真夏の桜花
夏の盛りだった。
夜鈴は今日も葵庵跡地の草刈りをしている。真夏の雑草は刈っても刈ってもぐんぐん伸びる。
かつてこの後宮の敷地は、舗地が広く敷かれ樹木は綿密に刈り込まれ、隅々まで人工美を極めた造園がなされていたらしい。
自然をも従える皇帝の力を庭園でも表現していたのだそうだ。
夜鈴は画の摸特をしたとき、安昭媛こと桜綾からそんな話を聞いた。建国から数十年間の後宮は妃嬪侍妾の数も今よりずっと多かったらしい。数百の美姫も庭園の人工美同様、皇帝の力を見せつけるためのものだったのだ。
(つまり、国ができたばっかりのころは見栄張ってたってことかな)
今でこそ建国二百年の安定した王朝だが、できたてほやほやのころの宇澄国は虚栄とやせ我慢でできた成り上がり国家であったと。桜綾はそう言っていた。
(その当時の後宮なんか来てたら、息がつまっちゃっただろうなあ)
夜鈴は鎌でざくざくと雑草を刈りながら、若い娘がごっちゃり詰め込まれた後宮を想像して身震いした。そりゃあ、女どうしの勢力争いもわんさか起こったことだろう……。
(女どうしの勢力争い……。参加したくない。心の底から参加したくない)
見栄とか嫉妬とか。見栄からくる諍いとか嫉妬からくる恨みとか。そういうのが本当に本当に嫌なのだが、このまま後宮にいたら必ず巻き込まれる。なにせ、皇帝が夜鈴を皇后にすると無茶苦茶を言っているからである。奴婢同然の生い立ちで国母の素質も教育もない、人間ですらない妖の夜鈴をだ。だいぶまずいだろう。
先のことをあまり考えたくなくて、夜鈴は毎日葵庵跡地の草刈りに来ている。周家での日常が今も身に染みついているのか、体を動かして作業していると落ち着くのだ。
侍女の香月にはあきれられているが、菫花殿でただのんびりしているより心にも体にも良い気がすると言ったら、おやつを持ってついてきてくれるようになった。草刈りを手伝うと言うのをなんとかなだめ、香月には木陰で待っていてもらうことにした。でも蜂や藪蚊が出るし心配だな――――
というようなことを星宇に言ったら、次の日には葵庵跡地に小屋が建っていた。
(ねだるつもりじゃなかったんだけど)
ねだるつもりはなかったが、星宇が即日手配してくれた簡素な小屋は便利でありがたかった。香月は中で刺繍や縫物をしていられるし、鎌や籠など草刈りの道具をしまっておけるから菫花殿からいちいち持ってこなくていいし。
「なんならもっと立派な庵を建てよう。いっそ新しい殿舎を建てようか」という星宇の提案はさすがに辞退した。そんなことをされたら目立ってしょうがない。ただでさえ位階を持たない寵妃だと、菊花殿あたりで悪く思われているのに。
かつての人工美など面影もない草ぼうぼうの野原に建てられた、素朴な木の小屋。木陰にあるため直射日光は当たらず、虫よけの紗を張った大きな窓は風通しがよく、中は涼しい。草を刈る手を止め、夜鈴が小屋のほうを見ると、香月もちょうど紗をめくって外を見たところだった。目が合って笑顔を交わす。
交わし合う笑顔はしあわせだの証だと夜鈴は思った。
こんな日がずっと続けばいいのに。
「夜鈴さまぁ」
香月が呼びかけてくる。
「なあに、香月」
「おやつがもうひとつ届くはずなのですが、なかなかこないのでちょっと様子を見にいってまいります」
「おやつなら持ってきたじゃない? 橙果醬の酥餅」
「ふふふ。実はもうひとつあるのです。主上から氷をいただきまして、氷を使ったつめた~い甜味が……」
