帰る場所を背に
窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。
夜の名残を残した藍色の空が、少しずつ淡い群青へと色を変えていく。
東の空の向こうでは、朝日が顔を出そうとしていた。
家の中はまだ静かだった。
聞こえてくるのは、時折窓の外を吹き抜ける朝風の音と、どこか遠くで目を覚ました鳥たちのさえずりだけ。
昨夜の賑やかさが嘘のように、穏やかな時間が流れている。
玄関脇には、昨夜のうちにまとめておいた旅道具がきれいに並べられていた。
新しい旅鞄。
履き慣らしたばかりの旅靴。
厚手の外套に、水筒。
どれも今日から始まる旅のために選んだものばかりだ。
市場をルドルフと二人で歩き回って選んだ時間を思い出す。
どんなものが必要なのか分からず戸惑ったこと。
ルドルフやお店のおじさんに教えてもらいながら、一つひとつ手に取ったこと。
昨日まではただの買い物だったはずなのに、今はどれも特別なものに見えた。
ルカは外套を羽織ると、胸元の留め具を確かめる。
かちり、と小さな音が静かな家の中に響いた。
背負った旅鞄の肩紐を引き寄せる。
ずしりと肩に重みがかかった。
けれど、不思議と嫌な重さではない。
期待も、不安も、これから出会うまだ見ぬ景色への憧れも、全部詰まっているような気がした。
『…俺本当に、旅に出るんだ』
そう思うだけで、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
ルカは小さく息を吐く。
昨日まで、旅に出ることはどこか遠い話のように感じていた。
いつか行ってみたいと思い描いていた、物語の中の出来事のようだった。
けれど、こうして荷物を前にすると実感が湧いてくる。
本当に、今日から旅が始まるのだ。
胸の奥が少しだけ高鳴った。
楽しみな気持ちと、不安な気持ち。
知らない場所へ向かう期待と、ちゃんとやっていけるだろうかという心配。
正反対の感情が入り混じって、落ち着かない。
『…うまくやれるかな。俺、知らないことばかりだけど、大丈夫なのかな』
そんな弱気な気持ちが顔を覗かせるたび、昨日のルドルフの言葉が頭をよぎる。
【家族になったんだから、そういう時は頼れよ】
思い出すだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
一人じゃない。
そう思えることが、こんなにも心強いなんて知らなかった。
それに加えて、今はもう一つ気がかりなことがあった。
コリン。
昨夜、ルドルフに打ち明けた想いを思い出す。
出発する前に、もう一度会いたい。
花の加護は呪いなんかじゃないと伝えたい。
植物や動物の声を聞けるその力は、誰にも真似できない特別な力なのだと。
そして、その力はきっと誰かを笑顔にできるものなのだと。
自分たちのファミリアに来てほしい。
家族になりませんかと、ちゃんと伝えたい。
『ちゃんと伝えられることできるかな。コリンに、迷惑だって思われないかな』
胸の奥に、不安が小さく波立つ。
断られるかもしれない。
迷惑だと思われるかもしれない。
それでも、何も言わずに旅立ってしまったら、きっと後悔する。
コリンが「呪い」だと言った時の、あの寂しそうな顔が頭から離れなかった。
――――あの力は、絶対に呪いなんかじゃないって、ちゃんと伝えたい。
その想いだけは、迷わなかった。
胸の奥にある決意を確かめるように、ルカは旅鞄の肩紐をぎゅっと握りしめた。
「ルカ、準備できたか?」
居間の方から声がして、ルカは顔を上げた。
振り返ると、ルドルフはすでに支度を終えている。
大きな旅鞄を背負い、厚手の外套を羽織った姿は、昨日までよりもずっと旅人らしく見えた。
玄関脇に置かれた荷物も、もういつでも出発できる状態だ。
「はい。多分、大丈夫です」
そう答えると、ルドルフが片眉を上げた。
「多分かよ」
からかうような口調に、ルカは思わず背筋を伸ばす。
「えっと……水筒と、お金と、着替えと……」
旅鞄を開きかけながら、指を折って一つずつ確認していく。
「地図はルドルフさんが持ってて……薬草は昨日買いましたし……」
「おいおい、本当に今から全部確認する気か?」
ルドルフは呆れたように笑った。
「だ、だって忘れ物したら困りますし」
「大丈夫だって。忘れ物しても、旅先でなんとかなることの方が多いらしいぞ」
「そういうものなんですか?」
「そういうもんじゃないか」
迷いのない返事だった。
ルドルフは軽く肩をすくめる。
「まあ、本当に困るのは金と水くらいだな。あとは意外とどうにかなるだろう」
「なるほど……」
ルカは小さく頷きながら、旅鞄の口を閉じた。
市場が始まるまでには、もう少し時間がある。
「思ったより早いですね」
