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夜の森のヘゼル  作者: 文字野
一章 平民ヘゼル
8/8

8話

 

 目を醒ましたヘゼルが見たものは、噛み締められて真っ白な唇を一瞬にして綻ばせた母親だった。


「ヘゼル! ああ、ヘゼル! 起きたのね、良かった……!」


 薄っすらと泣き笑いを浮かべる母親にキツく抱きしめられ、足音も荒く部屋に飛び込んできた父親にガシガシと頭を撫でられ、ヘゼルは無意識にやわらかな笑みをこぼした。瞼を閉じると目頭からポタリと水滴が落ちた。これはたぶん汗だろう。夢の中で散々泣き喚いたのだから、涙などもう枯れ果てている。


 それにしてもこの両親の態度は尋常でない。どうしたのかと問えば、なんとヘゼルは一日中目を醒まさなかったらしい。声をかけても身体を揺さぶっても起きる気配が無く。身じろぎ一つせず懇々と眠っていたそうだ。恩寵の風はとうに吹き終わり、祭りは既に始まっている。

 恐らく、煎じて服用するべき『眠り草』をそのまま呑み込んだことが原因だろう。効果が無いよりはましだが、明らかに効き過ぎだ。ヘゼルは内心冷や汗を流す。流石に予想外だった。心配をかけた両親には悪いことをした。


 けれど、おかげで知るべきことを知った。後悔していないと言ったら嘘になるが、ヘゼルには必要なことだった。

 未だに少しばかり反発する自分が居るけれど、それは追々片付けよう。一度向き合ってしまえば二度と顔を上げられなくなりそうだ。


「……おはよう」


 母親の腕の中でヘゼルはぎこちなく笑う。知識に引き摺られ、今ここに存在するという自覚が薄い。こうして抱き締められていることさえまるで夢の延長線上の出来事のようだ。

 そういえば、笑顔とはどのように作るものだったか。あまりに泣き過ぎて忘れかけている。


「……ええ。おはようヘゼル」


 これが手本だと言うように母親が微笑んだ。


「ヘゼル、動けるかしら? お腹が空いたでしょう? お祭りはもう始まっているから、料理をもらいに行きましょう」


 てっきり質問攻めにされ怒られると思っていたヘゼルは目を丸くした。気にならないわけが無いだろうに、母親は何も問い質さない。父親に視線を向けるが、やはり微笑んで頷いた。


「ちょっと覗いて見たけど、美味しそうだったよ」


 別段料理の感想を求めたわけではない。わかっているだろうに二人は何も言わなかった。


 軽く身仕度を整え、ヘゼルは両親と手を繋いで外に出た。空は薄闇に覆われ始めている。涼しい風がヘゼルの額を叩いた。

 家々には鮮やかな刺繍の施された長布が上げられた幕のように()められている。確かあの刺繍にも意味があった筈だが、何だったか。風に煽られると花の匂いがふわりと乗った。

 村の中央には木材を積み上げられた祭壇がある。男の記憶にあるキャンプファイヤーに似ているが、切り株をそのまま使った大きな台座に彫られた装飾は、比べるまでもなく見事な出来だ。

 その周囲には芳しい料理がずらりと並んでいる。すべてヘゼルが眠っている間に作られたものだ。手を伸ばすに気後れする。しかし「お腹空いたでしょう?」と母親があれもこれも皿に乗せるため、遠慮するだけ無駄だと諦めた。起きたばかりの胃に肉料理はつらいので父親に譲った。嬉しそうだったので良しとする。