「冷たい甜味!? なにそれ! ていうか氷!? 夏なのに!」
後宮では、見たことも聞いたこともない食べ物が次々と出てくる。いずれ出て行くつもりだから贅沢に慣れたらいけないと自分を戒めているものの、珍しいおやつの魅力には勝てない夜鈴である。周家にいたころ、皇族や大貴族は夏に雪山から持ってこさせた氷を食べるという話を小耳にはさんだことがあるが、本当だったのか。
「たのしみに待っていてくださいませ」と言い残して、香月は菫花殿へ向かった。
夜鈴も香月を待つ間ひとやすみしようと小屋に入った。壁に鎌を立てかけ、床の敷物の上にごろんと横になる。香月がいたら行儀が悪いとしかられるところだ。
(ここ、おちつくかも……)
菫花殿は居心地のいい殿舎だが、夜鈴には贅沢過ぎた。三ヶ月前まで筵が敷かれただけの黴臭い土間で暮らしていたのだ。日が当たらないじめじめした物置はもうごめんでも、この小屋はいい。明るくて、風が通ってとても気持ちがいい――
太陽の下での肉体労働の疲れからか、だんだん瞼が重くなってきた。睡魔に抗う間もなく、夜鈴はすとんと眠りに落ちた。
*****
このあたりの風景は二百年前とまるで違うな。
桜鬼とも、桜花殿の「主」とも呼ばれる幽鬼は、葵咲く野原の明るい眺めに目を細めた。生前は「翡翠のような」と言われた碧い瞳だ。肩に垂らした長い髪は浅金で、白皙の肌とともに北方の民の特徴を備えている。風が吹いても髪は揺れない。自然は幽体に干渉しない。
野原を一歩進むたびに、幽体から力が抜けていくのがわかる。
(喰呪鬼め――)
おとなしく菫花殿に閉じこもっていればいいものを。
いつの間にかこの野原一帯が喰呪鬼の妖気喰いの影響下に入っていた。桜花殿の宮女たちの会話から、菫花殿の妃は周家の娘で、新しい皇帝の寵妃だと知った。
建国以来の権門として高位にある周家の後ろ盾があるならば、皇后にだってなれる。厄介だ。喰呪鬼が後宮を統べる皇后になったら、この後宮全体が喰呪鬼の巣になるかもしれない。桜花殿とて例外ではなく。
桜花殿にまで喰呪鬼の力が及んだら、桜花殿の妖樹が妖気を吸われて枯れてしまう。あの枝垂桜の妖樹を失ったら、妖樹から妖力を得ている自分は幽体を保てない。儚く消えてなくなるしかない。
――あのお方の魂を救い出すまで、自分は決して消えてはならないのに。
(妖樹が枯らされる前に喰呪鬼を殺す)
幽体となって以来感じたことのない体の重さに焦りを覚える。この野原はすでに喰呪鬼の領域、妖力の消耗が激しい。しかし喰呪鬼が菫花殿の外でひとりになる機会などそうそうないのだ。
多少の危険を冒しても、喰呪鬼が幼い今のうちに動かなければ。なにもしなければ自分は妖樹もろとも喰呪鬼に力を喰われ、あのお方の魂は廟に囚われたままとなる。
(朱羅様――)
永遠の愛を誓い合った姫の笑顔は二百年近く経った今でも鮮やかに思い出せる。
今一度、彼女に触れ、この胸に抱くことができたら。
実体を失い幽体と化した今では叶うことのない夢だ。しかし、二度と彼女の体温を感じることはできなくとも、彼女の笑顔を再び見ることは叶うのではないか。封じられた魂を解き放ちさえすれば、きっとまた、彼女に会える。
そうだ。彼女を救うために、彼女に会うために。
今、喰呪鬼を後宮から消す。
ひと足ごとに地に縫いとめられるような重い足を引きずり、喰呪鬼のいる小屋へ近づく。幽体に扉を開ける必要はない。扉など存在していないかのように通り抜けると、薄紗ごしの陽光の中、美しい娘が床の上で寝入っていた。
