73話 高嶺本家へ
エリスが去っていった方を、健二は呆然と見つめた。
渡された資料に目を落とし、妹の言葉を思い出す。
『天翔学園を辞めて、本家に戻ってほしいんだ』
『今こそ、カグ兄様が黒薔薇家になくてはならない人材だと、お父様たちに示すべきだよ。わたしは、ずっとこのときを待ってたんだ』
(俺を、再び黒薔薇家に。エリスは、その願いをずっと抱いて、今日まで頑張ってきたのか。俺のために)
資料にはいくつもの手書き付箋がついていたり、分単位のスケジュールをこなした記録が添付されていたりした。
それらひとつひとつが、妹が『黒薔薇エリス』としてこれまで積み上げてきた日々をしのばせる。
両手に抱えた資料が、ずっしり重く感じた。
天翔学園を辞めることも、黒薔薇本家に戻ることも、健二にとってはとてつもなく大きくて重い問題だった。
神社を再建すること。
大事な妹の想いを継承すること。
それらを天秤にかけて、自分は選択をしなければならないのか。
「これは由々しき事態です」
「ええ、そうね」
ふと、両隣にいた輝夜と千影が言った。
「ねえ、やっくん。エリスちゃんの提案、どう思ってるの?」
「あの口ぶりだと、妹ちゃんはそう簡単には引き下がらないわよね。クロバラくんは、どうしたいの?」
ふたりして、健二の真意を尋ねてきた。
健二は、すぐに答えられなかった。
改めて、手元の資料を見る。
(エリス、まだ小学生なんだよな。それなのに、こんなにもたくさんの企業や団体と繋がりを持ってる。黒薔薇本家の娘として)
――本家を追い出され、黒薔薇家の厳しさを身をもって知っているからこそ、わかる。
エリスが受けてきたプレッシャーは、並大抵のものではない。
同時に、そんな厳しい状況だからこそ、誰かの存在が支えになることも、身に沁みてわかる。
健二は振り返り、倒壊した社を見つめた。そして、社に向けて手を合わせながら、彼は輝夜たちに自分の思いを告げた。
「エリスはまだ小さいのに、必死に頑張っている。そんなあの子が、『戻ってきて』と言っているのに、それを無下にしていいのだろうか」
「やっくん」
「クロバラくんらしいけど、それは」
輝夜も千影も、言葉を濁した。
彼女たちはよく知っているのだ。健二が、大事な人の思いや願いを無視できる人間ではないことを。たとえ、それによって健二自身が不利益を被ろうとも。
そんな健二のひたむきさ、自己犠牲の尊さに、ふたりとも救われたのだ。
足元で、ネコマタが「にゃあ」と遠慮がちに鳴く。まるで健二を心配しているようだった。
重苦しい沈黙が降りる中、意を決して千影が口を開く。
「クロバラくん。敢えて言わせてもらうわ。もし、エリスちゃんの要求に従えば、クロバラくんはきっともう、私たちとはいられなくなる。そのことを忘れないでほしいの」
「それは嫌だ」
はっきりと、健二は答えた。祈りの姿勢を解き、真っ直ぐな目で少女たちを見つめた。
「俺はたかちゃんや、千影さんと一緒にいたい。その気持ちは変わらずに持ってる。ふたりのおかげで、俺は変われたんだから」
正面から思いを告げられ、輝夜と千影ははにかんだ。いっとき危機感を忘れ、満更でもない顔になる。
輝夜が咳払いした。
「このままここにいても、良い考えも浮かばないよね。やっくん、千影さん。ここは落ち着いて、作戦会議をしましょう。私の家で」
「たかちゃんの家で?」
「輝夜ちゃん。どさくさに紛れて、自分のホームグラウンドに引きずり込もうとしてない?」
「ありません。そんなことは、ありませんとも」
二度言った輝夜を、千影が目を細めて見つめる。
健二はネコマタを抱き上げた。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「え!? ホントに来てくれるの!?」
「たかちゃん?」
「ごほん、失礼。それでは、高嶺家にご招待しますね。……お母様に急いで連絡しないと!」
いそいそとスマホを取り出す輝夜。すると千影も何を思ったか、スマホをいじり始めた。
「クロバラくん。うちに来たかったから、いつでも言ってね。スケジュール、空けておくから」
「……ん?」
「何なら、私がクロバラくんのおうちに行ってもいいよ。もちろん、本家の方じゃなくてね」
そう言って、千影はそっと健二の隣に寄り添う。
ネコマタが「離れろ」とばかり千影の腕に猫パンチした。
――その後、健二たちは送迎車で高嶺家の本家へと向かった。
高嶺本家の邸宅は、黒薔薇家に負けず劣らずの敷地面積を誇っていた。黒薔薇邸が純日本家屋ならば、こちらは和洋折衷のレトロな雰囲気である。
短い間だが、輝夜とともに過ごしていたころに見た景色だ。懐かしさと同時に、今の健二だからこそ抱く感想もある。
「……庭の掃除、やりがいがありそうだな」
「やっくん、いつでも庭を見に来てくれていいよ。むしろ大歓迎。楓華さんにお願いして、副業OKにしてもらえれば、うちと専属契約だって――」
「か・ぐ・や・ちゃん?」
正面玄関の入口では、輝夜の母、澄玲が使用人とともに待ち構えていた。娘からの連絡を受けて、わざわざ出迎えに来てくれたらしい。
「ただいま戻りました。お母様」
「おかえりなさい。首尾良くいったようね」
「はい。怪我の功名、棚からぼた餅です!」
母娘揃って、似たような笑みを浮かべる。
輝夜に続いて車を降りた千影が「やっぱりホームグラウンドで攻める気なのね」と呆れたように呟いていた。
最後に健二が車から降りると、澄玲が声をかけてきた。
「いらっしゃい、健二君」
「お世話になります」
「輝夜から話は聞いたわ。大変なことになったわね」
「いえ。いずれは、こういう日が来ると思っていました」
「考えすぎていると、良いアイディアも浮かばなくてよ。しばらくゆっくりしていきなさい」
「はい」
「そうそう。今日は雅範さんがいないから、好きなだけ親睦を深めていいからね。あなたの行動を遮るものは何もないわ」
「はい?」
「お母様の言うとおりだよ、やっくん。今日はとことん親睦を深めよう。いけるところまで」
「ん?」
「満足してもらえるまで逃がさないからね」
「んん?」
首を傾げる健二。
澄玲と輝夜は、再びにっこりと、しかしどこか獰猛な笑みを見せた。
千影が「ずるい……」と呟き、運転手の安藤が「怖……」と呟いた。




