第1話 花明かりの東京郊外 上
裏庭で霜柱を見かけるようになった十二月の朝。階下で、家族が出勤の支度をしている音がベッドの中に伝わって来る。厚い布団に包まったまま、彼はとろとろして、また眠りに落ちた。
昼が近付くと、無職になって日向ぼっこの達人になった彼は、この日も二階の自室のベランダへ半袖ハーフパンツに着替えてから移った。
青白い顔にサングラスを掛け、片手には湯気の立つ温かいミルクティーが入ったマグ、もう片方の手には白い音楽プレーヤーを握っている。首に掛けた音楽プレーヤーのイヤホンからは、若い女の子の声とドラムの音が微かに漏れている。
彼がこの時聴いていた音楽は、米国インディーズの女の子の曲だった。作り手の感覚重視の音質で、八十年代っぽい空気感を表現するギターリフが効いているから、彼が逃れて来た現実の性質とはずいぶんかけ離れている。
女の子は夢のような碧くノスタルジックな時代から、考えながら歌っているみたいで、初めて聴いた時、彼はキュンとした。彼女の音楽には美大生だった頃の自分を強く連想させるものがあった。彼の欲しいものを持っている気がした。
学生の時にアトリエ用に造った木のスツールに腰掛けて、彼は急いでイヤホンを耳に付けた。音楽を聴いているのか音楽の中にいるのか、ベランダから見える景色は曲と一体化して現れる。彼は女の子の声に重ねて、一緒に歌ってるような気がしていた。
良い気分で歌のサビ部分を聴いていると、道路脇から原付バイクのエンジン音がして「郵便で〜す」という声が家々の間でこだました。世間が労働に励んでいる事実が彼の耳にも響くと、たちまち気分が醒めた。
頭の中では、目的を遂げられなかった事、無職になった事、選択した人生に失敗した事、叫びたくなるような現実ばかりが意識に上ってくる。そうなってしまうと、イヤホンで何を歌ってるのかも分からなくなる。思い出したら最後、反射的に料亭を辞める前にあった鬱積した感情がまぶたの裏に蘇ってくる。
『お前ら全員死ねや』
業務用冷蔵庫の擦り傷だらけの大きな銀扉。黒くギトついた厨房床。油まじりの湿がの籠もった厨房。たった一年で、使ってる人間も空間も忌まわしく成り果てた。
都内の一等地にもかかわらず、他の料亭よりも敷地面積を誇ったこの料亭は、規模も名声も一流で、客に見える所はふんだんに木材が使われ純和風を気取っていたが、二代目オーナー家族の誰が選んだのか一部の皿、グラスといった長く使われる物を九十年代のデザインで取り揃えたせいで、最近では卓上に時代遅れで野暮ったい印象を浮かべていた。
『物のセンスも経営もにわか仕込みかよ』
二代目オーナーは、先代が築いた店の格式を盾に、従業員に威圧的な物言いをして立場を誇示していたが、二代目にはBMVや伊勢問の外商が繰り出す口車に乗せられるぐらいの頭しかないのではないかと、緑郎はオーナーの日頃の軽率な判断力から疑っていた。同じように見ていたのは、給仕係の蓼科さんという中年のおばさんと彼女の数人の同僚だけだった。だから、彼はよくおばさん達に混じって、井戸端会議をしていた。二代目には、店の運営に対応できる頭がないんじゃないかと怪しんでいた。
一方で、二代目から見た緑郎は、清潔感があり律儀な若者だったので、二代目の言いつけで他の人が板前修行を始める中、一人だけ給仕や受付の仕事も覚えさせられたのだが、緑郎にとってはこの事も納得のいかない判断の一つで、修行が出遅れた事を不満に思っていた。しかし、そのおかげで緑郎の教育係をしてくれた蓼科さんから礼儀作法を学べた事、親しくなれた事を鑑みると、無駄ではなかったと思えたが、それはどちらかと言うと蓼科さんのおかげで思える事だと彼は信じている。