――これが、かつて周家が切り札として従えた妖魔の末裔。
かつては黎家と皇帝位を競うほどの勢力を持っていた周家が、すっかりなりをひそめたと聞いたのは何十年前だったか。周家は呪詛から家を守るために喰呪鬼を飼っていたのではない。妖力持ちの黎家に対抗するための手札として、妖気を喰う喰呪鬼を従えていた。その手札をあっさり手放したのだ。今の腑抜けた周家には、黎家に対抗する意思などないのだろう。
そして喰呪鬼を後宮に迎え入れたということは、黎家ももはや妖力を必要としていないのだろう。太平の世に異質な力はいらない。波乱の時代が終わったならば、妖力などむしろ危険だ。黎家に流れる妖の気は、喰呪鬼に喰ってもらって終わりにする気なのかもしれない。
だがどうでもいい。そんなことは。
喰呪鬼を眠らせただけで幽体に溜めていたほとんどの妖力を使った。解呪の力が刻一刻と催眠を解きにかかる。急がねばならない。
桜鬼は壁に立てかけられた鎌に目をやった。幽体は物を持つことができないが、桜鬼はかつて巫術士だった。巫術士は方士同様、この世の理からはずれた力を操る。
桜鬼が低く禁呪をつぶやく。
草刈り鎌は細かくふるえ、ふるえが最高潮に速くなったところで、誰かが振りかぶったかのようにすうっと空中に持ち上がった。
眠る娘のなめらかな白い喉が、鎌の刃の下に無防備に晒されている。
桜鬼は空中の鎌から喰呪鬼の喉に視線を落とした。そして二百年前、何人もの宮女や宦官にそうしたように、無情に術を放った。
どこからともなく現れ出た桜の花びらがひらひらと舞う。
喉元をめがけ振り下ろされた鎌。
だが、草刈り鎌は音もなくもとあった壁際に弾け飛んだ。
鎌が敷物に落ちる鈍い音だけが静寂をやぶる。予期していた肉を裂く音も喰呪鬼の断末魔の叫びもなかった。
舞い飛ぶ妖樹の花びらがふわりと地に落ち、喰呪鬼の領域の効果で淡雪のように消える。
桜鬼は失敗を悟った。
(なんということだ)
喰呪鬼は護られていた。
術ではなく物をはじく結界が、喰呪鬼の皮膚の上に密に張り巡らされていた。
術を解く特質のある妖に術をかけたままにしておくことのできる方士が宮城にいるのかと驚き、桜鬼はあることに思い至った。
今上帝、黎星宇。
あの男は黎家歴代の中でも強大な妖力の持ち主だったはずだ。だが、彼の能力を桜鬼は知らない。星宇は幼くして宮城から出されていたからだ。成人後は辺境に封土を賜り、皇帝位につく直前までそこで暮らしていた。武装した遊牧民の襲来が激しい砦のような城だが、若き城主は苦もなく居城を守り抜いたと聞いた――。
(守りの力なのか)
ならば守護するだろう。この妖は、彼の寵妃なのだ。
*****
ごとんと鈍い物音がして、夜鈴は目を覚ました。
音のしたほうを見ると、壁に立てかけた鎌が倒れていた。
(あらら。寝ちゃった)
半身を起こしてうーんと伸びをする。香月はまだ戻って来ていないから、長々と居眠りしていたわけではなさそうだ。日もまだ高い。
(冷たい甜味……。たのしみ)
香月はやく来ないかな、持ってくる間に氷の甜味が溶けちゃわないかなとそわそわと扉を開けると、香月ではなく夢琳という下働きの宮女が慌てた様子で走ってくるのが見えた。
「あれ。夢琳どしたの? 香月は?」
「夜鈴様ぁ。ちょっと困ったことになりましてぇ」
「困ったこと?」
「困ったことなんて言ったらしかられちゃうかもしれないですけど。安昭媛が菫花殿へお越しになられましてぇ」
「えー桜綾様が!?」
