おまけ2
どんよりとした鉛色の空から、今にも雨が降り出しそうな放課後。
薄暗く湿気た裏路地のアスファルトには、ビリビリに破かれた参考書のページが、無惨な死骸のように散乱していた。
「ひっ……ご、ごめんなさい……今日はお金、持ってなくて……」
「あ? 塾通いのもやしっ子が、金持ってねぇわけねぇだろ。ジャンプしろよ」
不良たちに壁際まで追い詰められ、ガタガタと震えているのは、分厚い牛乳瓶メガネをかけたガリガリの少年――中学時代の真須だった。
腕は枯れ枝のように細く、肩は縮こまり、不良の顔をまともに見上げることもできない。ただ地面を見つめ、怯えてうずくまることしかできなかった。
(怖い……誰か、助けて……)
真須がポケットに入ったロボットの人形を握りしめながら絶望に目を瞑った、その時だった。
「……邪魔だ」
低い、地を這うような恐ろしく冷たい声が響いた。
不良たちが弾かれたように振り返ると、そこには額から血を流し、制服のシャツをボロボロにした金髪オールバックの少年――中学時代の氷室が立っていた。
その出で立ちは、現在の中二病の面影など微塵もない。触れるものすべてを切り裂くような鋭い三白眼と、全身から立ち上る『本物の狂犬』のオーラ。
明らかな異常性を放つ氷室の姿に、不良たちは「ヒッ……!」と情けない悲鳴を上げ、クモの子を散らすように一目散に逃げていった。
静寂が戻った路地裏。
「あ、あの……!」
助けられた真須は、震える手で破れた参考書を拾い集めながら、勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、ありがとう……ございます……っ」
しかし、氷室は真須の方を一瞥すらせず、「チッ」とひどく不機嫌そうに舌打ちをして、そのままポケットに手を突っ込み、路地裏の奥へと消えていった。背中には、他人を一切寄せ付けない絶対的な孤独が張り付いていた。
それから数日後のこと。
真須は全く同じ路地裏で、また別の不良グループに絡まれていた。
「おい、さっさと財布出せよ」
「あ……うぅ……」
学習能力がないのか、それとも運が悪いのか。真須は再び地べたに這いつくばり、ただ震えていた。
その時、視界の端に見覚えのある『金髪』が映った。
(あっ……! あの時の……!)
偶然そこを通りかかった金髪のヤンキー(氷室)の姿に気づいた瞬間。真須は自分から立ち上がろうともせず、逃げ出そうともせず、あろうことか地べたを這いずって彼の足元へと縋り付いた。
「あ、あの……! 前みたいに、助けてくださ……!」
「……あ?」
氷室はピタリと足を止め、靴に縋り付く真須を見下ろした。その瞳は、道端のゴミを見るような冷徹さに満ちていた。
「俺様はお前のボディーガードじゃねぇ。助ける義理もねぇよ」
氷室が冷たく吐き捨てると、真須は縋り付いたままポロポロと涙をこぼし始めた。
「だって……だって、僕は強くないし……!」
情けない嗚咽が路地裏に響く。
「家も勉強しろってうるさくて、親も厳しくて……! こんな最悪な環境じゃ、僕がいじめられるに決まってるじゃないか……っ!」
瞬間。
氷室の周囲の空気が、凍てつくように冷たくなった。
(環境のせい、だと……?)
氷室の脳裏に、自身の荒れ果てた家庭環境がよぎる。崩壊した日常と、逃げ場のない孤独。
それでも彼は、誰にも頼らず、環境のせいにして逃げることもせず、ただ独りで牙を剥いて抗い続けてきた。
だからこそ、真須のその『環境を言い訳にした被害者ヅラ』は、氷室にとって絶対に触れてはならない逆鱗だったのだ。
「テメェ……ふざけんなよ!!」
「ひっ!?」
氷室の眼に、明確な殺意と怒りが宿る。
彼は真須の胸ぐらを両手でガシィッ!と力任せに掴み上げた。
「お、おい……ヤバいぞあいつ、完全にイカれてる……!」
不良たちがドン引きして後ずさりする中、氷室はブチギレた狂気に任せ、胸ぐらを掴んだ真須の体をそのまま力任せに振り回し始めた。
まるでハンマー投げの選手のような、完璧なフォームと凄まじい遠心力。
「うわああああああああっ!!?」
「ヒィィィッ!? なんだこいつ、絡まれてる奴を武器にして振り回してやがる!!」
「関わっちゃダメな本物の狂人だ!! 逃げろ!!」
大回転する真須の足が不良たちの顔面を掠め、恐れをなした不良たちは今度こそ本気で悲鳴を上げて逃げ去っていった。
数秒後、勢いよく路地裏のゴミ捨て場に放り投げられた真須は、「ぐはぁっ……!?」と目を回してうずくまった。
そんな彼を見下ろし、氷室は乱れた息を整えながら、魂からの説教を叩きつけた。
「環境が悪い? 自分が弱い? だからなんだ!! 泣き言を垂れる暇があるなら、己の肉体を痛めつけてでも『鋼の鎧』を纏え!! 環境を憎むなら、何度でも自分をぶっ壊して新しく作り直せ!!」
それは、氷室なりの不器用なエールだった。
傷つくことを恐れるな。自分自身の精神を限界まで鍛え上げ、決して折れない心の鎧を纏って自分の足で立て、という意味の。
言い捨てるだけ言い捨てると、氷室は背を向け、今度こそ路地裏から姿を消した。
しかし。
ゴミに塗れながら倒れていた真須の脳内で、圧倒的な覇気とともに放たれたその『真理』は、全く別の形へと変換されていた。
(肉体を痛めつけて……鋼の鎧を纏う……。何度も自分をぶっ壊して、新しく作り直す……)
真須の脳裏に、一つの強烈な閃きが雷のように落ちる。
(そうか……!! 筋繊維を限界まで破壊(痛めつけ)し、超回復(作り直す)によって、鋼のような分厚い大胸筋(鎧)を手に入れろということか……ッ!!)