 祭壇には火が焚かれ、ぱちりぱちりと火の粉を鳴らしている。時折細かい灰が舞い上がる。


「祭祀奉上の儀は、もう終わったみたいだね」


 口の端に肉料理のタレをつけた父親が残念そうに呟いた。間髪入れずに母親がその腕を抓る。


「気にしなくていいのよ、ヘゼル。来年があるわ。またアレンくんが読み上げてくれるらしいから、楽しみね」


 父親は、ヘゼルが眠っていた所為で見逃したと責めたわけではないだろう。それでも母親の気遣いを受けてヘゼルは微笑んだ。胸には、若干複雑な感情が走った。


 祭祀奉上は山の神(アデントルカ)へ感謝の言葉を捧げる儀だ。村長が祭事用の上質な紙に口上をしたため、その手紙は読み上げたあと火に焚べる。読み上げるのは村の子どもの役目だ。子どもであるなら誰でも構わない。

 やはりアレンは来年の役目も引き受けたのか。ヘゼルが得た知識の正しさを裏打ちする現実に、胸の奥が重く冷たくなるような心地がした。


「ヘゼル? やっぱり調子が悪いのかい?」父親が表情を曇らせる。


「ううん、違うよ。大丈夫。ただ、のどが渇いたなって」


「そうかい? ええと、お母さん、飲み物はどこだったかな」


「向こうよお父さん。私の分もお願いね」


「そっかあ。おかしいな、ごく自然に持ってくる係に任命されちゃったぞ」


 それでも笑って母親の指差したほうへ向かうあたりが、やはり父親だ。


 野草を炒めたものをちまちまとつまみながら、ヘゼルは視線だけで周囲を見回す。遠くにニッカとノージの姿があった。どちらも互いの両親と一緒だ。ニッカとノージの父親が赤ら顔で酒を進め、それをニッカが自分の母親と共に諌めている。気の強そうな眼差しは母親譲りだとわかる。体格も大きく厳ついニッカの父親はともかく、ノージの父親は特に細いから心配も尤もだ。一方ノージの母親は息子の皿に料理を乗せることに心血を注いでいる。それをノージがどこか怯えた表情で引き止めていた。気持ちはよくわかる、と自分の皿に乗る肉料理を持て余しているヘゼルは静かに頷いた。

 アレンの姿が見えないが、祭祀奉上が終わってからすぐ大人たちに捕まったのだろう。今頃は酒でも飲まされて一番に潰れているに違い無い。子どもに飲ませるなと怒られそうだが、アレンの両親はどちらも豪快な性格をしているし、何より今日は祭りだ。それくらいは些末事である。


 村は賑やかだった。大人の笑い声がそこかしこから立ち上る。合間を縫うように子どもの高い声が響く。風が通り抜ける音、火の粉の爆ぜる音。料理や酒の匂い。笑顔。どれもこれもが明るかった。

 ――来年は、これが台無しにされるのだ。そしてそのまま永遠に失われるのだ。それを知っているのはヘゼルだけ。


「……重いなあ」


 だが、その重みはとても大切なものだと再確認する。


「あら、寒かった?」


 聞き間違いからそう尋ねる母親に、ヘゼルは曖昧に微笑んで首を振った。


「ううん。あったかいよ、おかあさん」



「ヘゼルの親父さん」


 妻と娘に果実水を、自分には酒を。それぞれ手に持ち戻ろうとするウェルドを幼い声が呼び止めた。


「やあアレンくん。祭祀奉上お疲れ様」


 ウェルドはにこやかに労う。例え目を醒まさない娘のことが心底気になっていても、アーモンドグリーンの髪が炎に照らされる姿は幻想的だった。他の村人、特に子どもたちに余計な不安を抱かせないようウェルドだけ祭祀奉上の際に顔を出したのだ。


「どうも。……ヘゼル、居なかったけど、何かあったのか?」


 問われた内容は予想通りだったため、ウェルドは笑みを崩すことなく用意していた言葉を舌に乗せる。


「女の子にはね、色々あるんだよ」


「……ふーん」


 アレンの顔には納得いかないと書かれている。それでも追求しないところを見るに、ウェルドの胡散臭さが役立っているらしい。自分の父親あたりにのらりくらりとしてるが侮れない腹黒野郎だと教えられたか。異存はあるが否定はしない。威圧に使える評価は望んで着よう。