葵庵跡地から菫花殿へ大急ぎで戻った夜鈴を待っていたのは、上を向いてじっと客庁の天井を見ている桜綾だった。
「おまたせいたしました、桜綾様! ようこそ菫花殿へお越しくださいました!」
駆け込む勢いでやってきたというのに、桜綾はじっと格子天井を見上げたままだ。傍らで香月が困ったように夜鈴に苦笑いを向けた。香月が桜綾の相手をしていたようだ。
「天井がなにか? 桜綾様」
「おう夜鈴。素晴らしいな、菫花殿の格天井は。彩画ではなく透かし彫りを用いて、装飾に色を使わないところが実に好みだ」
「……天井を見にこられたので?」
「いや。この黄花梨の花几、木目も細工も密な逸品だと思うが、艶が鈍っている。この花器はもとからこの房にあったものか? 巧みな翡翠透彫だが、天井、花几、花器、すべてが繊細な意匠で引き立て合わないではないか。手入れが悪いからなおさら見苦しい」
(う、うるさい)
言える相手ならそう言ってやりたい。
もしほかの妃嬪に言われたならば、家具調度の合わせ方も知らない教養のない妃だと意地悪を言われたと思うところだ。でも、たぶん桜綾に底意地の悪さはない。過剰な美意識があるだけだ。本当に純粋に調度品の手入れと組み合わせが悪いと言っているのだ。とはいえ、人の家に押しかけておいてその言い草はどうなんだと思うが。
麗霞といい芳静といい、高位貴族の令媛はみんなこんなにずけずけものを言うのだろうか。正直しんどい……。
「ええと、桜綾様。冰淇淋をこしらえたのですが、ご一緒にいかがですか」
夜鈴がげんなりしているのを見てとったのか、香月が話を変えてくれた。
桜綾は夜鈴を摸特に画を描くつもりで訪れたらしかった。今までは夜鈴が桜花殿に呼び出されていたが、桜花殿の「主」が夜鈴を敷地に入れるなと荒ぶっているのだそうだ。
「主」とは、桜花殿の奥院にある枝垂桜に憑いた幽鬼のことである。桜綾は「桜鬼」と呼んで親しんで(?)いる。
「令媛育ちでもない。幽鬼が拒絶する。そなたは一体なんなのだ夜鈴」
乳白色の冰淇淋を匙ですくい、問い詰めるのではなくぼやくように桜綾は言った。
「わたしの一存で言っていいことかわからないので、主上か賢輪様におたずねください。喜春さんにもそう言いましたけど」
「そなたに対して裏心があると思われたら面倒だから訊かぬ。私はそなたを描きたいだけなのだ。なのに桜鬼の奴が物凄い剣幕で菫花殿の妃を桜花殿に入れるなと怒る」
幽鬼の物凄い剣幕ってどんなかなあと夜鈴は思った。
すこし前なら幽鬼に疎まれていると知っただけで震えあがっただろうが、やさしい葵翠とかわいい宇俊皇子の御霊に会ったばかりだ。幽鬼が怖いかどうかは相手による。
それに、夜鈴は幽鬼に疎まれる理由がうっすらわかるのだ。自分は喰呪鬼。場によってはいるだけで妖や幽鬼の力を吸い取って弱らせてしまう……。
「桜鬼さんってどんな人なんでしょう?」
「幽鬼だぞ。人扱いしてやるのか、そなたは」
「元は人なんだから人ですよ」
「なるほど」
桜綾がおもしろそうに目を細めて夜鈴を見た。
「私も、桜鬼は人くさい幽鬼だと思う。枝垂桜の幽鬼について調べはした。私の推測どおりなら、桜鬼はこの後宮で何人も人を殺しているぞ」
「えっ……」
「この後宮ができて間もないころの話だがな。おおよそ二百年前だ」
「なにかあったんですか? 二百年前に」
「建国から十年二十年は毎年のように『なにか』があったらしいが。貴族の序列もまだ定まらない時代だ。外城の権力闘争がそのまま内城に持ち込まれる。皇后や寵妃の座をめぐる陰謀に次ぐ陰謀だ。桜鬼について調べていたら、謀殺の記録のひとつにたどりついた」
