弟
ブランコに弟が腰かけていた。揺れることなく、ただ座っていた。男はその光景をすぐに把握できなかった。なぜなら、今、入院する弟の見舞いに行った帰り道だったのだから。
日も沈みかけ、誰もいない公園でブランコに座る弟は、表情はなく視線はブランコのむかいにある小さな象の滑り台を見ていた。顔は確かに弟の顔だ。着ている服は、黒色のカーゴパンツに水色のパーカー。どちらも男の服だった。なぜ、弟が自分の服を着ているのか。自分が病院を出て、寄り道もせずにこの道を歩くまでの間に、弟が病院を抜け出し、実家に帰り、わざわざ着替えてこの公園に来ることは不可能だ。
男は嫌な予感がした。最近、ドッペルゲンガーを見たという話をよく耳にする。ドッペルゲンガーは死の前兆だとも。弟の死期が近いのか、そんな想像が心を覆う。しかし、ドッペルゲンガーは意識が体と分離して現れるとも聞く。生霊かもしれない。長く入院生活を送っている弟が外に出たいという気持ちは理解できる。服は、病院服の記憶が長いため、見舞いに来る自分の服装を想像したんだろう。そう思えば、少しは心が落ち着いた。
男が不安になったり、安心したりしている間も、弟はずっと動かずにそこにいた。男は公園に入ると、できるだけ音をたてないように弟の隣のブランコに腰かけた。音を立てて、驚かせてしまったら、弟が消えてしまうのではないかと心配したのだ。
近くで見ても、弟の容姿に違和感はない。透き通っているということもなく、はっきりとそこに存在していた。さっきまで会っていた弟と違うところが見つけられない。
「はやく、退院したいよな」
男は目の奥がじんと熱くなった。弟は変わらず象の滑り台の見ている。象のお尻が階段になって、鼻を滑る。その階段の下にはくりぬかれたような小さなトンネルがある。
「あの滑り台の間にトンネルがあるでしょ。お兄ちゃんね、よくあの中で隠れてたんだ」
男は優しく語り掛ける。
「嫌なことがあったときとか、つらいときはあそこに隠れて、嫌なことが終わるのを、待ってたんだ」
弟の表情は変わらない。
「お前も、隠れにきたのかな」
弟のことを思うと、胸が締め付けられるように痛くなった。男はもう何も話さなかった。もう少し、このまま弟と二人でこの時間を過ごしたいと思った。できることなら、ずっとこのまま。
どれくらい時間がたっただろうか。あたりは完全に暗くなっていた。顔を上げると月が見えた。弟は変わらず象を見ている。その横顔をみて、男は微笑んだ。
そのとき、遠くから自分の苗字を呼ぶ声が聞こえた。声の先を見ると、公園の入り口に弟を診てくれている看護師の男が立っている。看護師は苗字を呼びながら小走りに駆け寄ってくる。
男は弟をみる。そこにははっきりと見える弟がいた。男は咄嗟に弟の腕をつかみ、象の滑り台へ駆け出した。弟は本当にいたのだ。男はそう確信し、トンネルの中へ弟を隠した。自分でもなぜそうしたのか、考えが追い付いていなかった。ただ、確かに思うことはあの看護師がこの幸せな時間を壊し、弟を連れ去ってしまう存在であるということ。
看護師は男の前に立つと呆れたようにため息をついた。
「勝手に病院を抜け出すのはやめてください。本当に危険です」
男は看護師を睨みつけ、震える声で言った。
「弟も、少しは、外に出しても」
呼吸がうまくできず、声よりも自分の呼吸音の方が耳に響く。
「弟が、かわいそうじゃ、ないか」
最後の方は、自分でも聞こえなかった。
看護師はしゃがみこみ、男の目を見て、男の名前を呼んだ。苗字ではなく、名前を。
「病院に戻りますよ。そもそもあなた、弟なんていないでしょう」
看護師に連れられ、男はまた病院へ戻って行った。




