まだ始まらない旅の朝
朝は、静かに明けていった。
夜の濃い色が少しずつほどけ、空の端からやわらかな橙色がにじみはじめる。
濃紺だった空は、ゆっくりと色を変え、紫がかり、やがて淡い金色を帯びていく。
遠くの雲の縁が、ほのかに光を受けて柔らかく染まりはじめていた。
窓の向こうには、朝焼けに染まり始めた森の影が広がっていた。
まだ深い影のままの木々が、朝の光を待つように静かに立っている。
枝と枝が重なり合い、遠くの森は一枚の影絵のようにも見えた。
まだ太陽は姿を見せていない。
けれど、世界は目を覚まし始めている。
空気はひんやりとして、夜の冷たさを少しだけ残していた。
窓の外には、朝露に濡れた草がうっすらと光り、新しい一日の匂いが静かに広がっている。
外から、小さな声が聞こえてきた。
「めぇぇ……」
ヤギの鳴き声だ。どこか近くの牧場だろうか。
まだ眠そうな、少し間延びした鳴き声だった。
夜明けの空気に溶けるように、のんびりと響く。
その声に続くように、
「コケコッコー!」
少し遅れて、ニワトリの元気な鳴き声が響く。
静かな朝を切り裂くような、力強い声だった。
朝の音だった。
夜が終わり、世界が動き出す合図。
眠っていた家々や畑、森の生き物たちに、「朝が来た」と知らせる声だった。
町はまだ静かだが、その静けさの奥で、少しずつ一日が動き出している。
どこかで扉が開く音。
遠くの道を歩く誰かの足音。
水を汲む桶のかすかな揺れ。
目には見えない小さな気配が、町のあちこちでゆっくりと広がり始めていた。
そんな朝の光が、町はずれの小さな家の窓から差し込んでいた。
森に近いその家は、町の端にぽつんと建っている。
派手さはないが、長く使われてきたことが分かる落ち着いた家だった。
窓枠は少し古びているが、丁寧に手入れされている。
朝の光はその窓を通り、柔らかな金色になって部屋へ流れ込んでいた。
カーテンの隙間から入る光が、ゆっくりと部屋を照らす。
はじめは細い一本の線だった光が、時間とともに少しずつ広がっていく。
その光は、部屋の中を静かになぞっていった。
テーブルの上のカップ。
昨日の夜に使われたままのそれは、まだわずかに温もりを残しているようにも見えた。
壁際の本棚。
大小さまざまな本が並び、
ところどころに紙の栞が挟まれている。
冒険譚、古い物語、旅の記録。
何度も読み返されたのか、背表紙が少し擦れている本もあった。
椅子の背にかけられたコート。
まだ朝の冷たい空気が残るこの季節に欠かせない、厚手の外套だ。
袖が少し揺れて、窓から入る風のわずかな気配を伝えていた。
そして――
机に突っ伏すようにして寝ていた男の頭も、朝の光に照らされていた。
淡い朝焼けの光が、窓から静かに差し込み、机の上をゆっくりと滑っていく。
紙の端、インク瓶、散らばったメモ書き。
そして、その中に埋もれるようにして眠っている男の頭。
静かな部屋の中で、かすかな呼吸だけが続いていた。
「……ん」
かすかに声が漏れる。
まぶたがわずかに動き、頬にかかっていた髪が、呼吸に合わせて揺れた。
薄い色の髪が少し揺れ、長めの前髪の奥で若葉色の瞳がゆっくりと開いた。
まだ焦点の合わないその瞳が、ぼんやりと朝の光を受ける。
ルドルフだった。
彼はぼんやりと顔を上げる。
しばらくのあいだ、何も考えていないような顔で、ただ机の上を見つめていた。
頭がまだ起きていない。
意識がゆっくりと現実へ戻ってくる途中だった。
机の上には、紙が何枚も広がっている。
書きかけの紙。メモ書き。走り書きの文章。インクの跡。
ところどころに、少し滲んだ文字もある。
急いで書いたのだろう。
紙の端には、思いついた言葉が短く並んでいた。
ペンもそのまま転がっていた。
握ったまま眠ってしまったのか、インクの先が少し乾きかけている。
「……あぁー……」
小さく声を出し、背筋を伸ばす。
体を起こした瞬間、固まっていた筋肉が一気に伸びる。
肩のあたりで「ぽきっ」と小さく音が鳴った。
「ふぁ~ぁ…やばぃ……寝てたのか」
かすれた声で呟く。
そのまま口元を手で覆いながら、大きなあくびをした。
涙が少し滲む。
どうやら夜遅くまで起きていたらしい。
机の上の紙を一枚めくる。
ぱらり、と軽い音がする。
そこには、短い文章がいくつも書き連ねられていた。
走り書きの物語の断片。
思いついた会話の一行。
情景のメモ。
旅の情景のようなもの。
朝焼けの空。
遠い町の灯り。
列車の窓から見える景色。
思いついた会話。
短編の書き出し。
物語になりかけた言葉が、紙の上に散らばっていた。
見習い小説家として、思いついたネタを片っ端から書き留めていたのだろう。
ふと思いついた瞬間に書かないと、すぐ消えてしまうものだからだ。
ルドルフは紙をもう一枚めくる。