「謀殺の記録……」
「謀殺の記録だって山ほどあるが、桜鬼に関わりのありそうなものを見つけるのは簡単だった。私は桜鬼の姿を目にしているからな」
「姿……。桜鬼にはなにか変わった特徴でもあるんですか?」
「ある。桜鬼は北方の民だ。浅金の髪に碧い瞳の」
北方の民。
周家にいたころ家婢たちが話していた。宇澄国の最北には干し藁のような色の髪に翡翠のような瞳を持つ人々がいると。周家の外に出たことのなかった夜鈴は会ったことも見たこともないが、北方出身の役者や踊子は人気が高いらしく、一度でいいから見てみたいと皆が言っていた。つまはじきにされていた夜鈴は物陰からこっそり話を聞いていただけだが。
「北方の民が関係した事件の記録を漁ったら、瑶台――かつて存在した北方の小国から来た姫の話が出て来た。二代皇帝の妃のひとりとなるため入宮したが、婚礼の儀の最中に衛士に斬られて死んだそうだ。その衛士の故郷の邑は、宇澄国に属す前の瑶台の軍に焼かれたらしい」
「邑が焼かれた? その恨みで瑶台の姫を斬ったのですか?」
「誰もがそう思ったが、後になって疑惑が生じた。衛士は錯乱していて、凶行は呪言もしくは薬のせいではないかと。瑶台の姫は美しく、婚礼前から皇帝はだいぶ入れ込んでいたようだな。寵妃の座をめぐって瑶台の姫を邪魔に思う妃嬪は幾人もいた。後日、同じ妃嬪に仕える宮女と宦官が何人も死んだ。殺されたのだ。それが幽鬼か妖の仕業だと」
「誰か幽鬼を見たのでしょうか」
「死体の周囲に季節外れの桜の花びらが散っていたそうだ」
桜綾はそう言うと、桜舞う殺害現場を瞼に思い描いているのか、数秒目を閉じた。
「宮女たちは喉を掻っ切られて無残に殺されたが、妃は殺されていない。狂死したそうだ。幽鬼がくる、碧い目の幽鬼がくると怯えながら……どうした夜鈴? 冰淇淋が冷たくて頭痛か? 大口で食すとキーンとなるからな」
「ちがいますよ……。苦手なんですよ。その手の後宮ドロドロ怪談が」
「後宮の陰惨な怪談話ならいくらだって出てくるぞ。なにはともあれ、北方の民、桜、幽鬼とあっては、桜鬼を連想しないではいられまい。あいつは何も言わんが、瑶台の姫――名を朱羅と言ったか、彼女の忠実なるしもべか、恋人か、その両方といったところだったのではないか」
「恋人を後宮に連れていかれて殺されて、幽鬼になって復讐したってことですか? ……つらい」
「私の推測に過ぎぬがな。もし推測どおりだとしても、桜鬼はなぜ消えずにまだ桜に憑いているのかわからぬ」
菫花殿でしどけない摸特姿勢をとるのは恥ずかしくて嫌だと言ったら、桜綾は文句を言いつつも円椅に座るだけの夜鈴を描いて帰っていった。「こんなすました姿勢では夜鈴の良さが出ない」と最後まで不満たらたらだったが。
摸特から解放されて夜鈴がうーんと伸びをしていると、夢琳を先頭に下働きの宮女たちがぞろぞろと客庁に入って来た。
夜鈴が声をかける間もなく全員が膝をついて拱手し、深々と頭を垂れる。
「な、なに。みんなして」
「申し訳ございませんでした!!!!」
「なにが!?」
皆を代表するように夢琳が顔をあげる。
「私たちが至らないばっかりに夜鈴様に恥をかかせてしまいましたぁ。安昭媛にぼろっかすに言われて……。今から殿舎中の家具調度品、全力で磨き上げますから、ですからどうかどうか」
