花祭りの朝
目を開けた瞬間、木目の走る天井が視界いっぱいに広がり、窓辺から差し込む朝の光がやわらかく揺れていた。
まぶたの裏にはまだ、花びらのように舞い落ちる光と、泉に根を張る巨大な樹の姿がくっきりと残っている。
「……変な夢」
寝返りを打ちながら、吐き出すように小さくつぶやいた。
夢にしてはあまりにも鮮やかで、色も匂いも温度も現実と変わらぬほどに確かだったのに、触れようとすると指の間から零れ落ちていく。
ただ、不思議な声だけが耳の奥にこびりつき、胸の奥で小さな火のようにくすぶり続けていた。
――花びら。泉。深紅から紫紺へと色を変える大樹。降り注ぐ光の粒。
そして、静かに響いた声。
夢の中で、ルカはあの巨大な樹の前に立っていた。
根元には静まり返った泉が広がり、その底から淡い光がゆらめき立ちのぼる。
幹は深紅から紫紺へと滑らかに移ろい、まるで絹のような艶やかさを放っていた。
枝は雲を突き抜けるほど高く伸び、夜空の星と交わるところから光の欠片が降り注ぎ、森全体を照らし出す。
――天鵞絨の大樹。
その存在を直感でそう呼んだ。
周囲は深奥の森。四季の花が同時に咲き乱れ、花びらが霧とともに舞い、幻想の景色を編み出していた。
そこで、声がした。
低くも柔らかく、森の奥底から響き渡るような声。
『――聞け、春の子よ』
『胸の花は失われし輝きを呼び覚ます』
『絆は時を超え、集う時に道を開く』
『恐れるな。試練はあれど希望を抱き進め』
『仲間と共にあれ。一人では果たせぬ』
『お前の歩みは導きとなる』
『我は常に見守る』
その響きは命じるというより、ただ静かに告げるものだった。
未来を縛るのではなく、行く先を示す灯火のように。
けれどルカは、その意味を正確に理解できなかった。
言葉の輪郭だけが光の粒のように漂い、心の奥に沈んでいった。
――そして目覚めたのだ。
布団を押しのけ、裸足で床に降りる。木の床はひやりとして、ようやく現実に戻ったと身体に思わせてくれた。
窓を開ければ、丘を包む草原が朝靄に沈み、遠くの森が淡く霞んで見える。鳥のさえずりが澄んだ空気を震わせ、冷たい風が頬を撫でた。
「……今日は祭りか」
タンスを開け、一番ましな服を選び出す。袖に少し綻びのあるシャツを整え、革紐のほつれた鞄を肩にかけた。
年に一度の「花祭」は、街じゅうが花で彩られる大きな祭典だ。幼い頃から何度も見てきたはずなのに、今朝はなぜか胸が落ち着かない。
丘の上に建つ小さな家を出ると、冷たい朝の空気が一気に流れ込み、身体を目覚めさせる。
遠くから、もう太鼓や笛の音がかすかに聞こえてきた。
足元の土道は夜露で湿り、踏みしめるたびにやわらかい音を立てる。
道端には黄色や白の小花が咲き乱れ、草葉には露が光を反射して小さな宝石のように輝いていた。
鳥たちが枝から枝へ飛び移り、時折、羽音が森の静けさに混じる。
丘を下り始めると、向こうから羊飼いの老人が手を振ってきた。
「おはよう、ルカ! 祭りに行くのかい?」
「はい。朝から賑やかですね」
「そりゃあそうだ。今年は街じゅうを百花で飾るって話だからな。森で摘んだ花も使ってるらしいぞ」
「……楽しみです!」
軽く会釈し、再び歩き出す。
丘を下るにつれて靄は薄れ、街の方角から甘い花の香りが風に乗って漂ってきた。そこに混じるのは焼き菓子の香ばしい匂い。遠くの賑わいが、もうこちらまで届いている。
森の入口に差し掛かると、背の高い木々が陽を遮り、ひんやりとした空気に変わる。
木漏れ日が地面に斑模様を描き、土の上に落ちる足音が柔らかく吸い込まれていった。
――泉。
――大きな樹。
――降り注ぐ光。
ふいに、夢の映像が脳裏をよぎる。
「……なんで、こんなに覚えてるんだろ」
夢なんて、いつもは起きた瞬間に消えてしまうのに。今朝のそれだけは、消えるどころかますます輪郭を増して残っている。
頭を振って歩を速めたが、胸の奥の熱は消えるどころかじわじわ広がっていくばかりだった。
やがて森を抜けると、一気に視界が開ける。
坂の下には街の姿。まだ入口の手前だというのに、遠目にも鮮やかな彩りが見えた。
家々の屋根や窓辺には色とりどりの花が飾られ、通り沿いには旗や布がはためいている。
薄桃色のサクラ、鮮やかな黄色のレンギョウ、雪のように白いユキヤナギ。
季節の境を越えた花々が一斉に咲き誇り、風が吹くたびに香りの層が幾重にも混ざって流れてきた。
耳に届くのは、力強い太鼓の音と軽やかな笛の旋律。
呼び声や笑い声が重なり合い、ひとつの大きなうねりとなって街を包んでいる。
入口付近の広場には屋台の布が揺れ、花冠を売る娘の声や、焼き菓子を勧める男の声が飛び交っていた。
「……賑やかだな」
思わず呟く。けれど胸の奥には、まだ夢の残滓が消えない。
あの声の内容、ぼんやりとしか思い出せない。
でも――仲間を集え、とか、絆は時を超える、とか。そんな言葉だけは確かに心に残っている。
遠くで花火がひとつ破裂し、小さな光の粒が空に舞い上がった。
それは夢で見た光の欠片に少し似ていて、思わず足を止める。
街の喧騒はもう目の前にある。
けれどルカはまだ、入口に立ち尽くしたまま、胸に残る熱の正体を掴みかねていた。
――予言めいた声。
――仲間を集えという言葉。
――胸に宿る小さな火。
花祭の賑わいに包まれながらも、それらだけは静かに彼の心に息づいていた。