朔夜は薬を常用しながらも何とか生きている。



「雲が多過ぎて見えないな、さっきまでは綺麗な星空だったのに」



 寝台をきしりと鳴らし、シンは望遠鏡から目を離した。


 自身のベッドで端末を開いていた朔夜はその声に顔をあげた。視界の中のシンを見て眉根を寄せ、折りたたみ式のテーブルの上に置いた茶に口をつける。


 枕元に取りつけられた明かりの光源が強いせいか、液体はほんの少し黒ずんでいた。

 天井の明かりを受けてぬめるように照るそれを見て、朔夜は眩暈にも見た感覚を覚えた。

 くらりとする頭を押さえてテーブルに肘をつく。


 あじけない白のテーブルは物心ついたころからそこにあったもので、お世辞にも綺麗とは云い難い状態にあった。


 朔夜は落書きとしみがいたるところについたそれを見て、急に恥ずかしくなった。

 望が使っていた寝台には同じものが設置してあり、記憶によるとかなり色々なものが描かれていたはずだ。



 眩暈はまだ気持ちの悪い余韻を頭に残してはいたが、羞恥心はそれを上回った。

 朔夜は頭に宛がっていた手を外し、目に触れる前に対策を講じようとシンの方を向いた。



「ラ……」



 名前は最後まで呼べなかった。肩に何か温かいものが落ちてきたからだ。


 シンはかつて望が使用していた寝台の上に寝転がり天窓を眺めている。

 その様子を視界に入れながら朔夜は左肩に手を伸ばし、指でその湿った部分に触った。


 ぬめっとした感触が指先に触れる。嫌な予感がした。


 震える手をゆっくりと膝の上にかざし、恐る恐るそれを見る。広げた指の合間から黒ずんだ液体がボタボタと落下してシーツの上にしみを作った。真っ白なキャンバスに暗赤色の花がパッと散る。



―――朔



 朔夜は声がした方に顔を向けることが出来なかった。


 後頭部に水気をたっぷりと含んだ何かがべちゃりと張りつき、直後に生温く湿った手がうなじをかすめたからだ。

 朔夜はヒッと咽喉(のど)をひきつらせ、どす黒く変色した小さな腕を見た。

 首に巻きつけられたそれはかろうじて肌色が見えるほど変色していて、人の腕とは到底思えないような形状をしている。



―――朔



 きつい鉄の臭いとともに真っ赤に濡れた顔が後方から覗いてくる。


 どろどろした赤黒い塊がぼとぼとと落ちて髪や肩、頬に付着した。


 シーツやテーブルの上はすでに血まみれの肉塊でべちゃべちゃで、茶の入った容器の縁にもレバーのような物体が覗いている。

 見ているだけで胃の中の物を戻してしまいそうな凄惨な光景だった。


 朔夜は強張った口からしゃっくりでもするようにかすれた声をあげ、目を見開いたまま硬直していた。

 体が破裂しそうなほどの恐怖が全身を覆い隠しているのに、気絶することも出来ない。



―――何で……



 望は首に絡めた腕にぐっと力を入れ、朔夜の目をその小さな手で覆った。視界が真っ赤に染まり、それから一気に暗くなる。


 画面はいつまでも暗いままだったが慣れてくると、それは黒ではなく紺であることに気がついた。夜の闇のように深い青。冷気さえ感じるその青は脳裏を埋めつくし、体の内部にまで染み渡ってきた。キンとした痛みがこめかみの辺りを幾度となく襲う。


