おまけ
私、高橋美南が所属するこの綾風学園の英文科は、県内でもかなり名が知られている進学校だ。
しかし、私たちが在籍しているのは「英文科」という、英語や文系科目にステータスを全振りした特殊なクラス。その代償として、クラスの約九割を占める女子生徒のほぼ全員が、「数学」という学問を親の仇のように大の苦手としていた。
案の定、高校に入って初めての中間テストで数学の答案が返却された直後。
教室は、重苦しいお通夜のような空気に包まれていた。
「……お、終わった」
私の机の上に置かれた解答用紙。そこに記された点数は『42点』。曲がりなりにも勉強はできたと思っていた私。こんな点数を取ったのは人生において初めてである。
周りの反応も見る限り平均点はおそらく50点前後だろう。いくら文系クラスとはいえ、最初のテストでこの点数は致命的だ。
(どうしよう、他の科目も70点が最高点だし、総合得点もクラス内で下から数えた方が早いかも……)
私が頭を抱え、深い絶望の淵に沈みかけた、その時だった。
「ギャハハハハ!! お前それマジで言ってんの!?」
「いくらなんでも校庭でぶん回すのはヤバすぎだろ!!」
「氷室もしがみついて後ろ乗って逃げんのは反則だろ!!」
「うるせぇ!! 俺達2人の勝ちだからお前ら、ジュース奢りだからな!!」
教室の一番後ろの席から(私の横)空気を読まないバカでかい笑い声が聞こえてきた。
声の主は、この英文科において『唯一の男子生徒』である4人組――通称『はみだしカルテット』だった。
彼らは入学初日の自己紹介で、「鳩が主食」だの「愛しのママン」とポエムだの「魔法少女ぷるるん(6歳)」だのと口走り、クラスの空気を跡形もなくぶっ壊した正真正銘の基地外集団である。
存在自体が完全にオワコンであり、女子たちからは『ダニ』『チャバネ(しぶといゴキブリ)』などと呼ばれ、徹底的に忌み嫌われている。
ついさっきの体育の授業中も、彼らはグラウンドの端で勝手に4人だけで鬼ごっこを始めていた。それだけならただのガキで済ませられるのだが、なんと「俺は2ダボ(バイク)で逃げるぜ!」などと叫びながら、バイクをグラウンドで乗り回し、体育教師にガチギレされて追いかけ回されるという、もはやチンパンジー以下のガイジ行動を披露していたばかりだ。
(……そうだっ!! 私たちには、あいつらがいる!! 下には下がいるんだっ!! 井の中の蛙は大海を知った!! けど大海にも序列があるんだっ!!)
私を含め、平均点以下の点数を取って絶望していた女子たちは、無意識のうちに後方の席へギギギ……と聞き耳を立てていた。
あんなチャバネのダニどもが、私たち人間様より点数が高いはずがないっ! 体育でバイク鬼ごっこをするような脳みそだ。頭の中にみそなんて詰まってるわけない。いいとこ、シャケフレークかなんかだろう。絶対に一桁、良くて十点台に決まっている。
(あいつらの赤点トークを聞いて、安心しよう……。「私より下が四人もいる」って、心底見下して安心しよう……!)
クラスの最底辺(防波堤)の存在を確認するため、女子たちは息を潜めて彼らの会話に集中した。
「そういえばよ。今回の数学のテスト、円周率使う問題あったよな」
カルテットの中で1番狂った存在でもあるバイクバカの結城が、手元の解答用紙を指差しながら、なぜか偉そうなドヤ顔で語り始めた。
「……あぁ、君たちには難しかったと思うけど。円周率って『最後の桁が4』のやつだからな」
結城が自慢げに言い放つ。
(最後の桁が4……?)
私を含めた聞き耳を立てている女子たちは、心の中で一斉に首を傾げた。
おそらく「3.14」の「4」を意味してドヤっているのだろう。高校生にもなって3.14を知っていることで優越感に浸るとは、予想を遥かに超えるバカだ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
ロリコン盗撮男(篠山)の体に、ビシィッ! と激震が走ったのが見えた。
(えっ!? 円周率って完結してたんか!? 永遠に続くもんじゃなかったのか!?)