「「「「私たちをクビにしないでください!!!!」」」」
全員一斉に声をあげた。
「クビに? しないけど……」
「本当ですか!?」
「クビにする理由ないし……」
「ほかの妃嬪に隙を見せるような仕事をしたから処罰では」
「隙?」
「客庁が見苦しいって安昭媛が」
「気にしなくていいと思うよ。あの人なんにでもああだし。ね?」
同意を求めて香月を見ると、元安家の使用人で桜綾とつきあいの長い香月は、苦笑して頷いた。
「よかった~」
宮女たちは手を取り合ってよろこんでいる。
「夜鈴様はお心が広いから処罰なしで済んだけれど、だからって仕事に手を抜いたらだめよ。夕餉の支度はわたくしも手伝うから、何人かは調度品の手入れにまわって。いい機会だから今やっちゃいましょう」
「はい! がんばります!」
香月の提案に、宮女たちは和気あいあいと仕事の割り振りをはじめた。怒られずに済んでほっとしたためか、なんだか愉快そうだ。
「わたしも手伝おっか?」
夜鈴は思わず言ってしまった。自分もみんなでやる仕事に混ざりたくなったのだ。
でもすぐに後悔した。
場がしん……としてしまったので。
「な、なーんて」
冗談を言ったふりをしてごまかす。そして宮女たちが房を出ていったあと、ものすごく悲しくなった。
周家では皆に蔑まれて、のけものだった。
菫花殿では皆に丁重に扱われて、それゆえのけものなのだった。
香月は厨に行ってしまったし、宮女たちはぱたぱたと立ち働いている。ひとりぽつねんと房で座っているのもさみしかったので、夜鈴は日課の呪符探しをするために園林へ出た。
寵妃だと思われているせいで夜鈴を呪う者は今もいる。数は減ったものの、数日に一度は菫花殿の周辺から呪符やら人型やらが見つかるのだ。ほうっておいても喰呪鬼の力で呪符の効力は消えるのだが、下働きの宮女たちが呪符を見つけて怖がるといけない。なるべく回収しておきたい。
夜鈴が薪小屋の裏をごそごそ探っていると、薪を取りにきた若い宮女たちの話し声が聞こえた。
「本当によかった。お咎めなしで」
「安昭媛って厳しいわね。もうおしまいだと思ったわ。客庁を『見苦しい』とまで言われたら、よそのお妃様なら私たち折檻よ。鞭打ちかしら」
「クビよりましよ。私ここを追い出されたら行くところがないの。それに、口減らしに後宮に入れられたけど、私ここが好きなのよ。菫花殿が」
「わたしもよ。なんだかのんびりしてるしね。ずっとここにいたい」
――私ここが好きなのよ。菫花殿が。
――ずっとここにいたい。
宮女たちが立ち去ったあとも、夜鈴はその場に立ち尽くして彼女たちの言葉を頭の中で何度もくりかえした。さっきまでのさみしさはどこかへいってしまった。
菫花殿を好きと言われて、うれしかったのだ。
(やっぱり桜綾様が菫花殿に来るより、わたしが桜花殿に行く方がいいよねえ)
見た目にも態度にも威圧感のある桜綾がしょっちゅう画を描きにやってきて、その度に調度に文句をつけてきたら、菫花殿ではたらく宮女たちが委縮してしまう。夜鈴は菫花殿の主として、彼女たちのおだやかな日常を守りたくなった。
こうなったら桜鬼に話をつけるしかない。
というわけで、夜鈴は桜花殿のすぐ裏手まで来ている。殿舎を囲う瓦塀のそばまで来ているが敷地の中には入っていないので、桜鬼に怒られる筋合いはない……とは思うが、さっきからチリチリした妖気を感じる。妖のくせにあまり妖のことを知らない夜鈴だが、このチリチリ感は幽鬼の怒気のような気がしてならない。
