第十七話「死の香りへの反応」
「――昨日、フィディア=ヴェニシエスと治療をした方の容態を確認したいのですが……」
翌日、昨日の治療した様子を見るために療養所へとやって来たラリカは、手近にいた女性に声を掛けた。
「……少々お待ち下さい」
寝台の上に横になっている患者の額に当てていた布を取り替えていた女性は、桶に張った水で布を絞り出してからこちらを向いた。
「――ラリカ=ヴェニシエスっ! ――ッ失礼しました!」
「ああっ――そのままで大丈夫ですから!!」
狼狽しながらその場に膝を突き、礼を取ろうとする女性を、慌てた様子でラリカが制した。
ここではファラスをつけていないときは礼を取る必要がないと聞いていたが、とっさにラリカの姿を見て体が動いてしまったようだ。
「大変そうですね? 私も何か手伝いましょうか?」
「め、め、滅相もありません!」
女性の手元にある大量の水が入れられた桶を覗き込みながら、ラリカが何気なく手伝いを申し出ると、女性は異常なほど恐縮しながら顔を赤らめている。
「おや……これでも、それなりに心得はあるので、ちょっとした手伝いくらいなら出来ますよ?」
「その――ヴェニシエスの腕を疑っている訳では……その、このような雑事にヴェニシエスのお手を煩わせるわけには……」
顔を伏せながら、そういって両手を振った女性にラリカは不思議そうに首を傾げた。
「昨日、フィディア=ヴェニシエスは、一緒に手当を行っていたように見受けられましたが……?」
「――え? あ、フィディア=ヴェニシエス? ……あ」
どうやら、フィディアはよほどこの療養所で受け入れられているらしい。
目を白黒させている所を見ると、目の前の女性はフィディアがラリカと同格の人間だと忘れてしまっていたらしい。
他教会の人間だというのに、ここまで打ち解けているというのは、あのフィディアという少女は社交性豊かなようだ。
……その点でいえば、ラリカもなかなかのものなのだが、やはりヴェニシエスという肩書きが邪魔をして、初対面の人間には随分緊張されてしまいがちである。
「と、とにかく。『あの』ラリカ=ヴェニシエスにこんなことお願いできません。『死神に魅入られた子』の件でしたら、すぐに案内させます! ――だれか、誰か、ラリカ=ヴェニシエスを」
そう必死の形相で女性が叫びながら、後ろに向かって手を振る。
女性が手を振った方を見てみると、いつの間に出てきたのか、十人ほどの職員らしき人間がこちらの方を緊張した面持ちで見つめていた。
その中の一人が、前に一歩歩み出てきて、直立不動で声を上げる。
「ユルキファナミア教会療養所、ミル=ザッシュですっ! 恐れながら、ラリカ=ヴェニシエスのご案内を努めさせて頂きますっ!」
見ていて大丈夫なのか不安になる緊張具合だ。
まるでこれから戦場にでも赴くかのようにがちがちに全身を強張らせている。
「そ、そんなに畏まらないで下さい……よろしくお願いします」
「――ありがたき幸せですっ!」
そのガチガチになった女性の反応に、なんとなくラリカに出会った頃のリクリスを思い出した。
……あの時のリクリスでも、それでも、もう少しマシだった気もする。
――いや、よく考えてみればリクリスはハイクミア教徒だったが、目の前の女性はラリカと同じユルキファナミア教会の人間だ。
同じ組織のなかの上位者であるという事を考えれば、この反応も仕方がないのかも知れない。
思えば、王都で私達を案内してくれていたコルス=アコも随分と緊張していたものだった。
……突然、学校の理事長や、会社の会長でも案内する事になったと思えば、この反応も納得がいくというものか。
緊張する女性の背中を見ながら、私達は奥に向かって歩き出す。
角を曲がって見えなくなるまで、背中には大量の視線のせいで妙な圧力を感じるのであった。
「ミル=ザッシュ……少々お伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
おそらく、緊張した雰囲気でいることに耐えられなかったのだろう。
ラリカは、時折背後を振り返りながら、両手を開いたり閉じたりと居心地が悪そうにしている。
やがて決心したように、ととっと目の前を歩く女性に近づいて行き、口を開いた。
「――はいっ! なんでしょうか!?」
「ここの療養所にはどれくらいの患者がいるのですか?」
「患者数……毎日のように入れ替わりがありますが……三十人ほどかと思います」
三十人か……少ないような気がするが、この世界の医療は治癒魔法などもあることをかんがえれば、それなりの人数のようにも感じる。
「三十人ですか……」
ラリカも、その人数について考えているのだろう。右手を顎に添えながら考え込んでいる。
「施設の規模としては百人程度を受け入れる準備はございますが、聖国には、モルテアミアの教会の医院がございますので、皆様そちらで治療を受けることが多いようです」
「なるほど。確かに、モルテアミア教会の聖国医院は有名ですからね。――やはり、腕が違いますか?」
ラリカが興味深そうに口の端に笑みを浮かべながら質問をしている。
その口ぶりから察するに、モルテアミア教会という場所はおそらく医療分野に力を入れているのだろう。
そういえば、ノルンの事件の時に、ラリカが医者に協力を願ったという話も聞く。
