60 交渉
景郎に視界を塞がれたモユルの耳を、連続する硬質な激突音が打つ。
「大丈夫。なんとか防げた」
力強く抱き締めてくる景郎の、落ち着いた声。
それが不思議なほどはっきりと聞こえて、モユルは周囲に轟く激突音がやけに遠いことに気がついた。
モユルは頷いた。景郎が何をしたか理解したのだ。
さらにひと呼吸ほどの時間をおいて、唐突に龍の攻撃が止まった。景郎が身を離して再び空の龍を見上げる。
モユルは素早く辺りを見渡した。地面に反射して細かく砕かれた水煙と土煙が、自分達を取り囲むように舞っている。
そしてその中心部は――鈍化の結界に覆われていた。龍の攻撃を察知したとき、景郎がマクサガーテを足元に向けて最大範囲で撃っていたのだ。
「大丈夫だよモユルさん」
前に立つ景郎が、龍にも聞こえるような大声で言った。ほんのわずかのうちに全身を濡らしており、彼の着るジャージには無数の小さな穴があいていた。
「どんなに加速されていても元の粒が小さいから、この程度の攻撃ならマクサガーテで完全に威力を殺せる」
嘘だ。景郎は嘘を言っている。モユルの目の前で、景郎の背中がじわじわと赤く染まりつつあるのだ。景郎の様子から察するに大した怪我ではないようだが、少なくとも「完全に」ではない。
モユルには景郎の意図が掴めなかった。
出血している背中をこちらに晒しているからには、モユルではなく龍に対しての嘘なのだろうことは判る。しかし今の発言は、裏を返せばもっと大きな水の矢は防げないと言っているも同然ではないか。
「龍よ。見ての通りあなたの攻撃は俺たちに効かない。頼む、話を聞いてくれ」
結界の中で、景郎がもう一度龍に呼びかけた。事前の作戦相談で、自分たちを鈍化の結界で覆った時は、指示があるまで解かないでいてくれと言われている。
景郎が嘘をついている理由も、自分たちの行動をも阻害する結界を張ったままの理由も、モユルには分からない。
しかし落ち着きを取り戻した今、モユルからほんのわずかな不安さえ消えていた。ついさっきまで恐怖に戦き、あまつさえ早々に全滅していたかも知れないというのに、景郎を見ていると勇気が湧いてくる。
景郎は自分が弱体化してしまったことを教えてくれた。モユルに期待すると言ってくれた。それは言葉だけでなく、共に戦う相棒として信頼してくれていることが、背中から伝わってくる。
だからモユルは、景郎を心配することをやめた。信頼には信頼で応えるだけでいい。
そしてこんなときの景郎は、いつだって期待に応えてくれていた。きっと、今回もそうだ。
今の二人ならどんな困難でも乗り越えられる、そう信じた。
龍は上空に留まったまま、沈黙している。こちらの力量を推し測るように眺めているだけである。その周囲では、半分ほどにまで量を減らした水塊が宙に漂っていた。
景郎がマクサガーテの銃口を下におろしたまま、もう一度呼びかける。
「龍よ、頼む。俺はあなたを殺したくないんだ」
「……汝ゴトキガ我ヲ屠ルト言ウカ」
「それはやってみなくては分からない。だがあなたの攻撃が通用しないことは証明したはずだ」
「愚カ者メ!」
水塊が再び脈動する。景郎は即座に反応した。
「解除!」
まさか龍に攻撃の意志が見えたとたんに指示されるとは思っていなかったが、モユルは迷わず結界を解いた。
次の瞬間、上空の水塊から次なる水の散弾が射ち出された。
否、散弾ではない。先程の攻撃が雨粒だとするなら、今度は槍だった。やはり龍は景郎の「元の粒が小さいから」という言葉を聞き逃していなかったのだ。
重量が増している分だけ初速が落ちている可能性もあるが、恐らく今回は広域に分散させていた加速力を一点に集中させている。
それによって、もし速度が同じであるならば、その威力は質量の増加に伴い爆発的に上がっていることになる。雨粒ほどの質量でも完全には防ぎきれなかったのだ、この水の槍なら鈍化の結界など容易く貫いてしまうだろう。
回避を試みるにしても、これが単発で終わるとは考えにくく、連続で躱し続けるのはタケハヤで強化された景郎でも難しいだろう。モユルに至っては論外だ。
