第18話 おやすみ、フラウデリカ
あわただしい毎日ではあるが、俺の生活にちょっとした変化が起きた。
ついに給金がもらえるようになった……わけではなく、にーう、にーう、という鳴き声が響いている通り、生きるための糧を持ち帰る必要ができたんだ。
「ただいま。ずいぶん待たせちゃったかな」
ドアを開けるなり俺は相好を崩す。毛布を敷き詰めた木箱から、ちっちゃい毛玉ちゃんがたくさん鳴きながら出てきたんだ。かーわいいー。
笑っているみたいに目をつぶる子で、踏まないように気をつけて近寄ると仔猫はズボンにしがみついてくる。
「あったかいしやわらかい。うんうん、腹ペコだったか」
ジロをなでなでして、毛並みの温かさにホッとする。
目を細めて顔をこすりつけてくる様子を、じいっと恨めしそうにのぞきこむ女性が一人いた。なでるのを独占されて腹を立てているフラウデリカたんだ。
もちろん彼女なんかじゃないし、もしも彼女だったら大変だ。嬉しさのあまり俺の脈が止まりかねない。いまでさえ不整脈を起こしているというのに。
言葉をかわせないし目も合わせられない。
だけど遊びに来てくれたのはすごく嬉しくて、ふんふんと鼻歌を漏らしながらお食事の準備を進めてゆく。
ミルクを人肌になるまで温めて、それから帰り道に買った天然ゴム製の弾力ある……つまりは哺乳瓶の代用品を近づけると、ジロはむちゃりと吸いついてきた。こういう工作、割と好きなんだ。
小さな爪を立てて、しっかりとしがみついてくる様子は可愛らしい。もちろん、すぐそこで瞳を輝かせている女性も同様だ。
まさか俺の部屋にお招きするとは思わなかったな。そうと分かっていればきちんと掃除しておいたのに。
だけど俺には金がない。金がなければ物は買えない。がらんとした部屋を、フラウデリカは不思議そうに眺めていた。
ひと振りの剣、革製の鞄、ベッド。
俺の私物はそれだけだ。
でもさ、こんなものだよ、庶民の暮らしってのはさ。
俺はまだマシなほうだ。戦うことができるし体力もある。仕事を選ぶことができるのだから、街はずれのスラムの人たちとは比べられない。
「戦争に勝っても、魔物を倒しても、恩恵を受けない人はたくさんいる。お前も街はずれに行かなくて良かったな。でないと……と、おどしても仕方ないか」
ごっごっとミルクを飲み干そうとしており、仔猫は俺の言うことなど聞こうともしない。しかしきちんとした姿勢で座るフラウデリカはというと、端正な横顔を見せながら押し黙る。
へえ、国の状況に心を痛めているのか。こっそりと横目で眺めてそんなことを俺は思う。
てっきり冷酷な人だと思っていた。魔剣士ナザルと共に凱旋をする姿を見て、きっと冷たい性格をしているのだろうと俺は勘違いをしていたんだ。
魔剣の力を振るって敵を倒し、アーヴ国の寵愛を受けて、すべての頂点に立とうという存在だ。ふんぞり返っていてもおかしくはなかった。
しかし、真実は異なる。
彼女を見ることのできる俺だけがそのことを知る。ゴミ同然だと言われていた俺だけが分かるなんて、なんとも不思議な気持ちだ。そう思っていたときにジロはミルクから口を離す。
「ん、腹いっぱいになったか。なら寝ようぜ。明日も早いしさ」
ぽんぽんと背中を叩いて、気づかないうちに俺は優しい声を出す。おなかをぽんぽこりんに膨らませた仔猫が相手だ。優しくならないわけがない。
仔猫を寝床に入れてやり、そして俺はベッドに入る。
ほどなくしてフラウデリカは壁を素通りして、恐らくは魔剣本体のある邸宅に帰った。
「おやすみ、フラウデリカ」
だれにも聞こえないように、小さな声で俺はそう言う。
もちろんだれからの返事もない。
しばらく経ち、のそりと身を起こしたのは別に寝つけなかったわけじゃない。足を組み、すうと静かな呼吸をし始めた通り、こうして瞑想することが俺の日課になりつつあるんだ。
息を吸い、息を吐き、頭のなかを透明にしてゆく。
そうすると足元のずっと先、たゆたう黄金色の存在を普段よりずっと明確に感じ取れる。
呼吸はやがて穏やかになり、睡眠のときとなんら変わらないリラックスした状態に入る。半ば夢を見ているような感じなので、このまま朝を迎えても別に困りはしない。
もう少し鍛錬をすれば、ごく短時間の瞑想でもぐっすり一晩寝たような回復を望めそうだ。
あの日、迷宮の奥底に向かうと決めた日から、俺は剣を手にしていない。その理由は単純で、剣術としての限界が見えているからだ。
以前は成長が頭打ちとなったことに焦ったが、いまとなれば当然だといえる。
剣を振り、敵に叩きつけて絶命を誘う。そのための剣術はすでに身につけ終えており、それ以上を欲するのであれば達人からの指導、ないしは強敵との戦いに身を投じなければならない。
では現時点で成長限界に達したかというとそういうわけでもない。
現に数日前にはギガフレアと正面からやり合ったし、互角だと認め合ったからこそ戦いは終結した。
ではなぜ互角だと彼女は思ってくれたのか。問題はそこだ。
火竜を体内に有しているだけでなく、あのときは俺でさえも確かに己の才能を感じていた。
もっともっと追い求められるものがあるのでは?