そこにも、書きかけの文章があった。
途中で線が止まっている。
そのまま眠ってしまったのだろう。
「……途中で寝落ちたな、これ」
苦笑する。
口の端が少し上がる。
書きかけの文章を指先で軽く叩きながら、小さく息を吐いた。
そのときだった
「……ルドルフさん?」
眠そうな声が、廊下の向こうから聞こえた。
まだ朝の静けさが残る家の中に、その声はやわらかく響いた。
遠慮がちな呼び方だった。
ルドルフが顔を上げる。
さっきまでぼんやりと机の上の紙を眺めていた視線が、廊下のほうへ向く。
「起きてますか?」
もう一度、声がした。
今度は少し近い。
その声には、どこか不安と期待が混ざっている。
本当に起きているのか確かめるような、そんな声だった。
足音が近づいてくる。
トントン、と軽い音。
まだ完全に目が覚めていないような、少しゆっくりした足取りだった。
廊下の木の床が、小さく鳴る。
やがてリビングの入口に、ひょこっと顔が出た。
ルカだった。
扉の影から、様子をうかがうように少しだけ顔を出している。
少し跳ねた髪。
寝癖が完全には直っていないのか、ところどころがふわりと浮いていた。
そして、濃いピンクの瞳。
だが――
その瞳は、今はあまりはっきりと開いていなかった。
その顔は、なんとも言えないほど眠そうだった。
まぶたが重そうに下がり、
目が半分閉じかけている。
まるで、起きてはいるけれど
まだ夢の続きに片足を残しているような顔だった。
ルドルフはそれを見て、思わず吹き出した。
肩がわずかに揺れる。
「……お前もか」
半ば呆れたように言う。
「え?」
ルカはきょとんとする。
何を言われたのか分からないという顔で、
首を少し傾げた。
「顔」
ルドルフは自分の目の下を指で指した。
指先で軽くトントンと叩く。
「完全に寝不足顔って表情してんぞ」
ルカは一瞬ぽかんとしたあと、
「あ……」
小さく声を漏らした。
何か思い当たることがあったのだろう。
自分の頬を触る。
指でそっと目元を押さえてみる。
「やっぱりわかっちゃいますか?」
少し照れたように笑う。
どこか気まずそうに視線をそらした。
「分かる分かる」
ルドルフは笑いながら椅子に深く座った。
背もたれに体を預ける。
まだ完全には目が覚めていないらしく、
少し気だるそうに肩を回す。
その様子を見て、ルカも小さく笑った。
どうやら――
眠そうなのは、二人とも同じらしかった。
朝の光が少しずつ強くなり、リビングの中をゆっくりと明るくしていく。
窓の外では、森の影がやわらかくほどけはじめていた。
そんな中で向かい合う二人は、どちらもどこかぼんやりした顔をしている。
「めちゃくちゃ眠そう」
ルドルフがくすっと笑いながら言った。
言われたルカは、少しだけ肩をすくめる。
自分でも分かっている、といった様子だった。
ルカは少し照れたように笑う。
「いや……その……え…っと」
うまく言葉が出てこないのか、視線を少し泳がせる。
ぽりぽりと頬をかきながら言った。
「楽しみで、あんまり寝れなくて」
声は小さいが、どこか弾んでいる。
隠そうとしても隠しきれていない嬉しさが、そこにあった。
「あはは!」
ルドルフは肩を揺らして笑う。
声を出して笑うほど可笑しかったらしい。
「お前は子供か」
からかうように言う。
ルカは少しむっとした顔になった。
「ルっ、ルドルフさんだって眠そうじゃないですか」
慌てたように言い返す。
その言い方が、どこか言い訳っぽい。
ルドルフは椅子に深く腰掛けたまま、軽く肩をすくめた。
「俺は仕事だよ」
そう言って、机の上に広がった紙を軽く叩く。
ぱさり、と紙が揺れる。
「いろいろネタとなる原稿書いてた」
机の上には、まだ書きかけの紙がいくつも残っていた。
インクの跡、書きかけの文、途中で止まった線。
夜の間に思いついた言葉たちが、そのまま残されている。
ルカが近づいて、紙をちらっと覗く。
机の上に広がる文字を、興味深そうに見つめた。
「ルドルフさんの小説ですか?」
目を少し輝かせながら聞く。
「まあな」
ルドルフは肩肘を机につきながら、気軽に答えた。
特別なことのようには言わない。
だが、その声にはどこか照れくささも混じっていた。
「すごい……」
ルカは感心したように言う。
紙に並んだ文字を、まじまじと見つめている。
物語の断片。
短い会話。
旅の情景。
どれもまだ途中のものばかりだったが、
ルカにはそれでも十分すごいことのように見えた。
「これ、朝まで書いてたんですか?」
素直な疑問だった。
ルドルフは少し間をおく。
「それがだな、途中で意識が途切れて…」
言いながら、腕を組む。
そして、すごく真剣そうな顔になる。
まるで大事な話でもするかのように。
ルカは思わず身を乗り出した。
「はい」
