返事を奪う怒号
コリンは小さく息を吸う。
返事をしなければならない。
頭ではそう分かっているのに、胸の奥では言葉が何度もつかえていた。
家族
そんな言葉を向けられたことなど、一度もない。
だから何と返せばいいのかも分からない。
それでも――。
さっきまで胸の中を埋め尽くしていた戸惑いとは違うものが、静かに広がっていた。
目の前にいる二人は、返事を急かそうとはしない。
断るなら断ってもいい。
迷うなら迷ってもいい。
そんなふうに、答えを待ってくれている。
それが、不思議だった。
これまでの自分なら、誰かに何かを求められたら、その期待に応えられなければ見放されるものだと思っていた。
だから、人と深く関わることを避けてきた。
期待されなければ、失望されることもない。
近づかなければ、離れていかれることもない。
そうやって、自分を守ってきた。
けれど、ルカは違った。
『嫌だったら、ちゃんと断ってくれていいから』
そう言って笑った顔が、今も頭から離れない。
無理に引き留めることもなく、答えを押しつけることもなく。
ただ、自分の気持ちだけを真っすぐ伝えてくれた。
ルドルフもそうだ。
知り合ってまだ二日。
それでも、『これから少しずつ知っていけたらいい』と笑っていた。
どうして、そんなことが言えるのだろう。
理解はできない。
けれど、その言葉を聞いていると、胸の奥で凍りついていた何かが、少しだけ緩んでいく気がした。
怖い。
期待してしまうのが怖い。
もしこの温かさが、幻だったら。
もし手を伸ばして、失うことになったら。
そう思う自分がいる。
それでも同時に、その手を振り払いたくないと思っている自分もいた。
その気持ちに気づいた瞬間、コリンはゆっくりと顔を上げる。
深いすみれ色の瞳が、ルカとルドルフを映した。
返事は、まだ決まっていない。
いや、本当は胸のどこかでもう決まっていたのかもしれない。
コリンは小さく息を吸い込み、震えそうになる唇をゆっくりと開いた。
「俺は――」
そのときだった。
近くの木の枝で羽を休めていた小鳥が、突然大きく羽を震わせる。
《来る!》
鋭く張りつめた鳴き声が、コリンの耳へ飛び込んだ。
《怖い人が来る! たくさん!》
《急いで! 逃げて!》
一羽だけではない。
枝という枝から鳥たちが落ち着きを失い、次々と鳴き始める。
その声は、人にはただのさえずりにしか聞こえない。
けれど、コリンにははっきりと言葉として届いていた。
深いすみれ色の瞳が、すっと見開かれる。
「……あっ…」
胸の奥を冷たいものが駆け抜けた。
「コリン…?」
「…静かに」
次の瞬間。
遠くから、荒々しい足音が公園へ響く。
最初はかすかな音だった。
けれど、それはあっという間に大きくなっていく。
乾いた土を踏み鳴らす重い靴音が、一つではない。
だん、だん、だん、と何人もの足音が重なり合い、公園の静けさを乱暴に踏みつけるように近づいてくる。
噴水の水音だけが穏やかに流れていた空気が、その音に飲み込まれていく。
穏やかな風さえ、一瞬止まったように感じられた。
木々の枝で羽を休めていた鳥たちが、異変を感じ取ったように一斉に羽ばたく。
ばさっ、と羽音が重なり、数羽の鳥が青空へ飛び立っていく。
その羽ばたきが、これから起こる出来事を知らせる警鐘のように、公園へ響き渡った。
ルドルフが真っ先に振り返る。
「……誰だ?」
その視線の先。
噴水の向こうから、数人の男たちが姿を現した。
全員が肩で荒く息をしながら、公園の中を見回している。
「はぁ……っ、はぁ……!」
荒い呼吸がここまで聞こえてくる。
服は土埃で汚れ、額には汗が浮かび、焦りと苛立ちが入り混じった表情を浮かべていた。
まるで何かを追い続け、ようやく獲物を見つけた獣のようだった。
男たちの視線が、公園の中を忙しなくさまよう。
そして――
一人の男が、噴水のそばに立つコリンを見つけた。
目を見開き、口元が大きく歪む。
「……いたぞ!!」
怒鳴り声が、公園中へ響いた。
その一声で、先ほどまで穏やかだった噴水広場の空気が完全に壊れる。