 それを娘と同年代の子どもに使っていることは、なんとも情けなく思うが。


「心配することは無いよ、元気だから。今あっちで料理を食べてるよ。顔でも見ていくかい?」


 ウェルドの言葉に、アレンは迷ったように視線を逸らす。そしてゆっくりと首を振った。


「……いや、いいよ。やめとく」


「あの子は気にしないと思うけどなあ」


「オレが気にする。つーか、してる」


 アレンと娘の仲が噛み合っていないことは周知だ。喧嘩したわけでは無さそうだが、だからこそウェルドたち大人が手出しできない。子どもには子どもの世界があり、ルールがある。そんなこと誰だって経験済みだ。


「あいつが悪いわけじゃねーし、でもオレが悪いってわけでもねーんだけど……どうしたらいいか、わかんねえ」


 しかし道に迷う子どもを見て見ぬふりもできず、ウェルドはつい口を開いた。


「君の好きにしなさい。きっとそれに答えは無いから、自分で決めたものを信じたらいいよ。あまりに間違っていたら大人(ぼくら)がそれを正すし、責任だって一緒に被ろう。だから存分に悩んで、考えて、そして行動しなさい」


 アレンは不満げに目線を上げた。


「わかんねえって言ってんじゃん」


「それでも、だよ。生き方に正解なんて無いんだから、自分で考えながら進むんだ。――まあ、でも、そうだね。とりあえずヘゼルと話してみるといい。今の君たちに足りないものは会話だと思うよ」


 アレンは少し黙り、苦々しく「わかった」と応えて背を向けた。これはわかってないな、とウェルドは苦笑する。

 どんなに幼くても彼らには自分で考える頭があり、行動する身体がある。結局他人のできることなんて限られているのだ。それが歯痒くて仕方ない。

 本当にどうでもいい人間なら、思考を誘導してこちらの都合良く動かしたのだけれど。


 娘の様子がおかしいことなど、ウェルドはとっくに理解している。他人と接するときに壁を作るようになった。笑うことが下手になった。向けられる視線を気にして臆病になった。些細なミスを恐れるようになった。聞いたことのない言葉(うた)を口にするようになった。

 何か尊いものを思い返すような、とても遠い目をするようになった。


 ヘゼルが目を醒まさない、と半狂乱になった妻を思い出す。近寄らないと呼吸をしているのかすら定かではなかったその状態は異常と言うに尽きた。しかも時期が時期だ。恩寵の風が吹き荒ぶ中、それでも村長の家に駆け込んで相談――というよりは八つ当たり――をしたら、年老いた彼は白い髭を撫でて言ったのだ。「山の神(アデントルカ)の御意志かもしれん」と。

 この村に住んでいるからこそ、その一言は何より衝撃があった。

 怒りに触れたのか、気に入られたのか、単なる気紛れなのか。何にせよヘゼルに害は無いだろう。明日の祭祀奉上にてその手からヘゼルを返していただけるよう意見具申してみよう、と。だから今年の祭祀奉上の言葉は例年とは違ったものだった。読み上げたアレンがヘゼルを気にしたのもその所為かもしれない。


 ――僕の娘だぞ。ウェルドの青色の瞳が剣呑な光を宿す。

 ヘゼルは僕の娘だ。変化の理由がわからないなら調べればいい。怯えるのなら側に居ればいい。恐れるのなら手を握ればいい。必ず、必ず守ってみせる。

 理由を探し出し、見つけたのなら――それが人でも神でも関係無い。潰すだけだ。


 待ち侘びた様子の妻と娘の姿を確認した途端、ウェルドの苛烈さは息を潜め、やわらかく微笑んだ。


「ただいま。待たせてごめんね」


 ウェルドを見上げておかえりなさいと笑う二人に――どうしてだろうか、泣きたくなった。

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