第69話 『カミ』の巫女
「ケーレさん、そうです! そこ……! ゆっくりと刃を入れて、そう!」
トルクの声が耳元で響く。
吐息がかかり、ぞわりと肌を粟立てる。
しかしそれは、決して不快から来るものではなかった。
脈が乱れ、呼吸がわずかに荒くなる。
自身の頬が紅潮してゆくのが、ケーレは良く分かってしまう。
「こうで、ございますね……?」
トルクの指示に従い、ゆっくりと刃を通す。
微かな抵抗は、しかしすぐに消え、じわりと汁を滲みださせた。
「はい、上手いですよ! 後はそう、そこを――」
言われた通りに包丁を動かし、魚を均等に切り裂いてゆく。
「うっし! 後はこれを野菜と煮込みましょう! 具材の味が染みるんで、塩だけでもウマイっすよ!」
「まあ、シチューのようなものでございますね?」
既に野菜はたんまりと刻まれている。
それを切り身と共に鍋に入れ、ケーレはゆっくりと掻き混ぜた。
ぐつぐつことこと、ほんわかと。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「晩食が楽しみでございますね……」
ふと顔を上げると、窓の外から差し込む光が、徐々に弱まっていくのを感じる。
この隔離世に夕暮れという概念は無い。
光の強弱により、昼と夜を映し出すだけ。
それを、少し寂しいと感じる自分に、ケーレは軽い驚きを覚えてしまう。
高鳴る胸を押さえつつ、そっと『彼』の横顔を盗み見た。
(――まあ)
柔らかな光に照らされ、その輪郭がくっきりと目に入る。
優し気な顔立ちだ。まなじりは下がり、口元もゆるゆると緩んでいる。
そしてなにより、あの無精ひげ。
彼は清潔に切り揃えようとしているようだが、ケーレの方から断った。
だってその方が可愛らしいのだ。ずっと見ていても飽きないのだ。
自然体の姿が、ありのままのトルクを見るのが――ケーレはなによりも好ましく感じていた。
(これが、真なるヒトの共鳴、なのでしょうか?)
ケーレは己の血に潜む秘密を知っている。
母から、そして大婆から聞かされた、古い古い伝承。
人間の中に散り埋没した真人の血を掛け合わせ、次代の巫女を産む。そして聖剣はそれを見いだすための神具であるという。
ゆえに、それを引き抜いたトルクは、かつてないほどに色濃い血を有しているはず。
それが心身に影響し、彼への好印象を自身に与えているのだろうか?
――否。
確かに、それはあるのかもしれない。
あの日、砂浜を訪れたのもそう。
何かの予感に、突き動かされてのことであったのかもしれない。
それでも、今のこの気持ちを――ケーレは、そんな即物的なことに結びつけたくは無かった。
理由は分からない。どうしてそう思うのかは、全く分からない。
でも、胸に宿ったこの温もりを、他者から決めつけられた物と断じたくはないのだ。
彼の、その所作に宿る優しさ。
向けられた労わりと、気遣い。
それは、自分にだけ与えられるもの。外的要因により、もたらされたものであってなるものか。
(……こんな事、思ってはいけないのに)
怖い。怖くて仕方がない。
もしも、自分のこの醜い独占欲が知られたら?
執着にも似た、溢れる想いを受け入れてもらえなかったら?
――嫌われて、しまったら?
鍋を掻きまわしながら、ケーレはぶるりと体を震わせた。
これが、これが恋なのだろうか?
分からない、分からないから怖い。
恋とはもっと甘く切なく、愛おしいものではなかったのだろうか。
(アン、貴女はどうだったの?)
ケーレは、かつてない経験に戸惑いを覚えていた。
変化はゆっくりと、しかし如実に表れてゆく。
それほどにトルクとの生活は新鮮で、かつ心躍る物であったのだ。
(こんな悩みなど、抱く必要はないのに)
そう、これは期間限定。
永遠に続く蜜月では無い。
分かっている。そんな事は分かっているのに。
(母様、貴女はどうなさっていたのですか?)