飛び立った鳥たちはさらに高く空へ舞い上がり、静かだった広場には荒々しい足音と怒号だけが響き渡る。
コリンの表情が一瞬で変わる。
さっきまで揺れていた深いすみれ色の瞳から迷いが消え、代わりに張り詰めた冷たい光が宿った。
その顔は、もう返事に迷っていた少年のものではない。
追われる者として、瞬時に状況を見極めようとする鋭い眼差しへと変わっていた。
「……っ」
ルカは思わず立ち上がった。
男たちは一直線にこちらへ走ってくる。
「やっと見つけたぞ!!」
「逃がすな!!」
ルドルフは反射的に二人の前へ一歩踏み出した。
コリンを背に隠すように立ち、自分が男たちとの間へ入る。
横目でルカを見る。
ただ、ほんのわずかに顎を引き、小さく視線だけで合図を送る。
ルカもその意図を察し、小さく息を呑んだ。
ルドルフは改めて男たちへ向き直る。
肩で荒く息をしている。
血走った目。
握り締められた拳。
一目見ただけで、まともに話が通じる相手ではないことは分かった。
それでも、ここで感情的になれば余計に状況は悪くなる。
ルドルフは胸の内の焦りを押し込み、できるだけ穏やかな声を出した。
「待て。落ち着け」
男たちは止まらない。
「何があったか知らねぇけど、まず話を──」
「どけ!!」
怒鳴り声が返ってくる。
ルドルフは思わず眉をひそめた。
それでも視線は逸らさない。
「俺たちはあんたたちの事情を知らねぇ。だから──お前らは何者だ」
その問いに答える様子はなかった。
男たちの視線は、最初から最後までコリンだけを捉えている。
その異様な執着に、ルドルフの背筋へ冷たいものが走った。
(……狙いは、コリンか。)
次の瞬間だった。
「邪魔だ!!」
一人が乱暴にルドルフを突き飛ばした。
「っ!」
肩から地面へ踏みとどまり、すぐに体勢を立て直す。
男へ手を伸ばしかける。
しかし、その一瞬の隙だった。
別の男がルカへ飛びかかった。
「うわっ!」
ぐい、と力任せに引き寄せられる。
首元の布が喉へ食い込み、一瞬で呼吸が詰まった。
「とぼけてんじゃねぇよ!」
男は顔を真っ赤にして怒鳴る。
鼻先まで顔を寄せられ、むっとするような酒の臭いが鼻を突いた。
昼間だというのに、酒臭い息が何度も吹きかかる。
「島国のお坊ちゃんをかくまってたんだろ!?」
「な……何のことですか!」
「おい、だから……!」
ルドルフが止めに入ろうとする。
「うるせぇ!!」
男は腕を乱暴に振り払った。
「関係ねぇ奴は引っ込んでろ!!」
再びルカの襟をつかみ、今度は片手で首元まで握り込む。
そのまま力任せに持ち上げられた。
「っ……!」
つま先が地面から離れる。
足が宙をさまよい、踏ん張ることもできない。
首が締め上げられ、喉がぎりぎりと軋む。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。
耳元では男の怒鳴り声が何度も何度も響いていた。
「あんたのせいで俺達の計画は台無しだ! どうしてくれんだよ、なあ!?」
「お前のせいだ!!」
怒号が鼓膜を震わせる。
何を言われているのか分からない。
ただ、大きな声だけが頭の中で反響していた。
視界の端で、ルドルフが必死にこちらへ駆け寄ろうとしているのが見える。
(……使い花を)
苦しくなる意識の中で、その考えがよぎった。
サクラの花を呼べば、この男たちを引き離せるかもしれない。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
駄目だ。
ここは市場のすぐそばだ。
花の加護を使えば、公園だけでは済まない。
市場中の人たちの目に触れる。
突然花が舞えば、市場の人々は驚き、混乱し、きっと大騒ぎになる。
それだけじゃない。
まだ、自分はサクラの加護を完全には制御できていない。
感情に引っ張られれば、どこまで花が広がるか自分でも分からない。
もし町の人たちまで巻き込んでしまったら――。
その想像だけで、指先が震えた。
(駄目だ……使えない、もし暴走したら…!)
