少し慌ただしい朝の支度
食器を片付け終えたあと、部屋の中にはまた静けさが戻っていた。
さっきまでの湯気の名残が、まだほんの少しだけ空気に残っている。
窓から差し込む光は、もう完全に朝のものだった。
ルドルフは立ち上がる。
「……じゃあ、準備するか」
「はい」
ルカも立ち上がった。
ほんの少しだけ、動きがぎこちない。
何から手をつければいいのか、まだ迷っているようだった。
ルドルフはそれに気づいたのか、軽く振り返る。
「そんな構えなくていいよ。適当に動きやすい格好に着替えてこい」
「あ、はい……」
ルカは小さく頷く。
自分の部屋――といっても、借りているだけの場所だけれど――へと向かった。
扉を閉めると、さっきまでとは違う静けさがあった。
自分一人の空間。
けれど、不思議とさっきよりも寂しさはなかった。
ルカは自分の荷物を見下ろす。
持ち物は多くないというより、ほとんどない。
畳まれた服がいくつか。小さな袋。
それだけだった。
「……ほんとに、物がないな」
ぽつりと呟く。
改めて見ると、少しだけ苦笑いが浮かぶ。
さっきの会話が頭の中によみがえる。
――着替えと、金と……寝泊まりできる道具一式。
どれも、ちゃんとした“旅の持ち物”だった。
それに比べて、自分の手元にあるものはあまりにも少ない。
「……まあ、買いに行くって言ってたし」
小さく息を吐く。
無理に考えすぎる必要はない。
そう自分に言い聞かせるように、ルカは小さく息を吐いた。
それから、そっと手を伸ばす。
自分の持っている数少ない服の中から、指先で一枚一枚を確かめるように触れていく。
布の感触を確かめながら、ほんのわずかに迷う。
その中で、一番ましだと思えるものを選び取った。
「ん~……これで、大丈夫かな」
小さく呟き、ゆっくりと着替え始める。
布が肌に触れる。朝の空気を含んだそれは、少しだけひんやりとしていた。
肩にかかる感触。腕を通すときの、かすかな引っかかり。
そうしたひとつひとつが、妙に意識に残る。
けれど、袖を通し終え、服の形が整っていくにつれて、さっきまでのぼんやりとした気持ちも、少しずつ引き締まっていった。
裾を軽く引き、皺を伸ばす。襟元を指で整え、呼吸をひとつ。
ほんの少しだけ、背筋が伸びる。
ルカは鏡の前に立ったまま、少しだけぼんやりとしていた。
映っている自分を見つめながら、さっきの会話を思い出す。
――自由に動ける。
――好きな場所へ行ける。
「……自由、か」
小さく呟く。
まだ実感はない。
けれど、その言葉は思っていたよりもずっと胸に残っていた。
しばらく、そのまま立っていた。
窓から差し込む光が少しずつ角度を変え、部屋の中の影もゆっくりと動いていく。
その変化に、ふと気づく。
「……あれ?」
ルカは顔を上げる。
光が、さっきよりも明るい。
時間が、思っていたよりも進んでいる気がした。
「……あれ?もしかして」
少しだけ嫌な予感がする。
慌てて窓の外を見る。
朝はもう“始まりかけ”ではなく、“しっかり始まっている”時間だった。
「やばい……!」
思わず声が出る。
ルカは急いで身なりを整える。
服のしわを軽く伸ばし、慌てて扉へ向かった。
ドアを開けて、廊下へ出る。
足音が少しだけ大きくなる。
「ルドルフさん、すみません! ちょっと遅れました!」
リビングに入った瞬間。
ルドルフがこちらを見て、ぴたりと動きを止めた。
「……」
一瞬の沈黙。
ルカは首をかしげる。
「……あの、どうかしました?」
ルドルフは何も言わない。
ただ、じっとルカの顔――いや、頭のあたりを見ている。
それから、ゆっくりと口元が緩んだ。
「……ルカ、お前」
「はい?」
「その頭、その状態で行くのか?」
「え?」
ルカは一瞬きょとんとする。
「頭……ですか?」
「いいから鏡、見てこい」
ルドルフは堪えきれないように言った。
ルカは慌てて近くの小さな鏡を手に取る。
そして、自分の姿を確認して――
「……っ!」
思わず声にならない声が漏れた。
髪の一部が、見事に跳ねていた。
それも、軽く整えれば直るようなものではなく、堂々と主張している寝癖だった。
「え、ちょ……なんで……」
慌てて手で押さえる。
けれど、ぴょこんと元に戻る。
もう一度押さえる。
やっぱり戻る。
「……っ」
ルカの顔が一気に赤くなる。
後ろから、くすっと笑う声がした。
「ぷっ、あははっ!すげえな、それ」
ルドルフは完全に笑っていた。
「さっきからずっと気になってたんだよ。いつ気づくのかと思って」
「は、早めに言ってくださいよ……!」
