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第5話 回る世界と、瞳に宿る「揺れ」の正体

【突然の回転】


「先生……助けてください。世界が、洗濯機の中にいるみたいにグルグル回って……」

 診察室のドアを支えに、50代の主婦・小林さんが青ざめた顔で入ってきた。

 横では、心配そうな顔をした夫が彼女の体を支えている。

 一条院長はすぐさま椅子から立ち上がり、小林さんの元へ駆け寄った。

「おっと、ゆっくり、ゆっくりね。佐藤君、車椅子を! 真壁さん、処置室のベッドを一段下げて準備して。小林さん、大丈夫。今、僕がしっかり支えているからね」

 一条の温かい手が肩に触れると、小林さんの激しい呼吸がわずかに落ち着いた。

「……今朝、寝返りを打とうとしたら、突然天井が回りだして。吐き気もすごくて、一歩も歩けなかったんです」


【問診と「レッドフラッグ」の確認】


 処置室のベッドに横たわった小林さんに、一条は優しく語りかけながら、その瞳をじっと見つめた。

「小林さん、お辛いですね。でもね、めまいには『怖くないもの』と『すぐに処置が必要なもの』があるんだ。僕が今からいくつか質問するから、ゆっくり答えてくれるかな?」

 一条の問診は、お人好しな口調ながらも、脳卒中などのレッドフラッグ(危険信号)を瞬時に見分けるための精密なものだった。

「ろれつが回りにくいことはない? 物の見え方が二重になったりしていないかな? それから、手足に力が入りにくい感じは?」

「……それはないです。ただ、頭を動かすと、またグルグルが始まって……」

 一条は頷き、横に控える佐藤看護師に指示を出した。

「佐藤君、血圧と酸素飽和度(SpO2)を。それから、フレンツェル眼鏡を持ってきて。真壁さん、彼女のバレー徴候と指鼻試験しびしけんのチェックをお願いするよ」

「先生、めまいなのに神経内科みたいな検査もするんですね」

 佐藤がテキパキと準備をしながら尋ねる。

「そうだよ、佐藤君。めまいの診断で一番怖いのは、小脳や脳幹の出血や梗塞を見逃すことだ。耳の問題(末梢性)なのか、脳の問題(中枢性)なのか。これを身体所見だけで見極めるのが、僕ら町医者の腕の見せ所なんだよ」


眼振がんしんが語る真実】


 一条は特殊な拡大鏡であるフレンツェル眼鏡を小林さんに装着させた。

 これで周囲の景色を見えなくすることで、抑制されていた「目の揺れ」を顕在化させるのだ。

「小林さん、僕の指を追わなくていいよ。ただ真っ直ぐ前を見ていてね。……よし、真壁さん、頭位を変えるよ。ゆっくり右へ……」

 一条が小林さんの頭を特定の角度へ傾けた瞬間、モニターに映し出された彼女の瞳が、時計回りに激しく回転し始めた。

「これだ。回旋性眼振かいせんせいがんしんだね。佐藤君、よく見てごらん。瞳が一定の方向に規則正しく揺れているだろう? 脳に異常がある時の眼振は、もっと不規則で、方向がバラバラになることが多いんだ」

 さらに一条は、小林さんの頭を素早く動かして眼球の動きを見るHINTS試験(Head Impulse, Nystagmus, Test of Skew)を慎重に行った。

「よし。小林さん、安心してください。あなたのめまいの正体は、脳の病気ではありません。耳の奥にある三半規管の中に、小さなカルシウムの粒……『耳石じせき』が迷い込んでしまったんだ。病名は良性発作性頭位めまい症(BPPV)。名前は仰々しいけれど、命に関わるものじゃないですよ」

 小林さんの顔に、ようやく安堵の色が浮かんだ。

「耳の石……。薬で治るんでしょうか?」


【物理的な解決と「お人好し」の魔法】


 一条はニッコリと笑って、ベッドの脇に座り直した。

「薬よりも、もっといい方法があるんです。今から『エプリー法』という、耳石を元の場所に戻す体操をしましょう。僕が頭を支えて一緒に動かしていくから、ちょっとだけグルグルするのを我慢してね」

 一条のリードで、小林さんの頭をゆっくりと特定の順番で回転させていく。

「はい、左を向いて。次はそのまま体を横に……。そう、上手だ。あともう少しですよ」

 全ての工程が終わった後、小林さんがゆっくりと体を起こした。

「……あ。先生、回らない。さっきまでの地獄が嘘みたいです」

「よかった! でもね、今日は急に頭を下げたりしちゃダメですよ。耳石がまた迷子になっちゃうからね。今日は高い枕で、お殿様みたいにふんぞり返って寝るのが宿題です」

 一条の冗談に、処置室に笑い声が溢れた。


「先生、エコーも採血も使わずに、頭を動かすだけで治しちゃうなんて、手品みたいでした」

 片付けをする佐藤が感心したように言う。

「道具がなくても、五感を研ぎ澄ませば見える真実があるんだ。でもね、佐藤君。一番の薬は、小林さんの旦那さんがずっと手を握っていたことかもしれないよ。あんなに愛されている奥さんなら、耳石だってすぐに帰りたくなるさ」

「もう、先生ったら。すぐそうやってロマンチックなこと言うんだから」

 真壁が呆れ顔で笑う。

「さあ、次は……『最近、咳が止まらなくて夜も眠れない』という学校の先生だ。咳喘息か、それとも……。真壁さん、スパイロメーター(肺機能検査)の準備、お願いできるかな?」

 パルマ総合クリニックの午後は、まだ始まったばかりだ。


【医療解説:めまいの見極め】


• BPPV(良性発作性頭位めまい症): めまいの中で最も頻度が高い。特定の頭の位置で激しい回転性めまいが起こる。耳石が三半規管に入るのが原因。

眼振がんしん: 無意識に目が揺れる現象。方向や揺れ方(垂直か水平か回転か)を観察することで、原因が「耳」か「脳」かを推測できる。

• 中枢性めまい: 脳幹や小脳の梗塞・出血によるもの。激しい頭痛、複視(二重に見える)、麻痺、構音障害などを伴う場合は一刻を争う救急要請が必要。

• エプリー法: 理学療法の一種。頭を特定の角度に動かすことで、三半規管内の耳石を元の場所(卵形嚢)へ戻す手法。

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