 朔夜は頭を押さえながら、画面の中に人影があるのに気がついた。

 氷のように冷え切った青の空間。そこに子供が一人立っている。


 薄い上着と厚手のスラックスを身にまとったその子供は朔夜と同じ顔を悲しげに曇らせ、こちらを見ていた。



「…望……」



 朔夜が発したその言葉に子供はゆっくりと首を振った。

 青い闇の中に浮かびあがる白い肌。彼の姿はぼんやりしていてよく見えなかったが、朔夜には何故か弟が口を歪ませていびつな笑みを見せたのが分かった。



―――朔夜、だよ



 はっとして朔夜は目が覚めた。


 涙が溜まっているのか、視界は水の中から見ているようにぼやけている。


 ゲル状の物体はまばたきをするたびに収縮し、少しずつ画面の上の霞を取っていった。


 朔夜は汗まみれの顔と濡れたまなじりを手の甲で拭いながら、水面からこちらを心配そうに覗き込む少年を凝視した。



「うなされてたぞ」



「分かってる!」



 肩で息をしながら朔夜はシンに向かって怒鳴った。


 あたっているということは分かっているのに自制出来ない。


 興奮した様子の朔夜にシンは少し顔を曇らせ、肩に手を置いた。



「朔……」



 間近で呼ばれ、朔夜はびくんと体を震わせた。



「やめろよ!」



 朔夜はもう一度吐き出すようにして怒鳴ると、真上にいる少年をどかして体を起こした。

 身につけていた衣服は汗でぐっしょり濡れている。そのままでいるのは大層気持ちの悪いことだったが、他人の目の前で突然脱ぎ始めるわけにもいかない。


 朔夜は汗で皮膚に張りついたシャツに不快感を示しながらテーブルの上のカップを取った。卓にもシーツにも赤黒い肉片はこびりついていなかったが、先程幻覚を見たせいか、どうしても血で溢れているように見えてしまう。朔夜は両手でぐっと容器をつかむと、ゆらゆらと揺れる容器の中の液体を見つめた。



「そうやって呼ぶの、止めてくれない」



 言下に容器の中身を一気に飲み干す。甘くてざらついた感触が舌に張りついた。



「死んだ弟を思い出すから」



 朔夜は思うままにならぬ感情に苛々しながら怒鳴った相手を見た。

 シンはわずかに肩を震わせたものの以前のようにひいたりはせず、黙って朔夜を見返してきた。

 その表情にかつてのような怖れはない。しばし睨み合うように互いを見たのち、シンはふいっと視線を外した。



「悪…かったな……」



 それは小さな声だった。私憤をぶつけたという自覚があるため、何か云われるかと思い、構えていた朔夜はその様子に拍子抜けした。



「でも、おれはお前のことを名前で呼びたい。――朔夜、でもいいか?」



「え…ああ……」



「良かった」



 シンはほっとしたように笑い、風呂貰っていいかと小首を捻って訊いてきた。


 あまりに唐突なその台詞に朔夜はいささか戸惑った。しかし風呂ごときで返事を迷うというのも馬鹿馬鹿しい気がしてすぐに頷く。


 シンはほっとしたように微笑み、やおらきびすを返した。


 持ってきたトランクから着替えや洗面道具を出し、着々と準備を整える。故意に話題を逸らそうとしているのが分かったため、それ以上は訊けず朔夜はシンの行動を黙って見ていた。


 見ているうちに何だかくすぐったいような気分になって、胸元を爪で引っ掻いた。



 ◇



―――ノゾム



 バスタブに身を沈めながらシンは朔夜が寝言で云った名前を思い出した。


 来客の青年の備考欄に記載されていたデータから推察すると、朔夜が死んだと云っていた弟のことだろう。


 シンは浴槽に張られた湯を両手ですくい、わざと音を立てるようにしてそれを流した。

 白い湯煙の中、ぱちゃんと音がして水面に飛沫が散る。その音はガラスで仕切られた円柱形の風呂場いっぱいに広がり、耳の奥に余韻を残した。


 浴室の中は外から注ぎ込むレモン色の光と内部に溢れた濃霧でぼんやりとしている。天井も壁面も室内に立ちこめた煙とそこから発生した水蒸気で不透明になっていて、そこから外の様子を窺い知ることは難しい。


 シンはぐるりと浴室を見回すと、特に意味もなく湯をちゃぷちゃぷと掻き回した。バスタブ内で稼動するマッサージ機が慣れない旅で疲れてしまった体をほぐしてくれる。シンは指を絡めると、腕を天井にあげて伸びをした。


 つなぎのような形状をした不透明なソープウェアが真珠のような光沢を放っててらてらと光る。

 浴室の一角に設置してあるチューブ状の機械に入ることで身にまとうことが出来るそれは、石鹸で作られたジャンプスーツで、湯に浸かることで溶解し、表面上の汚れを取ることが出来る。

 コロニー生活で多用されたとされるそれは、地上に帰還し数百の年月が過ぎた今ではほとんど使われていない。


 シンは下膊(かはく)を鼻に近つけてくんと匂いを嗅ぐと、いい香りと目をつむった。


 とろとろした気分が体をはぐし、湯の中に溶けていく。濡れた髪の先から雫が幾度もこぼれ、湯気の立つ水面を穿(うが)った。

 ぽちゃんぽちゃんと浴室に響くその音をうっとりとした気分の中で聞きながら、シンは朔夜のことを考えていた。



―――あんたの名前、珍しいね



 それは予定の時刻から二時間も遅れてやってきた少年が初めて発した言葉だった。


 他人を遮断する冷たい顔立ちに何も映していないようなその眼差し。

 初めて会ったときから朔夜は影のある少年だった。

 紫がかった茶色の目は現実世界を見ておらず、他人を映していないような気がした。けれど決してナルシシズムの傾向があるというわけでなく、そればかりか自分のこともよく分かっていないようだった。

