第1話 「母に破壊された日、俺は推しの中で目覚めた」
俺の人生には、光と呼べるものがほとんどなかった
高校時代は人間関係が上手くいかず、次第に孤立し、やがて標的にされた。教室の片隅で聞こえる笑い声のほとんどが自分を向いているように感じ、耐え切れずに中退した。
それから十年。
引きこもり生活は、気づけば「日常」になっていた。カーテンを閉め切った部屋で、昼夜逆転したままゲームや動画に逃げ込むだけの毎日。親は俺を理由に離婚し、残った母は生活のために必死で働いていた。俺はその背中すら直視できなかった。
そんな中、唯一俺を現実から引き離してくれたのが、Vtuber雨宮莉だった。
画面の中で笑い、歌い、リスナーひとりひとりに語りかけるような彼女の声は、俺の世界を一瞬だけ明るくした。
「おはり〜!!今日も来てくれてありがとう!」
その一言で、俺は“ここにいていい”と錯覚できた。
だが、彼女に近づくには金が足りなかった。スパチャを投げれば名前を呼ばれる。金額が大きければ大きいほど、特別に見てもらえる。俺は小さな額から試した。確かに名前は読まれた。嬉しかった。でも、その喜びは一瞬で消えてしまう。
「もっと、もっと見てほしい」
欲はどんどん膨らんだ。だが俺の財布に余裕なんてない。働いていないのだから当然だ。
そのとき、視線が机の上に置かれた長財布に吸い寄せられた。
母が毎朝仕事へ行くときに必ず持ち歩くやつ。疲れ果てて帰宅した日は、ソファの上に無造作に放り出されていることもある。
そこにクレジットカードが入っている。
心臓が強く跳ねる。
バカか、やめろ。そんなことをしたら、母を裏切ることになる。俺を唯一見捨てずにいた人間を。頭の中では分かっている。だが、胸の奥で別の声が囁く。
1回だけなら。
どうせバレない。
莉に名前を呼ばれたら、それで変われるかもしれない。
俺は、気づけばカード番号を打ち込んでいた。
震える指先で送信ボタンを押す。 画面に赤い長方形が流れる。
チャット欄がざわめく。見慣れたアイコンたちが、俺の名前を一斉に拾い上げていく。
そして。
「……あっ、優真くん! ありがと〜! え、すご……こんな大きなスパチャ、初めてもらったかも。ほんとに嬉しい……!」
画面の中で、雨宮莉が笑った。
頬をほんのり赤らめ、目を細めて、まるで“俺だけ”を見つめてくれているように。
その瞬間、背筋が熱に焼かれるようだった。手の震えは止まらず、呼吸は浅くなっていく。頭の中で何度も何度も彼女の声がリフレインした。
「優真くん、ありがと」
「優真くん、ありがと」
「優真くん、ありがと」
ただの一言が、これまでの十年間を上書きする。
高校を辞めた自分も、十年引きこもっていた自分も、母を苦しめてきた自分も――すべて関係なくなる。
“俺はここに存在していい”。
そう錯覚させるには、彼女の一言で十分だった。
涙が、気づけば頬を伝っていた。
悲しいからじゃない。悔しいからでもない。
ただ、生まれて初めて誰かに肯定された気がして。
請求書に気づくのは、当然だった。
ある日、母が郵便物を開いたとき、あの赤字で印字された数字を見て、凍りついたのだろう。
その夜、俺の部屋のドアが乱暴に開かれた。
母は顔を真っ赤にしていた。怒りと、涙と、諦めが混ざった表情だった。
「アンタ、これ……どういうことなの!!」
震える手で突きつけられた請求書。俺は何も言えなかった。喉が乾き、舌が石のように動かない。
母は部屋を見渡す。積み上がったアクリルスタンド。ベッド脇に散らばるキーホルダー。まだ段ボールから出していない抱き枕カバー。
目に映るたびに、母の表情が険しく変わっていく。
「ふざけるな……こんなもののために……!」
母は手近にあったアクリルスタンドを掴み、床に叩きつけた。透明な板が甲高い音を立てて割れる。
「やめて!」と叫ぶ間もなく、次は抱き枕カバーを引き裂いた。
ビリ、と布が裂ける音が、心臓を鷲掴みにした。
「やめろ……やめろよ!!」
声が裏返る。情けない悲鳴が、勝手に喉から飛び出した。
床を這うようにして壊されたグッズに手を伸ばす。けれど母の動きは止まらない。
「いい加減にしなさい! アンタは私の人生を台無しにして! まだ奪う気!?」
母の叫びは刃物のようだった。
俺の唯一の逃げ場の莉の顔を形にしたものたちが、次々と破壊されていく。
そのたびに胸の奥で何かが砕け、喉の奥から嗚咽が溢れた。
「やめてよおおおおおお!!」
四つん這いになり、床に額を押し付けて、子どもみたいに泣き叫んだ。
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっても、必死に懇願するしかできなかった。
……弱者の、惨めで哀れな叫び。
そして。
視界が白く弾けた。
意識がねじ切れるように反転し、鏡に映る姿は雨宮莉。
いや、正確には彼女の“中身”だった。
名前:雨宮莉
年齢・性格:本人は学生を名乗る現役Vtuber。
「おはり〜!」と、明るく元気な挨拶が特徴。挨拶の由来は莉を訓読みしたら「り」になるからとそこまで凝ってはいない。
とてもファン思いで、誰にでも優しく、天然で可愛らしいところもあるが、プロ意識は高い。
腰まで届く光沢のある淡いピンクの前髪はかなり長め。