ルカは半分抗議するように振り返る。
「いや、面白かったからつい」
あっさりと返される。
「すぐ直してきます……!」
ルカはそのままくるりと向きを変え、急いで部屋へ戻っていった。
バタン、と少しだけ勢いよく扉が閉まる。
ルドルフはその様子を見て、また笑う。
「……ふっくくく、ほんと、飽きねえな」
ぽつりと呟いた。
――――数分後。
今度は、顔を少し赤らめながらさっきよりも少しだけ落ち着いた様子でルカが戻ってきた。
「……お待たせしてすみません」
さっきよりも声が小さい。
ルドルフはちらりと頭を見る。
寝癖は、なんとか収まっていた。
少しだけ不自然ではあるが、さっきよりはずっといい。
「寝癖、ちゃんと直ったな」
「……なんとか、頑張って直しました」
ルカは少しだけ視線をそらす。
「さっきのことは忘れてください……」
「それは無理な話だな、面白かったし」
即答だった。
「そんな、何でですか……」
ルカは小さく肩を落とす。
ルドルフは軽く笑いながら言った。
「まあいいじゃねえか。俺以外の誰かに見られるわけでもあるまいし」
「ルドルフさんにはすでに見られてますけど……」
「俺だけだろ」
その一言に、ルカは少しだけ黙る。
「……それは、まあ、そうなんですけど……」
完全には納得していない顔だったが、さっきよりは落ち着いていた。
ルドルフは扉のほうへ向かう。ルドルフは軽く笑う。
「ルカ、忘れ物はないか?」
そう言われて、ルカは一瞬だけ考える。
自分の持ち物。
さっき見たばかりの、あの少ない荷物。
「……はい、たぶん大丈夫です」
少しだけ曖昧な返事だった。
それでもルドルフは特に気にした様子もなく頷く。
「ならいいよ」
あっさりとした一言。
ルドルフは部屋の中をぐるりと見渡した。
火の元、窓、テーブルの上。
ひとつひとつ、確認するように。
ルカはその様子を少しだけ不思議そうに見ていた。
「……手慣れてるんですね」
「まあな。こういうのは家出る前からの癖みたいなもんだ」
ルドルフは肩をすくめる。
「あとで面倒事になるのが嫌なだけだ」
「なるほど……」
ルカは小さく頷く。少しだけ間があく。
部屋の中は、もうほとんど音がしない。
さっきまでの“朝の時間”が、静かに終わろうとしている。
ルドルフは扉のほうへ向かった。
「それじゃ、行くぞ」
その一言は、軽かった。
けれど、どこか区切りのようでもあった。
ルカも後を追う。
玄関に立つと、外の光が一段と強く感じられる。
扉の隙間から入り込む空気は、少しひんやりとしていた。
靴を履く。その動作ひとつが、妙に意識に残る。
ルカは一度だけ振り返った。
小さな家。静かな部屋。
ついさっきまでいた場所。
「……どうした?」
ルドルフが声をかける。
「いえ……なんでもないです」
ルカは小さく首を振る。
けれど、視線はもう一度だけ部屋の中をなぞった。
ほんの短い時間だったはずなのに、少しだけ名残がある。
ルドルフは特に何も言わず、扉を開けた。
外の光が一気に流れ込む。
朝の空気。鳥の声。
遠くで揺れる木々の音。
すべてが、はっきりと感じられた。
「ほらルカも来いよ」
「あ、はい!」
ルドルフが外へ一歩踏み出す。ルカもそれに続いた。
外に出ると、光がまぶしい。
思わず目を細める。
空は高く、雲はゆっくりと流れていた。
「いい天気だな」
ルドルフが言う。
「そうですね」
ルカも答える。
その声は、少しだけ明るかった。
一歩、また一歩。
家から離れる足音が、地面に小さく響く。
ふと、ルドルフが立ち止まった。
「あ、ルカ。家の鍵してきたか?しばらくの間ここには帰ってこれないぞ?」
「あ、そうでした。すいません、すっかり忘れてました」
ルカも足を止める。
ルカは振り返り、扉の前に戻る。
ポケットから鍵を取り出し、ゆっくりと差し込む。
カチャリ、と小さな音が鳴る。
その音は、思っていたよりもはっきりと耳に残った。
扉が閉まる。中の静けさが、完全に切り離される。
ルカは鍵を抜き、軽く回して確かめる。
「よし」
短く言った。
ルドルフはその様子を見ていた。
ただの動作のはずなのに、
どこか“区切り”のように感じる。
「……それじゃあ改めて、行きましょうか」
ルカが言う。
「ああ」
ルドルフは頷く。
そして二人は、並んで歩き出した。
次回は4月20日に「風に乗せた、少し遅い手紙」を投稿します。お楽しみに(^▽^)
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