 しかも朔夜はおのれのことで混乱し、それに苦しんでいるように見えるときがあった。


 シンはその原因をヤーンスに来る前に直接本人から聞いた家族の交通事故死にあると見ていた。


 一時に全てを失い、孤独に苛まれたであろう子供時代のことを思うと仕方のないことという気はする。


 シンも片方だけとはいうものの、肉親を亡くしている。見たことがないとはいえ、その喪失感は尋常ではなく、ちょっとしたことで酷い孤独感を味わったりしたものだった。


 母親だけでそうなのだから、数時間前まで話していた家族を突然失った少年の絶望は想像を絶するものと思われた。



「朔夜……」



 シンはちゃぷんと肩まで身を沈め、濡れそぼった前髪を指先でいじった。


 淡青色(みずいろ)の水面はゼリーのようにフルフルと震え、白い蒸気が香りをともなって鼻腔をかすめる。


 シンはその香気を体の内に取り入れるように深く息を吸い、眉間に深く皺を刻んだ。


 あのうなされ方はただごとではなかった。


 肌にひたひたと寄せる水の音を聞きながら、シンは洗面所で倒れていたときの朔夜の様子を思い出した。


 あのときのうなされ方もちょうど先程と同じだった。痙攣するようにがくがくと震え、大量の汗をかきながら何事かをつぶやく。


 朔夜は何でもないようなそぶりを見せてはいるが、その異常は明らかで、シンは今すぐ病院で診察を受けた方がいいと思っていた。

 しかしそんなことを云おうものなら、朔夜は顔をひそめて「あんたには関係ないだろ」と云い放つに決まっている。

 それはまだ口に出していない現段階から予測出来るもので、シンはその時の朔夜の表情まで思い浮かべることが出来た。


 シンはナーサリーに入学してから幾度となくその表情を向けられた。

 それは他の生徒たちには決して取らない態度であり、シンはそれを見るたびに不思議な気分になったものだった。人嫌いのはずの人間にどうしてそこまでされるのだろう、と。


 けれども不思議といえば今回の件に勝るものはない。


 始まりはナーサリーでの度重なる事件だった。ガラスが割れ、機械の誤作動が起き、銃が爆発して、一抱えもあるような枝が落ちてきた。


 アスガードにいたころならば何も不思議ではないのだが、宇宙空間に浮かぶ要塞サテライトAにまでわざわざ暗殺者を送り込んでくるだろうか。たとえ暗殺に成功してもすぐに身元が割れてしまう気がした。リスクを考えると、不幸な偶然が重なった結果であると考える方が可能性としてはまだ高い。


 気味が悪かったもののシンもそれで無理やり納得していた。


 しかし朔夜は違っていた。


 彼は何故かそれらの事件を自分のせいだと思っているらしく、何かが落ちてきたり割れたりする度に当事者であるシン以上に顔面を蒼白にさせていた。


 確かに朔夜が側にいると事故の発生率は極めて低くなる。というよりもゼロだった。


 しかし事故と朔夜に関わりがあるとは思えず、シンはどうして彼が悩んでいるのか分からなかった。分かっていたのは朔夜が自分とともに行動していれば事故は起こらないと考えていることだ。


 今回のヤーンス行きも多分その考えを忠実に実行しているのだろう。シンには朔夜のその考えの自信がどこから来ているものなのかさっぱり分からなかったし、そもそもそう思うこと自体が不思議だった。



 何か知っているのだろうか。



 考えてはみても所詮は憶測に過ぎない。本人の口から聞く他はなく、訊いても十中八九朔夜は答えてはくれないということは分かっていた。それでもシンは朔夜について知りたいと思った。そうすることで朔夜がうなされる夢の正体も明らかになるかもしれないし、事故の真相を知ることも出来るかもしれない。

 

