引っ越し
頭上を雲が流れ、伊崎のうえに影を落とした。空を見上げ、視線を落とす途中に一つの視線に気づいた。視線は、道路を挟んだ向かいにあるアパートのベランダからだった。六階建てで、各階四つのベランダがあり、一階部分は美容室になっている。そのアパートの四階の一番右のベランダからタンクトップ姿の男性がこちらを見ていた。はっきりとした表情は見えないが、嫌悪感は伝わってくる。伊崎は目を逸らせずに見つめ合うような形になった。
「目、合わせるなよ」
伊崎の視線の先に気付いた湯村がそっと伊崎の肩を押す。
「ああ」と力の抜けた声を出し、二人はスーパーへ向かって歩き始めた。
「引っ越してきた人が気になるんだろ」
不安そうな伊崎に湯村は言った。
「それでもあんな見方、あるかな」
「感じはよくなかった」
「宇井君、大丈夫かな」
伊崎の間延びした言葉が、救急車の音に吸い込まれていった。
「良い部屋が見つかったんだ。来週、引っ越すよ」
先週、居酒屋でそう言った宇井は引っ越しの準備を何もしていなかった。そもそも部屋を契約したのもその日の朝で、部屋を知ったのは前日だった。高校時代から、少し、いやかなり突飛な行動をする男だった。卒業して二年たった今でも変わらない宇井の行動に不安を感じた湯村が引越しの手伝いを申し出たのだ。
もともと住んでいた家から近く、荷物は驚くほど少なかったため、昼前に始めた引っ越し作業も片付けも三時間ほどで終わった。
細かな作業をする為、宇井は部屋に残り、二人は遅めの昼食を買いに近くのスーパーへ向かっていた。
「さっきの人、怖かったな」
お総菜コーナーの前で、伊崎はまた呟いた。「忘れなよ」と呆れたように言う湯村は海苔弁当と唐揚げ弁当を交互に見ていた。
伊崎は天井からぶら下がっている紙で作られた彦星と織姫を見ていた。普段から人の視線に敏感な伊崎は、先ほどの男の目から出る嫌悪感がひどく心につっかえていた。
伊崎の視線の先に気付いた湯村は「もう七夕か」と興味なさげに呟き、海苔弁当を三つ、手にとった。
「まだいたらどうしよう」
湯村は「しつこいなあ」という言葉を飲み込み、「その慎重さを宇井にも分けてやりたいよ」と苦笑した。伊崎が持っている海苔弁当が少し傾いていることの方が、湯村には気がかりだった。
「家の前に、あんなに見てくる人がいたら気分悪いよ。せっかく宇井君が楽しそうなのに」
湯村は先日の居酒屋での宇井を思い返した。確かに、高校の頃よりは笑顔が多かったように思う。高校に通っていた時の宇井は、いつも心ここにあらずというような表情でぼんやりとしている印象だった。
宇井はあまり自分の近況を話していなかった。お弁当を食べながら聞いてみようと湯村が思った時、突然、伊崎が立ち止まった。
「みて、あれ」
小さな声で言った伊崎の視線の先には、宇井が引っ越してきたアパートの階段前だった。その前に男が立っている。ベランダからこちらを見ていた男だ。先ほどと違いタンクトップではなく白いシャツを着ているが、すぐに同じ男だと気付いた。
「あの人なにしてんの、ねえ、部屋見てるよ」
一人でしゃべり続ける伊崎をよそに、湯村は黙って歩き始めた。伊崎は不安を隠さず、湯村の半歩後ろを歩いた。「とりあえず、挨拶してみよう。不審な行動があれば警察を呼べばいいよ」と言いながら、湯村はどの程度で警察を呼んでいいのだろう、などと考えた。
アパートの近くになると男も二人に気付き、睨むように見てきた。明らかに怒っている。伊崎は「い」と小さく声を漏らし、湯村はできるだけ平静を装い「こんにちは」と男の目をみて言い、すぐに目を逸らした。二人が足早に階段を上ろうとすると、男は額にためた汗を腕でぬぐい「もうやめてくれんか」と言った。その声は表情とは裏腹にか細いものだった。
湯村は足を止め、「何がですか」と思い切って男に尋ねた。男は少し苛立ったように「宗教施設か信者の共同生活か知らんが、毎晩毎晩ようわからん歌流したり、でかいライト持って歩き回ったり。あんたら、今日引っ越してきたんやろ。また増えるんか」と二人が口をはさむ暇もないほどの早口で話した。黙っている二人を見て、男はため息をついて「おとなしくしてくれよ。あんたらのせいで寝つきが悪い」と言い、道路を渡って行った。
男が去ると、伊崎は足早に階段を上り始めた。
「早く宇井君に伝えなきゃ。ここの住人の人、おかしいよって。宇井君も勧誘されちゃうよ」
伊崎の頭の中には、引っ越し作業を一通り終えて嬉しそうに笑っていた宇井の姿があった。
「待って」
湯村が階段を上りきった時には、すでに伊崎は宇井の部屋の扉を開けていた。扉からは宇井が顔をのぞかせている。
「宇井君、きいて」と声をあげる伊崎をとめ、湯村はまっすぐ宇井の目を見てきいた。
「この部屋、誰から借りたの?」