旅鞄を背負い直しながら、ルカが呟く。
ルドルフはしゃがみ込んで靴紐を結びながら頷いた。
「焼き菓子屋に行くなら、このくらいでちょうどいいだろ」
「でも市場、まだ開いてないですよね?」
「ああ。店はほとんど準備中だろうな」
ルドルフは立ち上がると、少し考えるように顎へ手を当てた。
「でも朝飯を売ってる屋台くらいなら出てるはずだ」
「屋台ですか?」
「パン屋とか、温かいスープの店とかな。早朝から働く人向けの店は意外と早いんだよ」
「そうなんですね」
ルカは少しだけ目を輝かせた。
昨日は初めての場所でどんな店があるかのかと、いろんな店を見ることに夢中で、そこまで周りを見る余裕がなかった。
朝の市場は、昼間とはまた違う景色なのかもしれない。
そんなことを考えると、少しだけわくわくしてくる。
ルドルフはそんなルカの表情を見て、楽しそうに笑った。
「腹減ったら、何か買って歩きながら食おうぜ」
「いいんですか?」
「むしろ旅の醍醐味だろ」
そう言って、得意げに胸を張る。
「焼きたてのパン片手に歩く朝の市場ってのは、なかなか悪くないぞ」
「へぇ……」
ルカは小さく笑った。
「コリンを探すからまだですけど、なんだかもう旅みたいですね」
「そうだろ?」
ルドルフは嬉しそうに頷く。
「せっかくの旅なんだ。目的地の天鵞絨の大樹に着くだけじゃもったいない」
外套を翻しながら、にやりと笑った。
「俺たちが行く寄り道も回り道も、全部ひっくるめて旅ってやつだ」
その言葉に、ルカもつられて笑う。
胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていくのを感じた。
コリンに会えるだろうか。
ちゃんと気持ちを伝えられるだろうか。
不安が消えたわけではない。
それでも、隣にルドルフがいると思うだけで、前を向ける気がした。
「じゃあ、ルドルフさんにとっての美味しそうなお店があったら教えてください」
「任せろ」
ルドルフは親指を立てる。
「こういうのは詳しいぞ」
「本当ですか?」
「本当だ。朝飯選びなら、たぶん誰にも負けねぇ」
自信満々に言い切る姿がおかしくて、ルカは思わず吹き出した。
静かな朝の家に、二人の笑い声が小さく響いた。
ルドルフが胸を張る。
その姿がおかしくて、ルカはくすりと笑った。
玄関脇に置いていた荷物を手に取る。
旅鞄の重みが肩にかかる。
けれど、不思議と嫌な重さではなかった。
期待と決意が詰まった重みだ。
ルドルフが扉に手をかける。
「よし」
ゆっくりと木の扉が開いた。
朝の冷たい空気が、二人を包み込む。
遠くから、朝を迎えた町の気配が微かに聞こえてくる。
家畜たちの鳴き声。
荷車の車輪が土を踏みしめる音。
畑へ向かう人々の話し声が、朝靄に溶けるように風に乗って届いていた。
窓の外へ目を向ければ、朝露をまとった畑が淡く光っている。
その向こうには、ゆるやかな丘と少し黒ずみ、壊れた柵に囲まれた牧場が広がっていた。
旅人や商人が集まる市場は、この町にはない。
市場が開かれるのは、ここから少し離れた隣町だ。
だからこそ、今日は朝早く家を出る必要があった。
目覚め始めた町が、静かに息をしている。
玄関を出たルドルフは、ふと足を止めた。
そして振り返ると、何でもないことのように家へ向かって口を開く。
「行ってきます」
あまりにも自然な声だった。
ルカは思わず目を瞬かせる。
昨日は「ただいま」に驚いたばかりなのに、今度は「行ってきます」だ。
旅に出る前に、そんな挨拶をしたことはなかった。
けれど、隣に立つルドルフは当たり前のように笑っている。
まるで、帰ってくることを少しも疑っていないみたいに。
ルカは小さく唇を結んだ。
そして、少しだけ照れくさそうに口を開く。
「……い、行ってきます」
慣れない言葉は、やっぱり少しだけぎこちなかった。
けれど、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
帰ってくる場所がある。
そう思えるだけで、旅立ちへの不安が少しだけ軽くなった気がした。
ルカは振り返って家を見つめた。
昨日までは、当たり前に帰るだけの場所だった。
けれど今は、それだけじゃない。
「ただいま」と「おかえり」を交わした、大切な場所。
旅に出ても、帰ってこれる場所。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ルドルフが振り返った。
「ルカ、行くぞ」
ルカはしっかりと頷く。
「はい」
二人は並んで歩き出した。
まず向かうのは、焼き菓子屋。
次回は7月5日に「伝えたい言葉を抱えて」を投稿します。
お楽しみに(^▽^)
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