牛乳瓶メガネが、キラリと妖しく光る。
氷室の言葉に触れた真須は、ボロボロになった参考書を強く握りしめながら、その瞳の奥に『筋肉への渇望』という特大の炎を宿したのだった。
⭐︎
――そして現在。
放課後の高校の教室で、シャカシャカシャカッ! とプロテインをシェイクする小気味良い音が響いていた。
「いやー、実は俺さ。中学の時に路地裏で、同じ年ぐらいのすげぇカッコいい金髪のヤンキーに『筋トレの極意』を直々に教わってよ。あいつのおかげでこの肉体がある。マジで俺の人生を変えた命の恩人なんだよな!」
極太の腕に浮き出た血管を見せつけながら、タンクトップ姿の真須が熱っぽく語る。
その隣の席。
眼帯をつけ、『サルでもわかるFコード』という初心者向けのアコギ教本を真剣な顔で読んでいた氷室が、鼻で笑って顔を上げた。
「フッ……くだらねぇ。チンピラに助けられただぁ? どうせ底辺のカスだろ」
「……あぁ?」
真須がピクリと眉をひそめる。しかし氷室は意に介さず、さらに嘲笑を重ねた。
「中学生で金髪にしてイキってたような奴なんてな、今頃十中八九、年少に入って便所掃除してるか、駅前でダンボール被って震えてるホームレスになってるに決まってんだよ」
「て、てめぇ……今、なんつった?」
「だから、お前の命の恩人様は社会の粗大ゴミだって言ってんだよ! 少年漫画に憧れて偏差値2の脳みそで『仲間は絶対見捨てねぇ!』とか泣けるポエム叫んでる痛いチンピラが思い浮かぶわ!? うわ、想像しただけで寒気が走るわ!」
氷室は、まさかそれが『過去の自分』だとは夢にも思わず、純粋な偏見で真須の「恩人」をボロクソにけなした。
瞬間、真須の額に太い青筋が浮かび上がった。
「ひ、氷室ォ……!! 言っていいことと悪いことがあるぞ!! あの人はそんな浅い男じゃねぇ! 圧倒的なオーラを持った本物の漢だったんだよ! 冬でもないのに『闇の力が……』とか言って、ドンキで買った安物の合皮コート着て汗だくになってるエセ中二病のキモオタとは、細胞の作りからして違うんだよ!!」
「んだとコラァ!! エセじゃねぇ、これは深淵の力を封じる拘束具だ!! だいたいな、その金髪バカなんか絶対、自分の過去のイタさに気づいて毎晩ベッドで『うわあああ!』って発狂してる惨めな黒歴史製造機になってるに決まってんだろ!!」
「あの人をテメェみたいな底辺陰キャ厨二マザコンと一緒にすんな!! もしあの人が今のテメェを見たらな、『ダッセェ眼帯してFコードも弾けねぇのか、このゴミカスが!』ってワンパンで沈めて顔面踏み潰してるわ!! あの人の足裏の角質にも劣るゴミカスが、偉そうに語るんじゃねぇ!!」
「ゴミカス言うな!! 言っとくがな、俺はその金髪で格下しばいてイキがってるような知能指数の低い猿が、世界でいっちばん嫌いなんだよ! もし今、俺の目の前にそいつが現れたら、俺がこの手で社会の底辺ごと物理的に消し去ってやるわ!! あ、少年院いるから手も出せませんってか?」
「上等だコラ!! 俺の恩人をそこまでコケにするなら、今日こそ俺の自慢のサイドチェストで、テメェのその細っい首をへし折ってやる!!」
「やってみろプロテイン中毒のアホゴリラ!! その前に俺の拳で返り討ちにしてやる!!」
ギャーギャーと互いの胸ぐらを掴み合い、教室のど真ん中で小学生レベルの喧嘩を始める二人。
「あーあ、まーた始まったよ」
「ほっとけほっとけ。どうせ五分後には一緒に肩組んで購買のパン買いに走ってんだろ」
俺と篠山はため息をつきながら、全力で罵詈雑言を浴びせ合う親友たちを眺めていた。
氷室が全身全霊でディスっている相手が『自分自身』であり、真須が必死に庇っている恩人が『目の前の氷室』であることなど、当人たちを含めてこの場の誰一人として気づくはずもない。
壮大なすれ違いを抱えたまま、今日も『はみだしカルテット』の平和でくだらない日常は、騒がしく続いていくのだった。