まだ本質に気づいていなくても、これまで無意識に扱っていたのでは?
そのような予感がなぜかあった。
ふううと俺はゆっくりと息を吐く。
内包するエネルギーは迷宮だけでなく俺のなかにもあり、ほんの少しだけ、ほんのちょっぴり、迷宮の奥底にいる女性と繋がった気がした。
§
アーヴ国、太陽通り――……。
まだ早い時間に、ぶらぶらと俺は通りを歩いてゆく。
この辺りは石によって舗装されており、周囲の店も整然とした並びをしている。
「んー、無給で働かされているけど、靴と服をもらえるし髪まで切ってくれるのは感謝だな。おかげでこの地域を歩いても変な目で見られないで済む」
うーんと大きな伸びをして、朝の散歩がてら見慣れない街並みを観察する。以前は日銭を求めて汚い場所を歩き回っていたのだし、なんだか新鮮な気持ちだな。ずっと無給だけど。
いくら目的があるとはいえ、無償で働くのはどこかで見直さないとな。大して貯えがあるわけじゃないし、どこかで必ず終わりがやってくる。
早いとこ目的を達成したいのだが、まだ魔剣フラウデリカがどこに保管されているのかさえつかめていない。
と、井戸のあたりで腰を痛そうにさすっているおばあちゃんに気づく。
「あ、大丈夫? そのまま座っていて。水は俺が汲むからさ」
おばあちゃんはにっこり笑い、近くに腰を降ろす。
いかんな、無給で働くクセが身に沁みついている。いつか休日に河原の清掃まで始めかねないぞ。
そう思いはするがいまさら手は止められない。えっさほっさと水を汲み、近くの大きな水がめに入れてゆく。そのときにおばあちゃんが口を開いた。
「ナザルの魔剣は、日に日に威力が落ちておる」
へえ、それはそれは。
ざぶざぶと水を汲み、なにげなく俺は耳を傾ける。
彼女はアーイカの密偵だ。なにか伝えたいことがあれば、さっきのように合図を送ってくれる。
「魔剣との相性が良くないのだろう。過去にそういうこともあったらしい。以来、不審な行動を取るようになった」
相性……相性ねぇ。
魔剣について俺はまだ詳しいことを知らないが、あれは単純なアイテムなどではないと俺は思っている。人格が宿り、迷子の仔猫ちゃんを放っておけない性格だったりする。となると相性というものが生じてもおかしくない。
仮に性格の不一致だとして、ではなぜファックス男とフラウデリカは仲が悪いのだろう。
顔はいい。
声もいい。
態度は高圧的だが、戦場で見かけた限りでは剣の腕が確かにある。
あんぐっと菓子をかじりながら俺はそんなことを考えて道を歩いてゆく。砂糖は少ないけれど、小麦粉の香りがふんわりと漂って美味しい。さっきのおばあちゃんがお礼にくれたんだ。
ゆるやかな坂道を上ってゆくと、大きな建物が見えてくる。
ここまで金持ちっぷりをアピールされると、むしろすがすがしい。国民はきゃあきゃあ騒いでいるけどさ、どう見たってお前らの財産を吸い取っているんだからな。
魔剣士は強い。強すぎる。
そのぶん豊かな生活を許されるが、それは周囲の者たちを踏みにじっているといえる。だからこそ、俺が魔剣を盗み出してもいいのではなかろうか。正当化をしても神様は許してくれるのでは?
「おっと、あれは……」
そんなバカなことを考えていると、敷地を歩いてゆくナザルの姿が見えた。貴族らしい恰好をしており、隣には貴婦人を連れ添っている。
金色の美しい髪をまとめており、真珠で飾った出で立ちは高貴な身分だと表している。歩く身代金かよと思いはするが、お供もつけずにやってきたというのは少々気になる。
この世界では貴族文化が根強い。
貴婦人としての在り方を逸脱すると、周囲から非難を受けやすい。要はアバズレとか言われちゃうんだよね。
「ん、気になるな。間取りも人の出入りもだいたい分かったし、今夜にでも忍び込むか」
不穏な言葉をつぶやいて、俺はゆっくりと敷地に向かう。
楽しそうに笑う貴婦人の声がここまで聞こえてきて、朝っぱらから元気だなと感心する。
世のなか、タダより高いものはないんだよね。悲しいことだけどさ。
甘菓子を口に放り込み、俺は指をぺろりと舐めた。
明日21/5/6から夜19時更新といたします。
よろしくお願いいたします。