喉が締め付けられる。
視界の端が白く霞む。
耳鳴りがする。
指先から少しずつ力が抜けていく。
体を揺さぶられるたび、頭の中まで激しく揺れた。
完全に頭に血がのぼっている大男の暴力は、ルカの意識を奪うには充分だった。
「……ルドル、フさ……こ……りん……」
途切れ途切れの声が、かすかに漏れる。
「おい、やめろ!!」
ルドルフが怒鳴る。
悪漢たちのさらに後ろ。
肩で荒く息をしながら、コリンがじっと男たちを睨みつけていた。
深いすみれ色の瞳には、さっきまでの戸惑いはもう残っていない。
あるのは、冷たい覚悟だけだった。
「おーおー、お坊ちゃんのほうから出てきてくれたぜ」
男がいやらしく口角を上げる。
「……そいつを」
コリンは一歩、前へ踏み出した。
「……ルカを、放せ」
低く抑えた声だった。
その声を聞いた大男は鼻で笑う。
「ほう?」
そう言うと、見せつけるようにルカの首へさらに力を込めた。
「あ゛……っ、ぐ……!」
喉が締まり、苦しそうな声が漏れる。
ルカの足は宙に浮いたまま、小さく震えていた。
その姿に、コリンの指先がわずかに強く握られる。
逃げろ。
胸の奥で、誰かが囁く。
今ならまだ逃げられる。
森へ入れば、鳥も獣も自分を隠してくれる。
この場を離れれば、少なくとも捕まることはない。
そうすれば、また一人で生きていける。
……今までと同じように。
それが、一番安全な選択だ。
誰とも関わらず、誰も巻き込まずに生きる。
ずっとそうしてきた。
これからも、そうすればいい。
そう思った。
けれど、その未来を思い浮かべても、不思議と以前のような静けさはなかった。
ほんの少し前まで、この公園で交わした言葉が胸によみがえる。
あの声も。
まっすぐ見つめてくれた桃色の瞳も。
笑っていたルドルフの声も、まだ耳に残っている。
あの温かな時間を知ってしまった今、もう何も知らなかった頃の自分には戻れない気がした。
けれど――。
苦しそうに息を求めるルカの姿が、その迷いを断ち切る。
自分が逃げれば。
あの男たちは、本当にルカを放すのだろうか。
そんな保証は、どこにもない。
むしろ、自分をかばったというだけで、ルカまで巻き込まれてしまった。
(……俺のせいだ)
胸の奥が痛む。
自分がここに現れなければ。
ルカも、ルドルフも、こんな目には遭わなかった。
ゆっくりと足が前へ出る。
その瞬間だった。
「待て!」
腕をつかまれた。
コリンが振り返る。
ルドルフだった。
苦しそうな表情で首を横に振る。
「行くな」
短い一言だった。
けれど、その声には焦りが滲んでいる。
「出ていったら、お前は……」
最後まで言葉にならない。
捕まる。
その先に何が待っているのか、ルドルフにも分かっていた。
コリンはルドルフの手を静かに見つめる。
それから、小さく首を横に振った。
「……大丈夫じゃないことくらい、分かってる」
静かな声だった。
「でも」
深いすみれ色の瞳が、苦しむルカへ向く。
「あいつは……俺を助けようとしてくれた」
その一言だけで十分だった。
コリンはルドルフの手をそっと外す。
小さく舌打ちをした。
そして、ゆっくりと悪漢たちのもとへ歩み寄っていく。
(駄目だ……)
ルドルフの顔から血の気が引く。
このままコリンが前へ出れば、あいつは捕まる。
分かっている。
それでも、止める術がなかった。
「コリン!!」
ルカは苦しさにかすれる声を振り絞った。
次の瞬間、大男の腕が乱暴に振り下ろされる。
「うぐっ!」
掴まれたままの体が地面へ叩きつけられ、背中に鈍い衝撃が走った。
肺の中の空気が一気に押し出され、息ができない。
視界がぐらりと揺れ、耳鳴りだけが頭の中に響く。
(……駄目だ)
このままでは、本当にルカを助けるためにコリンが捕まってしまう。
ルカの霞む視界の先で、コリンはゆっくりと顔を上げた。
深いすみれ色の瞳には、もう迷いはなかった。
覚悟を決めた者だけが宿す、静かで揺るがない光がそこにあった。
次回作、まだできてません。出来次第投稿します。
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