どうやら、この魔法がある世界でも病院や医療分野は一定の需要があるらしい。
しかし、それだけ特化している組織があるのであれば、むしろこの療養所に三十人という人数が入れ替わり立ち替わりで入っているのは、なかなか繁盛しているといえるのかも知れない。
「それはもう。我々は魔法関係の治療には強いですが、それ以外の技術については、モルテアミア教徒が数段……」
答えるミルの方は、ラリカに向かって良いのか悩むように逡巡しながら、言いづらそうに語尾を濁した。
そんなミルの事をフォローするように、ラリカはなんでも無いことのように肩をすくめた。
「ユルキファナミア教会自体が、魔法に特化していますからね。医学を専門にしているモルテアミア教会の方が蓄積している経験がどうしても違いますから。仕方がありませんよ」
『私もリベスの町では、よく色々とお世話になったものですよ』などと言いながら、にっこりと包みこむような笑みを浮かべるラリカに、ミルは恐縮した様子で頭を下げた。
「――その魔法関係の神威災害でも――特に『死神に魅入られた子』などは、私達の手には負えないという情けない状況で……ユーニラミア教会だけでなく、ラリカ=ヴェニシエスにお縋りするしかなく……」
頭を下げながら続ける言葉は、自分たちの得意とする分野でも結局の所治療できないことへのもどかしさを感じているようにも見える。
「いえいえ。協力するのは当然ですよ? これでも一応、ヴェニシエスではありますが、元々はユルキファナミアの教徒なのですから」
ラリカはそんなミルに向かって慌てた様子で両手を振りながら、自分も協力するのが当然と言って笑った。
――まあ、まずラリカの性格からして、助けられるものを助けないという方が気を病みかねない。
そう考えれば、あの患者を助けられる時にこの国に着たのは、まさしく天命といえるだろう。
「――ヴェニシエスのお噂はかねがねお伺いしています。ノルン事件のご活躍は、この教会でもよくよく吟じられています」
そんなラリカに、感じ入った様子でミルは尊敬の眼差しを向けている。
どうやら、例の『ラリカ英雄譚』なるものが、この教会でも出回っているらしい。
自分の成した事を語られるのが恥ずかしいのか。
……あるいは、リクリスの事を思いだしたのか。
ラリカが、その言葉を聞いた瞬間、僅かに笑みを引き攣らせた。
「そうなのですかっ!?」
「はい。それはもう……特にこの療養所では、ラリカ=ヴェニシエスは救世主のようなものですから」
だが、ミルの反応を見てみると、どうやらその『ラリカ英雄譚』だけが原因ではないようだ。
なにか、それ以外にもこの療養所の人間がラリカを尊敬する理由があるらしい。
しかし、肝心のラリカはその理由に思い至らないようだ。
軽く首を傾げた後、なにか不気味な事が起こっているような表情を浮かべて、ミルに向かって質問した。
「……それは、どういう意味ですか? 私は特にここの療養所への支援はしていなかったと思うのですが……」
「はい。直接金銭面でヴェニシエスからなにか頂いた訳ではないのですが……」
ミルは、そんなラリカの姿を見ながら、どこか切なげな笑顔を浮かべた。
「ヴェニシエス……もし、お時間がありましたら、この病院で一番人数が多い患者。――『最後の時を過ごす』患者を見舞っては頂けませんか?」
悲しげに告げるミルの申し出に、ラリカは目を微かに見開き表情を強張らせる。
「――最後の時……末期患者ですね……」
ラリカが、ぽそりとそう呟いた。
――末期患者。
その言葉を聞いて、ラリカが表情を強張らせた理由を察した。
どうやら、この療養所では、ターミナルケアのような治療を行っているのだろう。
それはつまり、もはや治療の必要の無い――いや、治療が出来ない病人を見送るための場所ということだ。
――今のラリカをそんなところに連れて行っても良いのだろうか?
今のラリカは、リクリスの件があって、おそらく死については敏感だ。
そんな中、濃密な死の気配を感じさせるような場所を体験させるのが果たして良いことかと言われると、正直私には判断が難しかった。
『やめておけ』その一言を言った方が良いのかも知れない。
そう思うのだが、ミルの視線が完全にこちらに向けられている今、言葉を発することは出来ない。
仕方なく、結果として、ここはラリカの判断に委ねることにした。
幸い、今は『昨日の治療具合を確かめに来た』という大義名分が存在する。
ミルの申し出も、それを理由にすれば断ることも十分に可能だろう。
……そして――ここで、もし、ラリカが『行く』と言うことができれば、ラリカはそれだけの前向きな意思を抱きつつあるという証左に他ならない。
――ならば、それはひょっとすると、この子が一つの壁を越えるための助けにもなるかも知れない。
そう考えた私は、ラリカの肩の上で、自らの主人の言葉がどっちなのか全神経を集中させながら、一挙手一投足を見逃さないように注意した。
ラリカは、僅かに視線を右に左に彷徨わせ、微かに唇を誰かに助けを求めるように振るわせたが、やがてその唇をきゅっと引き結んだ。
――そして、彷徨わせた視線を、今度はしっかりとした意思と力強さを持って向けた。
「……案内を――お願いできますか?」