次の言葉を待つ。
ルドルフは一拍おいて、あっさり言った。
「気づいたら机で寝落ちてた」
しん、と一瞬だけ空気が止まる。
そして――
「なんですかそれ、ぷっアハハ!」
ルカは思わず笑い出した。
声を抑えようとしたが、こらえきれない。
肩が小さく揺れる。その笑い方は、どこか無邪気だった。
「真剣な顔して言うから、もっとすごい話かと思いましたよ」
笑いながら言う。
ルドルフもつられて小さく笑った。
「いや、割と真面目な話だぞ」
「そうなんですか?」
「思いついたこと書いてたら、そのまま落ちた」
「完全に寝不足の原因じゃないですか」
「まあな」
ルドルフは肩をすくめる。
大したことじゃない、と言いたげな仕草だった。
そのやり取りが、妙に可笑しくて、
ルカはまた小さく笑った。
さっきよりも少しだけ柔らかい笑い方だった。
その笑い方が、どこか嬉しそうだった。
今日が、特別な日だからかもしれない。
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
楽しみと、不安と、期待と、いろいろな気持ちが混ざっている。
けれど――
それでも。
やっぱり今日は、特別な日だった。
旅に出る朝。
何か才能もなく、親を亡くし親戚にたらいまわしにされて、そこから逃げるようにこの町で暮らしてきた自分が、初めて外の世界へ出る日。
そんな朝の始まりを、こうして誰かと笑いながら迎えられていることが、ルカには少しだけ嬉しかった。
「でも」
ルカは窓のほうを見る。
朝焼けの光が、部屋を少しずつ明るくしていた。
金色の光が床を伸び、テーブルの脚を照らしている。
窓の外の森も、夜の影からゆっくりと目覚めていた。
「朝になりしたね」
ルカがぽつりと言う。
「だな、朝日が少し眩しい」
ルドルフも窓を見る。
椅子に座ったまま、少し体をひねって外へ視線を向ける。
森の影が、朝の光の中でゆっくりと色を変えている。
黒かった木々が、少しずつ輪郭を取り戻す。
葉の形が見え、枝の間に光が差し込む。
その景色を見ながら、ルカはぽつりと言った。
「いよいよ、ですね」
声は小さかった。
けれど、その言葉には重みがあった。
ルドルフは小さく息を吐く。
「……ああ、そうだな」
短い返事だった。
けれど、それで十分だった。
二人とも、同じことを思っている。
旅の朝だった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、朝の光を見ていた。
外ではまた、ニワトリが鳴く。
「コケコッコー!」
元気な声が、朝の空気を突き抜ける。
その声に、ルドルフがふっと笑う。
「いい出発日和だな」
空を見上げながら言う。
「空も晴れて、雲もひとつもないし」
ルカも窓の外をのぞく。
朝焼けの空が、少しずつ青に変わっていく。
「そうですね、ほんといい天気です」
ルカも笑った。
「雨だったらちょっと残念な出発でしたもんね」
「それはそれで小説のネタにはなるけどな」
「え、そうなんですか?」
「旅立ちの日、土砂降りの雨」
ルドルフは少し考えるような顔をする。
「主人公がびしょ濡れになりながら出発する、ちょっぴり不憫な旅の始まりの物語」
「それはそれで大変そうですね……」
ルカは苦笑した。
「でも、今日はきちんと晴れました」
「だな」
「本当によかったです」
「俺もそう思う」
そして――
二人は顔を見合わせる。
眠そうな目。
ぼんやりした表情。
目の下には少しだけ寝不足の影。
それがあまりにも同じだった。
ルカが一瞬黙る。
ルドルフも、ふと視線を合わせたまま止まる。
一瞬の沈黙のあと、
「……ぷっ」
「……っふ」
二人同時に吹き出した。
「あははは!」
ルドルフが声を上げて笑う。
「ふふっ!」
ルカもつられて笑う。
「なんで笑うんですか」
「いや、お前の顔がさ」
「ルドルフさんも同じ顔してますよ」
「え、そうか?」
「はい、完全に寝不足顔です」
「お前には言われたくないな」
また笑いがこぼれる。まだ眠い。
頭も少しぼんやりしている。
それでも。
この朝が、たまらなく嬉しかった。
「ふ、くくくっ……お腹痛い。あ、そうだルカ。言い忘れてた」
「ふふっ……はぁ〜、はいなんですか?」
「すっかりほかのことに気を取られてて、忘れててな。ちゃんと挨拶してなかったわ。おはよう、ルカ」
「…っはい。おはようございます、ルドルフさん」
小さな家のリビングで、
旅に出る二人の声が、静かな朝にやわらかく広がっていた。
しばらくの間投稿お休みします。
自分の試験本番が迫っていて…試験がちゃんと合格したら帰ってきます。しばらくお待ちください。
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