とにかく今、桜鬼に意識されている状態だとは思うのだ。
話せば声が届くのではなかろうか。
「桜鬼……さん? 聞こえてますー?」
二百年もの長きに渡りこの後宮に棲みついている古参の幽鬼に話しかけるにしては、間抜けな第一声になってしまった。だが、夜鈴に強くてかっこいい口上を述べるような教養はない。素でいくしかないのだ。
「ここに一枚の呪符があります。見えてますー?」
夜鈴は懐から、先ほど薪小屋の裏で回収した一枚の紙符を取り出し、目立つように頭上に掲げた。
「こちらの呪符、ほぼ効力を失っています。これをこうして……こう」
今度は額がくっつくほど呪符を顔に寄せ、色褪せた朱書きの符図をじっと見つめる。ここは夜鈴の「居場所」となった菫花殿や葵庵跡地ではない。集中しないと喰呪鬼の力が出ないのだ。
喰呪鬼の力。それは妖力や呪力を喰らうだけではない。喰らった力を元に戻したり、別のところに付け替えたりできる力――。
符図の朱色が鮮やかに蘇ったのを確認し、夜鈴は剣指を組んで紙符を押さえた。芳静に教わった勅符という、呪符に力を定着させる動作である。
呪符は復活した。
夜鈴はそれを見せつけるように再び高く掲げた。
「はい。蘇りましたー!」
桜鬼が理解したかどうかはわからなかったが、確認のしようがないので夜鈴は話を続ける。
「わたし、呪力や妖力を喰らうだけじゃないんですよ。与えることもできるんです。もしわたしに喰われて消えることを恐れてるなら、そこは大丈夫です。逆もできるので! 結構強力に逆もできます。幽体が実体化しちゃったかな?くらいまでできるので自分でもびっくりです。だからわたしが桜花殿に入るのを許してほしいんですよ……。許してもらえないとこっちもいろいろ困るので……」
これで桜鬼に通じるかなあと不安だったが、駄目ならまた来ればいい。そう思い、夜鈴が桜花殿に背を向けたとき、背後から風が吹いた。
ふりかえると桜吹雪が舞っていた。
今は真夏だ。桜などどこにも咲いていない。
(桜鬼が応えた……?)
夜鈴は手を伸ばして、舞い飛ぶ桜の花びらを一枚、手のひらに握り込んだ。
先程呪符にしたように力を込める。
夜鈴が手のひらを開くと、一枚だった花びらが何十枚にもなって、もう一度花吹雪となって舞い飛んだ。この桜は妖気でできているのだ。だから夜鈴の力で増やすことができるのだ。
季節外れの桜の花びらが、夏の夕日を浴びてひらひら踊る。
それは夢のような光景だった。
夜鈴は茫然と自分が生み出した花吹雪を見つめた。
そしてふと考える。
桜綾の話が真実なら、桜鬼は人を殺している。
夜鈴は舞い飛ぶ花びらをパシッともう一枚つかみ取った。
しばらくして手を開く。
手の中は空だ。
今度は花びらの妖気を吸い取ったからだ。
自分は妖気を与えることもできる。抜き取ることもできる。
力を与えてもいいけれど、危害を加えるなら抜き取りもする。
桜鬼にそこまで伝わったかどうかはわからない。
しかし、ふたたび夜鈴は桜花殿に背を向けて歩き出した。
そろそろ楽しい夕餉の時間なのだ。
〈短編・1 完 第三話につづく〉
第二話と第三話の間の短編、お読みいただきありがとうございました。
それにしても更新が亀のペースで申し訳ない! 気長にお待ちくださいとお願いできるペースではないですね。もしまた気が向いたら覗いていってくださいませ。
第二話終了時の予告どおり、第三話は妃嬪がごっちゃりいる菊花殿が舞台です。
マイペースに楽しみながら書いていきたいと思います。