亡き母の面影が脳裏に浮かぶ。
悲しい笑みを湛えた彼女は、口を開かない。何も答えてはくれなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
寂しさと苦しさ、そして感じる自己嫌悪。
日を追うごとに抑えきれない想いは増して、ケーレはその度に切ない吐息を零した。
ゆえに、これは必然であったのかもしれない。
ケーレの様子の変化をトルクは悟り、不器用ながらも慮ってくれた。
それがまた、姫巫女の心を強く強く揺さぶってゆく。
最初に指が触れ、そうして裾を掴み、やがて肌の温もりを求める。
浅ましい、と。ケーレは己を呪う。
けれど、止められない。
唇が彼の名を呼び、熱と共に情愛が宿る。
(トルクさま……)
寄り添うごとに心臓が波打ち、離れがたいと心が叫ぶ。
でも、どうすれば良いのか、ケーレには分からない。
この想いを告げてしまう事、その先に待つ『運命』を考えれば、どうしても口に出せなかった。
それでも、務めは果たさなくてはならない。
千々に乱れる心と日増しに募る衝動が、息をも止めてしまいそうで。
呼吸さえままならなくなり、体の火照りが瞳を潤ませてゆく。
そして、二人が夫婦同然の暮らしを迎えて、三か月目となったその夜。
――ついに、ケーレは我慢の限界に達した。
お休みの挨拶を残し、トルクが目の前で背を翻す。
すっかりと見慣れた、その背中にケーレは縋りついた。
「トルクさま、トルクさま……っ」
しがみついた背が、強張るのが分かった。
驚き硬直し、ぎこちなく振り向く彼の、その瞳をケーレはそっと見上げる。
「わたくし、おかしくなってしまいました……」
「ケーレ、さん」
身の内に宿る熱と、狂おしいほどの想い。
これは義務だと言い聞かせようとする。姫巫女として求めるべき当然の行為だと。
だが、その言い訳さえも、胸から生じる炎に呑まれ溶けて消えてゆく。
見ないで、と思う気持ちと――見て欲しい、と願う相反する感情。
胸が引き裂かれそうになりながら、ケーレは必死にトルクの腰を抱きしめた。
「どうか、ご慈悲を……」
ごくり、と。
唾を飲み込む音が響く。
それが、どちらがもたらしたものかさえ、分からぬまま。
炎のような熱だけが燃え盛ってゆく。
「ケーレさん、俺は……」
弾かれたようにトルクが身を捻り、ケーレを強く抱きしめてくれた。
「ああ……っ」
あげた声は、微かな恐れと隠し切れない歓喜に満ちて。
――星明りさえ見えない暗闇の下、建物に宿る仄かな燐光に包まれて、二人の心と体が重なった。
☆ ☆ ☆ ☆
「……けーれ、さん」
むにゃ、と。どこかあどけなく寝息を漏らすその顔が、ひどく愛おしい。
肌着さえまとわぬ、裸の肌を晒しながら、ケーレはゆっくりとトルクの頬を撫でた。
「……本当に、お可愛らしい」
亜人の中では中年に位置するであろうが、ケーレにとっては関係ない。
自分よりも遥かに年下の彼に対し、胸の奥へと安らぐような想いが広がってゆく。
どれほど、そうしていたろうか。
飽きることも無く撫でているうちに、その寝息が徐々に薄れていった。
「あ……おわっ!?」
眼前でうっすらと瞼が持ち上がり、そしてカっと見開かれた。
「おはようございます、トルクさま」
「あ、ひゃひゃ、ひゃいっ! ケケ、ケーレさん!」
「はい、ケーレにございます」
微笑みを返すと、トルクの顔が見る間に赤くなり、耳の端まで紅に染まった。
それがまたおかしくて、愛おしくて。
ケーレはくすくすと笑みを零してしまう。
「昨夜は、ありがとうございました」
「そ、そそ、それは俺の方こそ! あの、大丈夫ですか!?」
「はい、ご心配なさらず」
ケーレは己の下腹部を撫で、ほうっと息を吐いた。
「ゆ、夢じゃないっすよね……はは、はははは……ひゃっ!?」
泣き笑いのような顔をするトルクの、その頬を優しく撫でる。
「子種を頂きまして、誠に感謝を申し上げます」
「こ、こだっ!?」
「此度は、双子を産むように致します。次の祭りは片方を、そして――」
言葉が、途切れる。
これが目的であったはずなのに、二の句が継げない。
胸の奥に生じた鋭い痛みが、その先を告げる事を許さなかった。
「ケーレ、さん?」
心配げに、トルクがこちらを見つめる。
その優しい、労わるような眼差しが、どうしてだろう?
酷く苦しくて、切ない。
(心配は何もない。これで後顧の憂いは消えた。お役目を果たせる、はず――なのに)
『自分たち』が孕み、産み落とすまでは三か月ほどであると、母から聞いていた。
そうすれば、子を育てる期間が半年は設けられる。
半年、あと――たった半年だ。
それが過ぎれば、ケーレは。
「これで、安心して私は『カミ』になれます」
「カミ?」
その言葉を漏らしたのは、何故か。
ケーレには分からない。
「か、神様ってことっすか?」
「いえ、違います」
微笑みを湛える。決して崩さない。崩してはならない。
「聖剣祭の本祭。そこで私はこの身を捧げ、聖剣を介して魂を昇華させるのです」
「……は?」
トルクの顔から、血の気が失せる。
胸に生じた更なる痛みを押し隠し、ケーレは笑みを深めた。
何故だろう? 視界が、わずかにぼやける。
どうしてだろう? 目の前が滲んで見えなくなる。
「カミとは――古き神に捧げる姫巫女の末路」
淡々と、穏やかに。
事実だけを告げるように。
そうして、ケーレは告げる。
「――すなわち、生贄の事にございます」
瞳をかすかに覆う、薄い膜。
それが、自身に起こるその理由が、やはりケーレには分からなかった。
――分かりたくは、なかった。




