59 龍の淵
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夜が間近に迫っていた。
無慈悲に時を刻む夕陽が、朱に染まる木々の中に沈もうとしている。切り立った崖の傍らに建つ神殿の周囲に広がる森には、生物の息吹が感じられない。
不自然なほどの、静けさ。この地に満ちる怒りの気配に、森そのものが怯えているかのようだった。
モユルは、かつて二人で落ちた崖の上で、いつものジャージ姿に戻って棍を右手に立つ景郎の背中を見つめていた。
崖下を流れる川の淵は、龍脈の流れと重なっている。かつてここに棲み、龍の都初代王マハラ・ナギによって殺された龍の、その死をもって呼び水とされた龍脈である。
そしてその龍脈は約三十年の時を経た今、復活を果たしこの地に戻ってきた龍の力を急速に回復させつつあるのだ。
神殿に到着するなり淵を覗きこんだ景郎は、現状で望みうる最高の条件が揃ったと言った。
淵の底に見える影に、モユルたち二人の気配に気付いた様子はなかった。休眠状態なのか、未だ完全復活には至っていないと見ていいだろう。
早々に発見できたことも幸いしていた。龍がこの淵に戻っていることは都で聞いた報告にあった通りだが、万が一他所に潜まれでもされていれば、その捜索から始めなければならなかったところである。
そして何よりも大きかったのは、神殿の設備が使えるこの場所で、策を施す時間が得られたことだった。
神殿内部の、祭壇が設置された板間を含む土間には、龍を仕留めるための罠が仕掛けられている。
崖の縁には、近くの木に結びつけられた縄。
その手前には、モユルが描いた円形の術式法陣。法陣の中心と三方には、くさびで打ち込まれた小さな珠が配置されている。ユラの奥の手である二重四相・三次元術式法陣タケハヤである。
その中に立つ景郎の背中を、モユルはじっと見つめ続けた。
いつまでもこうしている訳にはいかないと分かっているのに、どうしても行動を起こすことが出来ずにいる。
モユルたちがここまでの準備をする間、幸いにして龍に気取られることはなかった。しかしタケハヤを使って周囲のタマヒを大量に消費すれば、さすがに察知されるだろう。死地は、すぐ目の前にある。
だがモユルの躊躇いは、そんなことのせいではなかった。
「大丈夫だよ」
崖の方を注視したまま、穏やかに景郎が呟いた。
「この体はまだ普通の人より強いし、今までの経験までは失っていない。だから全力で頼む」
タケハヤは、込められたタマヒの量に比例して対象者の膂力を増大させる術式である。ただし増加するのはあくまで筋力だけであり、それを支える骨格や腱までは強化されない。つまり最悪の場合、自らの力で自壊する危険性を孕んでいた。
しかも景郎は、ただでさえ規格外のタマヒ許容量を持つモユルに、さらに聖仗の力まで使えと言ったのだ――たった一夜にして見る影もなく弱体化してしまった、その身体で。
「カゲローさん……信じてる、からね」
一瞬だけこちらを振り返った景郎が、いつかと同じ顔で笑う。
モユルの心は決まった。左手の聖仗を地面に立て、右手で結印する。
深く息を吸う。そっと囁く。
「――魂霊もて礎を定め、吾当に界を結ばん」
地面に描かれた術式法陣が結界を築いた。くさびで打ち込まれた四つの珠がタマヒで連結される。
本来、三次元術式法陣の運用は全て言霊の入力によって行われるよう設計されているが、このタケハヤは簡易式であるため、前段階で環境を整えなければならなかった。当然ながらその分だけ術者の負担は大きくなるが、桁外れの許容量を誇るモユルにとっては大した問題にはならない。
だがこの場において、術式が成るまでの行程が一つ増えてしまったことによる時間の遅延は大きな痛手であった。
モユルはただちにタケハヤを行使した。
「二重四相・三次元術式法陣タケハヤ、起動」
下方から大きな水音が聞こえた。異変を察知した龍が動き出したのだ。やはり見過ごしてはくれない。
「内番、展開。壱番、弐番、参番、展開」
それぞれの珠を起点とした術式法陣が次々と展開し、景郎を覆う正三角錐を形成する。