 けれども、そんなことを思いながらシンは実はそれが建前に過ぎないということを分かっていた。本当は純粋に朔夜のことが知りたいだけなのだ。



「でも…」



 濡れた髪からこぼれた雫が頬を伝って、顎門(あぎと)に溜まる。



「余計なことなんだろうな……」



 大きくなった雫はその重みに耐え切れず、唐突に落ちた。熱い湯気が漂う水面を穿(うが)ち、一瞬だけ透明な花を咲かせる。つぶやきは微かな余韻をともなって浴室に広がった。



 ◇



 朝、寝台がきしむ音で目を覚ました朔夜が最初に見たのは、向かいのベッドの上で膝を折り、座り込むシンの背中だった。


 何をしているんだ、と霞がかった脳でぼんやりと考える。



 空調のきいた室内は適度に暖かく、寝起きの悪い朔夜などともすれば眠ってしまいそうだった。あくびを幾度か噛み殺し、何となしに薄暗い部屋の中を見回す。



 二台のベッドと移動式の天体望遠鏡の他は自動扉しかない簡素な部屋は、両親が生きていたころにはもっと雑然とした空間だった。望がどこからともなく収集してきた様々な物体――朔夜にはゴミにしか見えなかったが――で周囲を埋めつくされていたからである。


 朔夜は同い年であるにもかかわらず、弟が楽しそうに読破していく本の内容が理解出来なかった。

 この子は天才だ。小難しい本を片手にその内容を語ってみせる望に浴びせられた賞賛の言葉――朔夜は両親が口にするそれを聞くたびに仕様もない劣等感に苛まれた。


 嫌な思い出だ。


 朔夜はふっと溜息をつき、布団の中で身じろぎをした。

 

 体の重みでベッドが沈み、暖められた空気が皮膚にまといつく。朔夜はそこで初めて大気がいつもに比べて軽いことに気がついた。重力が低くなったような不安定な感覚が体全体を包み込んでいる。それは辺りを包む静寂とともに朔夜の心を波立たせた。



「何、やってんの?」



 どうにも落ち着かなくなって声をあげると、シンは少し驚いたようにこちらを見、それから微笑んだ。



「雪が降っているんだ」



 寝台の脇に備えられている窓は白い。横に長い矩形(くけい)状のそれを指差し、シンは視線を戻した。



「雪……ね……」



 寝癖のついた髪をいじりながら朔夜は身を起こす。窓はちょうど目の高さにあったが、水蒸気により白く曇っていた。しとどに濡れたそれを掌で拭う。手は当然のように濡れたが、それと引き換えに外の様子があらわになった。


 一面の銀世界――昨日とは様相を一変させた外の光景を見て、朔夜はわずかながらに表情をゆるめた。

 ヤーンスは東部でもやや北よりの方角に位置しているため、サテライトAよりも早めに冬が到来する。もう何年も見てきたおなじみの光景だ。


 朔夜は視界を広げるために窓をもう一回り大きく拭い、しばしそれに見入った。次から次へと降り注ぐ雪。縦幅が短い窓からは落ちてくる過程のみが見えるだけだ。



「首都も北区だろ、雪ぐらい見られるんじゃないの?」



「アスガードはドームで覆われているから雪が降っていても見られないんだ」



 シンは窓に釘つけだった視線を外し、わざわざ振り返りながら云った。首都など行ったこともなければ見たこともない朔夜にとってそれは初耳だった。ふーんと頷くとシンはそれを侮蔑だと勘違いしたらしい。急にむっとした表情をする。



「――もちろんホログラムでは見たことくらいあるぞ。本物が初めてなだけだ」



 云っている間にも興奮しているのか、くるくると表情が変わる。その顔は十四という年齢に相応しいもので、朔夜は何となくおかしくなった。



「散策、してみる?」



 家の中にいてもすることなんてないし、大体ついこの間まで話もしなかったような他人と向かい合わせで長時間座っていることなど出来そうにもない。

 朔夜はシンと少しでも長い間喋らないようにするために声をかけたのだが、返ってきた反応は想像以上のものだった。



「いいのか?!」



 アーモンドのように大きな双眸がきらきらと輝く。


 シンは窓辺から視線を外すなり朔夜の元にやってきて、ベッドの上にポンと乗っかった。

 そして朔夜の目の前で折り目正しく正座をすると、「本当なのか?」と妙に改まった口調で訊いてきた。緊張したようなその口調とは裏腹にシンの瞳は期待に満ち満ちている。猫のように尖ったその目を前にして朔夜は酷く戸惑った。



「え、あ……、ああ」



 今さら駄目とは云えない。シンはその言葉を聞いてますます顔を輝かせた。



「絶対だからな!」



 朔夜には頷くしか道が残されていなかった。


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