44 遺恨
油断なく鉄鍋を構えたカグチが、低く指示する。
「姉さん、下がって」
促されて少し後退したモユルの目の端に、カグチの帯の背中側に差されたすりこぎ棒が映った。とっさの判断で、鉄鍋ばかりかこんな暗器まで仕込む抜け目のなさは、さすがはナギ王の血を引くユラの息子である。恐らくモユルの見えない数手先まで想定しているに違いない。
とは言え、カグチにとってこれは初めての実戦であり、加えてスサの評価とは裏腹に「僕は戦闘に向いていない」が本人の弁である。決して楽観視できる状況ではなかった。
「ほう……表の結界の他にも色々と仕掛けがあるようですね。それにユラ導師には、完全機械制御の技術もありましたか」
興味深そうに辺りを見回していたマミカが、上がり框の前で歩を止めた。数歩の距離を置いて対峙する。
「あなたは……マミカ導師なのですか、それとも」
モユルは「蛇」という言葉を呑み込んだ。南の神域ではそう呼ばれることをとても嫌っていたからである。それにこのマミカは、最後に見たときのような、人外の姿ではない。少なくとも肌の鱗は消えている。
「人間ゴトキガ我ヲドウ呼ボウト……」
一度は険しくなったマミカの表情が、皮肉げな笑顔に戻った。
「いいえ、いいえ。もう自分でも自分が何なのか分からなくなってるけど、あんたの前ではあたしはマミカ。マミカよ」
モユルは違和感を覚えた。このマミカ導師は、南の神殿で正気を失っていたマミカ、後に蛇の魔物の性質が表面化したマミカ、そのどちらとも違う。
彼女は誰だ。
それともこの人格こそが、マミカ本来のものなのだろうか。しかし一度融合した魂を分離するのは、ほぼ不可能なのではなかったか。それとも術式が不完全だったがゆえの、人格のゆらぎなのだろうか。
まるで解らないことだらけだが、一つはっきりしているのは、彼女の人格が安定していないということだ。この短いやりとりの間にも、頻繁に口調が変わっている。
しかしあの時のように、錯乱気味に見境なく攻撃してくる様子はない。少しでも話をする余地があるのなら、モユルには先に言っておかねばならないこと、聞いておかねばならないことがある。
「ではマミカ導師、聞いてください。あなたは誤解をしています。スサ様とは、本当に何もないんです。私は」
「黙れ」
マミカの前に突如として術式法陣が展開された。無詠唱の練火が、問答無用でモユルの顔をめがけて放たれる。
その不意の一撃は、カグチが待ち構えていたかのように危なげなく鉄鍋で受け、モユルの隣でユラがマクサガーテの銃口をマミカに向けた。
「ちょいと、このめでたい日に手荒な真似はやめてくンないかね。この娘の言ってることは本当だよ」
憎しげに目を見開いてカグチを凝視していたマミカの口元が、いびつにつり上がった。
「アア……ああ。もうそんなことはどうだっていいのよ。我ハ……いいえ、いいえ、私が殺す」
「あんた……あんたほどの優れた導師が、どうしてそんなになっちまったんだい」
「優れた……ですか。そう言えばあなただけでしたね、私を評価してくれていたのは」
神は敬うもの、魔は忌避するもの――という認識が常識の世にあって、神と魔を同根のモノとして扱うマミカの研究は、畏れを知らぬものとして他の導師たちから明らさまに避けられていた。
その中でユラだけがマミカをとても高く評価し、自分の研究にも応用していたのである。
「私は何も知らなくて、他に出来ることもなかったから、それでもいいと思ってた。何も欲しがらないでいようと思ってた。……でも、私は知ってしまった!」
マミカが両手で顔を覆った。
「ああ……ああああ」
目の下で爪を立て、頬が抉れるのにもかまわず、ゆっくりと引き裂く。
「愛しさに身を委ねるのは、なんて苦しいの。憎しみに身を委ねるのは、なんて安らかなの」
傷口を伝う血が顎から滴り落ちて、マミカの襟元を赤く濡らしていく。うふふふと笑う。まるで痛みだけが生の証だと言わんばかりの、凄絶な笑み。
徐々に常軌を逸してゆくマミカに、モユルは恐怖を覚えた。しかし躊躇している暇はない。自分がマミカであるという自覚があるうちに、どうしても訊いておかねばならないことがあるのだ。
「マミカ導師。シロガネは……シロガネとカゲローさんを知りませんか」
モユルは、マミカを救うための出来うる限りの努力をするつもりだった。その考えは早い段階で景郎やユラ親子にも伝えており、条件付きで了承も得ている。
その条件とは、南の神域でそうしたように、モユルの強制解術によってマミカを無力化できれば、というものだ。
しかしカムト――いや、いまや魔と化したマミカにモユルの強制解術が通用する保証はなく、また直接マミカに触れる必要があるため、ある程度の危険は覚悟しなければならなかった。