表情こそはクールを装っているが、篠山の目が見開かれている。だが、彼は絶対に己の無知を悟られまいと、必死に余裕の笑みを作り、乗っかった。
「あ、あぁ。そうだ。最近発見されたんだよな。たしか、な、70兆桁目だったか? 俺は最後の最後まで全部言えるけどな」
(だ、だにぃ!? そんな桁数多いのか!? 3.14で終わりじゃないのか!?)
今度は、結城の顔に滝のような冷や汗が流れた。
(いまさら知らんとは言えん……! 俺が一番バカだと思われる!)
「お、おう! 当然だろ! 70兆桁目の4だろ! 俺も寝る前に毎日唱えてるわ!」
(こ、こいつも全部言えるのか!? ヤバい、俺だけ知らんかったんか!)
レベルが低すぎる。
底辺と底辺による、高度な(最低な)知ったかぶりの心理戦。
しかし、そこにマザコン厨二病の氷室が、前髪をファサッと払いのけながら参戦した。
「……フッ。70兆桁、ね。お前ら、まだ『第一部』の話をしているのか?」
(だ、第一部!?)
(ま、まさかこいつ……!?)
氷室の言葉に、二人は息を呑んだ。私たちも別の意味で息を呑んだ
(円周率って、二部作だったのか!?)
(我々がまだ到達していない、『真の円周率』の領域にいるというのか……!? 第一部完結から、第二部が始まっていたなんて……!!)
「……ふっ、円周率は、まだ終わらないということさ……。いや、これが始まり。というべきか?」
氷室が意味不明なことを言ってドヤる。
もはや数学でもなんでもない。ただのファンタジー小説の会話である。
そこへ、今まで黙って買って来た弁当の成分表を見ていた筋肉バカの真須が、ガタッ! と席を立ち上がり、目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「なにっ!? 円周率……映画化決定か!? 第二部だと!? いつ公開だ!!?」
(((バカの極みだァァァァァァァァ!!!)))
聞き耳を立てていたクラスの女子全員が、心の中で絶叫と同時に強烈なツッコミを入れた。
「第一部」だの「映画化」だの、義務教育どころか幼稚園からやり直してこい。どうやったら数字の羅列がスクリーンで上映されるんだ。上映時間70兆時間か。
(ふふっ……あははっ!)
私たちは確信した。こいつらは間違いなく、救いようのない一桁点数だ。
私たちの「下」には、まだこんなに分厚くて頼もしい、チャバネゴキブリという名のクッションがある。
自分の42点という点数が、急に輝かしいものに思えてきた。
私たちはすっかり安心しきり、彼らの赤点報告を今か今かと待ち望んでいたのだった。
クラスの女子たちが「あいつらのおかげで最下位は免れた」と安心しきっていた、その時だった。
「しかし、映画の公開日は未定でも、俺の順位はすでに確定している。……ふっ、苦手な数学は70点だが、国語と英語は満点……。総合ではクラス9位だ」
前髪をファサッと払いながら、中二病の男が信じられない言葉を口にした。
「まあな。俺と篠山も無難に5位と6位だし。あ、俺が5位ね? 俺が上ね? やっぱ最初のテストなんて、暗記でどうにかなるレベルだったな」
「おい悠馬、勝ったみたいな顔すんな! 合計点も10点も差ないだろ! それに俺は英語が満点だったからお前より最高到達点は上だ!!」
「10点でも合計点は俺の勝ちです〜」
……はい?
私は自分の耳を疑った。9位? 5位と6位?
あの円周率が映画化すると思ってはしゃいでいた連中が、クラスのトップテンに入っている?