モユルは何者かの視線を感じた。龍だ。異常なタマヒの動きを感知した龍の目が、崖を隔ててなおこちらを捉えている。
モユルは身震いした。ただ視られているだけで、身がすくむほどの重圧を感じる。
「全番、定礎。術式法陣相、固着」
ついに三次元術式法陣が完成した。珠に蓄積されたタマヒだけでも強化はされるが、しかしそれだけでは足りない。タケハヤが真価を発揮するには、ここからさらにタマヒを注ぐ必要があった。
急がなくてはならない。聖仗の力を借りて全力でタマヒを注ぐモユルの耳を、地鳴りの如き咆哮が打った。
怒りに満ちたその声に、モユルは総毛立った。
畏ろしい。理性とも感情とも違う、もっと根元的な所から沸き出でる畏怖の念に、モユルの心が悲鳴を上げる。もし景郎の忠告がなければ、とうに戦意を挫かれていただろう。
気を抜けばあっという間に思考を塗り潰されかねないほどの恐怖に耐え、モユルはタマヒを注ぐ。
激しい水音が聞こえた。未だ姿は見えずとも、圧倒的な存在が近付いてくるのが分かる。
「モユルさん!」
景郎の叫び。モユルはすかさず最後の言葉を放った。
「タケハヤ、発動」
瞬間、景郎の体が雷に打たれたかのように痙攣した。
ほぼ同時に、龍が咆哮と共に天を昇る。
周囲に水を纏い天空に鎮座するその姿は、神の名を冠するに相応しい威容を備えていた。
碧の鱗は夕陽を受けて紫の光沢を放ち、憤怒に燃える目で睥睨する。
大きさは都で暴れていた翼持つ蛇の魔物とそれほど変わらないだろう。人間程度ならひと呑みにすることもできようが、山の如き巨駆というわけではない。
しかし強大な力を内包した神々しさとでも言うべき佇まいが、実際よりも何倍も巨大であるかのような錯覚を起こさせていた。
モユルは目眩にも似た足元の覚束なさを感じた。遠近感が掴めない。見ている光景と肌で感じる感覚がまるで噛み合わないのだ。
見る者全てを圧倒する超越的な存在を前に、景郎がそれでも怯むことなく棍を放して両腕を広げた。
「龍よ、話がしたい。言葉は通じているんだろう?」
棍を手放しはしたが、景郎の右手は閉じられたままだった。何かを握り込んでいる。
龍の瞳がぎょろりと動き、値踏みするように景郎を眺めた。
警戒しているのだろうかと、モユルは思った。昨夜の景郎は、復活したばかりで弱っていたとはいえ、この龍を圧倒したのである。
「……人ナラヌものヨ。何用カ」
ややあって龍の声が脳裡に響いた。景郎が大きく息をつく。
「感謝する。俺は大庭景郎。こちらは龍の巫女モユル。名を、教えてくれないか」
「好キニ呼ブガイイ。アノ憎キ者ドモニ与スル汝ニ名乗ル名ナドナイ」
憎き者、という言葉と共に凄まじい覇気が叩きつけられ、モユルはついに平衡を失って跪いた。必死に見上げた視線の先には、小揺るぎもしない景郎の背中。
「あなたの憎悪は知っている。しかしシロガネの中にいたあなたも知っているだろう。ナギ王――イサは既に亡く、今の龍の都はあなたを祀り奉じている。どうか鎮まってもらえないか」
「ヤハリ我ガ復讐ノ邪魔ヲスルカ」
龍が牙を剥いた。
モユルは、ぞろりと並ぶその中の一本に、強いタマヒを視た。あの牙がカグチを咬んでいるのだ。
「イサの子供たちは、彼の行いを何も知らなかったんだ。いまあなたが咬んでいるその子もだ。あなたほどの神が、何も知らない子供まで殺すというのか」
「然リ。アノ憎キ者ハ、タダ此処ニ在ルノミダッタ我ヲ謀リ戮シタ。ソノ血族、彼奴ニ服シ彼ノ地デ驕奢ヲ恣ニスル人間ドモ、全テニ悉ク死ヲモッテ報ワネバ、我ガ怒リハ収マラヌ!」
龍の周囲に浮かぶ水塊の表面に、突如として細波が走った。
景郎の左手が腰に伸びる。
「待っ――」
「邪魔立テスルナラバ、汝モ死ヌガイイ!」
有無を言わせぬ龍の怒号。
目を見開いて上空を見上げたまま動けずにいるモユルを、振り向いた景郎が覆い被さる。
同時に、水塊から無数の水滴が放たれた。それらは雨粒とそれほど変わらない大きさだったが、凄まじい加速度を与えられ、一粒一粒が岩をも穿つ威力を持っていた。
間断なく射出される水の散弾が、破壊を撒き散らす死の豪雨となって二人を襲った。