モユルの安全を最優先に考えるユラなどは「相手は命を狙ってくるってのに、お人好しだねぇ」と苦笑していた。しかしモユルがそうしたいのは、何もマミカのためだけというわけではない。
モユルは「ユラに会えなかった自分」として、マミカにかつての自分の姿を重ねて見ている。そのマミカが、劣等感とスサへの恋慕ゆえに嫉妬に狂い、あまつさえ人外に堕ちて討たれるなど、あんまりではないか。
だからこれはマミカへの憐憫でも同情でもなく、モユル自身のためなのだ。不幸なまま、悲しいままで終わって欲しくないというモユルの願いなのである。
だが、もしマミカがシロガネや景郎を手にかけていたら。それは遺恨となる。
経緯はどうあれ全員が無事なままなら、傲慢を承知で我が儘を言うことができる。足掻くことができる。しかしモユルの大切なものを奪われてまで、そう思えはしないだろう。きっと身を引き裂かれんばかりの憎しみに囚われてしまう。
モユルは祈りにも似た心境で、繰り返した。
「答えて下さいマミカ導師。シロガネがいなくなったんです。何か知りませんか」
「シロガネ? ああ、あの裏切りもの」
マミカは、さして興味もなさそうに言った。
「あれなら、今ごろ他の獣の餌よ」
「な……」
あまりにも簡単な答え。モユルの願いは、いともたやすく踏みにじられた。
「そんな……ほ、本当にあなたは、自分の犬だったシロガネを」
モユルは、知らず胸を押さえていた。指先が冷たくなっていく。信じられない。信じたくない。
「……あんた、悲しいの?」
今さら気がついたように、マミカが粘性を帯びた目で、にたりと嗤った。くつくつと押し殺した息を洩らす。やがてそれは怪鳥のような甲高い哄笑に変わった。
「はん、いいご身分ね! あれはもう自分のものだとでも言いたいの? たかが犬一匹が死んだからって、どうだって言うのよ! あの裏切りものの、出来損ないが!」
マミカが狂ったように嗤う。モユルの絶望を嘲笑う。
しかしそれも束の間、ふいに「……ああ、でも」と、声を落としてゆっくりと告げた。
「この時間を待つまで、ずいぶん長いこと暇潰しになったから、最期くらいは役に立ったかもね。早い時間から呼び寄せて正解だったわ」
「なん……てこと、を」
モユルは膝からくずおれかけて、ユラに支えられた。息が苦しい。目が眩む。足元の感覚がなくなり、立っていられない。悲しみの自覚すらできない。苦しい。苦しくて堪らない。
「欲を言えば、少しくらいは抵抗して欲しかったわね。何をしても我慢するばっかりで悲鳴の一つも上げないし、馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返してさ。つまんないったら」
愉悦に満ちた表情で、マミカが続ける。どういう言い方をすればさらにモユルを苦しめられるか、一つずつ確認するように言葉を選んでいる。
「ひどい……。どうして……どうして……」
「どうせなら反撃くらいしてくれれば、もう少し楽しめたのに。そうよ、そうすれば私も、今の力を実感できたのよ。……ああ、やっぱり」
やっぱり出来損ないの役立たずは、最後まで役立たずのままね。
血にまみれた醜悪な笑みで、吐き捨てるようにマミカが言った。
「――――っ」
モユルの呼吸が止まった。
胸に渦巻く「どうして」が、次第に別のものに変わっていく。
自分の中に生まれた灼熱を、どこか他人事のように眺める。それと同時に、何か大きなうねりのようなものを感じた。
「駄目だよモユル、気をしっかり持ちな! でないと、またあんたの魔法が――」
ユラの言葉の意味が解らない。意味をなさない音の羅列として意識を通りすぎてゆく。いまモユルの心を占めるのは、ただ一つの感情。感情を行使する意思。
「許さない」
そう呟いたとき、前に立つカグチが無防備に振り向き、モユルの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、姉さん。もういいよね」
その言葉と同時に、モユルの視界からカグチが消えた。
カグチは初動を消す蹴り出しと、無印無詠唱で発動させた瞬動により、一足でマミカの懐に飛び込んだ。
着地を兼ねた鋭い踏み込み。左手でマミカの帯を掴んだ上での、全体重を乗せた右肘。そのまま体を右回転させつつ、残した右足を掛けて引き倒す。うつ伏せに倒れたマミカの両腕を後ろ手に捻り上げ、すりこぎ棒を腕と袖に絡めて動きを封じる。
最後にマミカの腰とすりこぎ棒に右膝と左手を当て、負荷がかかるように体重を乗せたカグチが、感情の見えない静かな目でモユルを見上げた。
「さあ、あとは姉さん次第だよ。どうする?」