そんなこんなで、やっと尊敬する芸術志向の料理長の下で修行が始まり安定した歩みを進めていると思ったら急降下、オーナーの安易な経営改革が始まり三年で料理長から引き離されてしまう。オーナーは、料理長を巧妙に追い出し、食材を誤魔化して収益を上げるような知り合いの料理人を引き入れ、店の最大の魅力であり修行の本質は料理長の芸術性を学ぶ事だと思っていた緑郎は焦って、皆でオーナーに考え直して貰えるよう掛け合おうと訴えたが、料亭の名前こそが頼りと考える同僚は知らん振りを決め込んだ。
店は料理の質を下げて値段を上げたせいで客離れが止まらず、オーナーはなんとかしろと厨房に無理な注文を入れ続け、しだいに男だけの厨房の雰囲気はかつてないほど不穏になり、緑郎が仲良くしていた鈍臭いけど気立てのよい後輩がガス抜きで虐められ始め、止めに入ったら対立、大いに失望して、
『難破船でわあわあ飛び跳ねて、クソ共が』
緑郎は両手でおでこを抱えた。上手くいかなかった事の数々に納得がいかなくて、ずっと消化できない。後輩が虐められても、料理長が辞めさせられても、知らないふりして修行が終わるまで粘った方が正解だったのか。賢くなかったからこうなったのか。加えて揉めて退職した為、料亭同士の付き合いがある狭い業界で、今後、同程度の店で雇って貰えるか極めて難しく、同種での希望を考えるとお先真っ暗で頭が痛くなる。
それでも、辞めて正解だったんだと、二週間前を振り返りながら彼は頭の中で強く答えた。目的を遂げられなかった上、再就職が難しくなった事を予見してくる自分自身との討論が白熱する。
頭の中で色んな意見が飛び交い、だけどこれで大人になって初めて家族と年末年始が過ごせるんじゃないかと強引に思考し続ける彼は、無意識に首を動かしていた。音楽に乗っているのか、目には見えない何かに抵抗しているのか傍目には分からない程一生懸命に。
身体に溜まりきった怒りと不満とショックが出現すると、しばしば気分も思考も不安定になってどうどう巡りの考えにはまった。
社会の正解ばかりを突きつけてくる自分と押し問答をして、この話はもうやめようと一喝し気持ちを落ち着けるとアルバムの曲がずいぶん後の方まで進んでいた。
我に返ると、冬のベランダで全身が太陽光の温もりに包まれている。この混沌の鍵になってはくれないかと、彼は陽に両手をゆっくり開いた。だけど、温かな光線はイヤホンから聴こえてくる女の子の歌と手のひらで溶け合っただけだった。
空を見上げるため、サングラスを頬にズラしてみると、肉眼に写る空は彼方まで青々としている。これで良かったんだ。彼は口の中でつぶやいた。三十秒空を見上げていた。広大な空の中へ考を放ってみても、答えは返ってこなかった。手応えの無さに焦れて、宇宙まで覗けたらいいのにと、彼は高く高く視線を伸ばした。だけど、やっぱり空は青い処までしか見せてはくれなかった。
渋い反応を示す両親をなんとか説得して、美術大学を中退し、彼はかつて華々しい名料亭だった店で約五年働き、板前の経験と技術的にあと一息という所で辞職した。
退職直後の電話口での彼の声色を心配した妹(梅乃)の勧めで、石山緑郎は、郊外にある実家に身を寄せる事にした。
妹は年子で、幼い頃からの彼の最大の秘密、同性と綺麗なものが好きな事を理解し支持してくれる家族で、彼にとってはこの世で最も安心できる人間なので、彼女が寄せてくれる思いは信頼している。
彼は幼い頃から自分が他の多くの人と異なる事に気付いていた。保育園から帰ってきて、母親が夕飯の支度をしている間、妹と居間で二人きりだった時、彼がテレビ画面上の男女の結婚式の場面を見て「僕は男の子が好きなのに」とポロっと口にし、漏らしてしまったと顔を曇らせた瞬間「私も女の子が(同性)好きだよ」と、気が合うね!みたいな顔をして妹は賛同した。彼は自分の言ってる意味とは異なる雰囲気を感じながらも、妹の無垢な捉え方に胸を撫で下ろした。
彼の言った「好き」の意味を、梅乃は小学校の中学年あたりで友達のお姉ちゃんの漫画から概念でも理解したが、兄の素顔は小さな頃と同じだった。
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