この絶体的な危機に対して、景郎は――
結界解除と同時に、右手に握り込んでいた小石を親指で弾いていた。すぐさま足元に向けてマクサガーテを撃ち、結界を張り直す。さらに手首を返し上に連射。
空に向けて撃った結界弾の一つは小石に、残りの弾は次々と射出される水の槍に命中した。
鈍化された水の槍は、自身にかけられた結界、他の槍の結界、空中に漂う小石の結界、そして地面に設置された結界に次々と接触し、それぞれに干渉して大幅に速度を減じた。
こうして景郎たち二人に到達する頃には、ただの水塊として力なく下降するだけとなっていた。防御することは不可能かと思われた龍の攻撃を、見事に凌ぎ切ったのだ。
「……凄い」
モユルの唇から、感嘆の呟きが漏れた。
鈍化の式銃――マクサガーテは、着弾した対象を中心として、内部の空気に粘性を付与する効果を持った結界を張る。
結界内の空気は外と比べて流動速度も落ちるため、対象が早く移動すればするだけ、加速度的に気圧が上昇する。つまり空気の壁を作り出すのだ。
景郎はここからさらに指弾で弾いた空中の小石と、自分たちの足元にも結界を張って多層構造にすることで、より効果を増強したのである。
もちろんモユルはそういったことを理解したわけではない。ただ、さっきの「粒が小さいから」という失言とも挑発とも取れる発言は、龍の攻撃を誘うためだったということは察していた。
その目的は――龍の周囲に浮かぶ水塊を消費させることであろう。もちろん交渉による平和的解決も諦めてはいないだろうが、最後の仕掛けを作動するためには、水を纏われていると非常に都合が悪いのである。
いまや龍は全ての水を使い切っている。事前に相談をしたときは、さすがの景郎も龍が淵の水ごと飛翔するとは予想していなかったが、これでようやく作戦を進めることができるようになったわけである。
景郎はモユルに作戦を伝えるとき、進行状況を何段階かに分けていた。これは同時にモユルへの行動指示も兼ねており、「フェーズ」という合言葉がそのきっかけとなる手筈である。
作戦の第一段階は、龍との交渉、及び淵から誘きだすこと。
第二段階は、カグチの救出である。
「龍よ。今度の攻撃も凌いだぞ。これでもまだ戦うのか」
景郎が結界の中で三度龍に呼びかけた。
返答の代わりとばかりに龍が咆哮した。シロガネも何度か使っていた衝撃波である。これとて必殺の威力を持っていたが、結界に遮られて敢えなく立ち消える。
「無駄だってば。シロガネの中にいたんなら、それもマクサガーテで防げることは知ってるだろ」
モユルは、景郎とシロガネの訓練を思い出した。その中で景郎はシロガネの衝撃波について、「列波の強力なやつかと思ったけど、これは空気の振動だね。運動エネルギーそのものじゃないから、至近距離でなければマクサガーテで防げるな」と言っていたのだ。
景郎は最後までタマヒを使えなかったが、術式が巻き起こす現象の一つ一つをつぶさに検証し、独自の考察をしていた。モユルが彼をして導師に向いていると感じた理由の一つである。
不意打ちの衝撃波までやすやすと防がれた龍が、忌々しげに牙を剥いた。
「オノレ……ヤハリ汝ハ侮レヌ。ダガ地ヲ這ウ汝ノ手ハ我ニ届カヌゾ」
「あなたの怒りは理解していると言っただろう。だから俺が攻撃しないのは、あなたと戦いたくないからなんだ。もちろん簡単に勝てるとは思っちゃいないけど、全く手が出せないわけじゃないさ」
それとね、と景郎は続けた。
「言っておくけど、ここで俺を避けて都に行ったとしても、あそこにはまだスサがいるよ。悔しいけど俺なんかとは比べ物にならないくらい強い、あいつが」
ぐうう、と龍が低い唸りを上げた。葛藤しているのだ。
「頼む、どうか鎮まってくれ。繰り返すが、今の龍の都はあなたを奉じている。そして、もしこれから先、あなたを利用し害そうとする者が現れたなら……」
景郎が、はっきりと言った。
「俺はあなたに味方する。ともに戦う。たとえそれがイサの血族たち……スサであっても」