教室の空気が、ピシッ……と凍りついた。
聞き耳を立てていた女子たちが一様にフリーズし、全員が首をギギギ……と錆びた機械のように後ろに向けた。
「ハッハッハ! 全く、お前らはまだまだだな! 俺を見ろ!」
筋肉バカの男が、自慢の大胸筋を張って解答用紙を天高く掲げた。
そこには、さん然と輝く『98点』の文字があった。
「数学は98点。そして総合クラス2位だ! 総合点でも首位とは惜しくも平均点が1点の差だったがな!」
筋肉男は白い歯を見せて豪快に笑い飛ばした。
「しかし、こんな最初の簡単なテストで点数取れないとか、逆に恥ずかしいだろHAHAHA!!」
「HAHAHA! 違いない! 余裕すぎたな!」
「この程度のテスト目ぇ瞑ってても解けるわ!」
チャバネ、もといはみだしカルテットたちが、円陣を組んでゲラゲラと笑い合う。
彼らに他意はなかった。クラスメイトを馬鹿にしているわけではなく、ただ身内同士で「今回のテスト簡単だったよな」とじゃれ合っているだけだ。
だが、その無邪気な言葉は、凶器よりも鋭く私たちの心臓をえぐった。
静まり返る教室。
男たちの豪快な笑い声だけが、やけに虚しく響き渡る。
彼らはバカだ。円周率を二部作の映画だと思っている、救いようのない本物のバカだ。
しかし、彼らは「やればできる」……いや、無駄に暗記力や地頭の回転だけは異常に優れているタイプの、最もタチの悪いバカだったのだ。
私が握りしめているテスト用紙は、42点。
先ほどまで「あいつらよりはマシ」と底辺の優越感に浸っていた自分の惨めさが、何倍にも膨れ上がって襲いかかってくる。
(……私たち、円周率の公開日を待ってる奴らより、点数下なの……!?)
絶望と、言いようのない屈辱。
顔を真っ赤にして震える私を見て、カメラ男が不思議そうに首を傾げて声をかけてきた。
「あれ? 高橋さんどうしたの? 震えてるけど。……まぁ、今回のテスト超簡単だったしな! 余裕だっただろ?HAHAHA」
…………ぷちん。
教室のどこかで、理性の糸がひきちぎれる音がした。
いや、私だけじゃない。平均点以下のテスト用紙を握りしめていた女子全員の、なけなしのプライドと理性が、完全にへし折られた音だった。
ガタッ、ガタガタガタッ!!
次の瞬間、教室中の女子たちが、一切の感情を消した凄まじい形相でゆっくりと立ち上がった。
その手には、丸められた40点台のテスト用紙……だけではない。ある者は先端が鋭い金属製の掃除用具を構え、ある者は自分の『椅子』を軽々と持ち上げ、またある者はコンパスの針をカチカチと鳴らしている。
「ん? どうしたお前ら、そんな殺気立って。……ハッ! まさか俺の『2位』という圧倒的強さに惚れたか?」
筋肉男が大胸筋をピクピクさせて的外れなことを言う。
「いや待て真須。なんかあいつらの目、ガチでヤバいぞ……!」
「な、なんで椅子持ってんだよ!? もしかして俺が円周率第二部のネタバレしたから怒ってんのか!?」
「逃げろ!! 深淵の魔物たちが、我々を飲み込もうとしている!!」
ついに事態の異常性に気づいた4人が、悲鳴を上げて後ずさりする。
「ふざけんなァァァァァッ!!」
「私たちをコケにしやがってェェェェェ!!」
「万死に値する!! 塵になれチャバネどもォォォッ!!」
「頭の形変わるまでぶん殴ってやるぅ!!!」
クラスメイトの怒号とともに、丸めたテスト用紙(42点)、チョーク、黒板消し、そして重たい机と椅子が、雨霰となってマダニゴキブリカルテットに降り注ぐ。
バカすぎる会話の直後にトップ10入りを見せつけられ、勝手に防波堤にされ、勝手に優越感を抱き、勝手にプライドを粉砕された女子たちの理不尽極まりない殺意が大爆発した。
「ぎゃああああああっ!!」
「なんで俺たちが殺されかけてるんだぁぁぁ!!」
「ゆ……じゃなくて高梨さん!? いくらなんでも、椅子はまずいんじゃ……うびいいいぃ!!」
物理的な八つ当たりの嵐から逃げるように、泣き叫びながら廊下へと走り出す4人のアホな後ろ姿。
それを金属ほうきを持って地の果てまで追いかけ回す女子たちの足音が、いつまでも校舎に響き渡っていた。




