72話 エリスにとっての健二
――6年前。
わたし――黒薔薇エリスにとって、カグ兄様は心の拠り所だった。
「エリス、おいで」
「カグにいさまー」
まだカグ兄様が黒薔薇の屋敷にいたとき、わたしはカグ兄様の部屋によく遊びにいっていた。屋敷の中で一番小さな畳部屋で、布団がひと組敷いてあるだけの、がらんとした場所だった。窓もなく、室内はいつも暗くて肌寒かった。
けれど、わたしには関係なかった。
布団の上で、カグ兄様に頭を撫でてもらうことが至高の幸福だったからだ。
「これをあげるよ、エリス。お守りだ」
そう言って、カグ兄様は絹地の黒い布袋を渡してくれた。中身は固く、軽かった。
何が入っているの?と不躾に聞いたわたしに、カグ兄様は「僕たちを守ってくれた神様の一部さ」と答えた。
中身が夕陽ノ万津神社の柱の欠片だと知ったのは、ずいぶん後のことだ。
「ありがとう!」と無邪気に笑うわたしに、カグ兄様は笑いかけた。その表情は疲れていたけれど、とても優しかった。
カグ兄様は、いつでも優しかった。
まるで、わたしに自分のすべてを与えるかのように。
そのとき、廊下から父様の声がした。
「何をしている」
「あ……」
「儀式もこなせぬ半端者が、エリスに近づくな。来い」
父様に呼び出されたカグ兄様は、わたしから離れた。その後すぐ、廊下の隅で、父様に大きな声で叱られているカグ兄様を見た。
わたしは父様が怖くて、泣きながらその様子を見つめるしかなかった。握りしめたお守りが、せめてもの慰めだった。
(どうして、やさしいカグにいさまが、あんなに怒られないといけないのだろう)
幼いわたしにとって、それは大きな謎だった。
けれどしばらくして、その理由が何となくわかってきた。
「まるで抜け殻みたいに覇気がなくて……あれじゃあ、黒薔薇家の当主になんてなれないわよねえ」
普段はわたしにとても丁寧に接する使用人たちが、カグ兄様の陰口をたたいていた。それも、ひとりやふたりではない。わたしが目にする人たち、ほぼ全員だ。
最初、わたしは泣きながら抗議した。「カグ兄様はすごい! 当主になれないなんてウソだ!」と。
すると彼らは答えるのだ。
『エリス様とは違うのですよ』
そして、さらにわたしとカグ兄様を引き離そうとする。
そのときわたしは理解した。
カグ兄様があんなに怒られたり、陰口をたたかれているのは、カグ兄様が悪いわけじゃない。黒薔薇家の皆が、カグ兄様を「いなかったこと」にしたいからだ。
わたしは悲しかった。大好きな人が、周りの皆から「いなくなれ」と思われていることが悲しくて、いつも泣いた。
そのたびに、カグ兄様はわたしを慰めてくれた。自分の方がもっとつらいはずなのに……。
「カグ兄様……! このままじゃダメだよ! エリ、イヤだよ! カグ兄様は本当にこのままでいいの!?」
「ありがとう、エリス。今の僕はやりたいことがあるんだ。エリスが元気で頑張れるようにすること、だよ。エリスがいるから、僕は今、生きていられるんだ」
わたしは胸が痛かった。子供心にも、カグ兄様が悲痛な覚悟と自己犠牲の精神を背負っていることを感じ取ったから。
カグ兄様はずっと優しかったけれど、日に日に表情が失われていくのがわかった。
黒薔薇家の中で、これほどの覚悟を背負って日々を生きている人が、いったい何人いるのだろう。
この状況でも頑張れることが、黒薔薇家の当主として何より必要な資質なんじゃないか――その思いは、今でもわたしの心の奥深くで、確かな熱を持っている。
けれど、当時のわたしには力がなかった。発言権もなかった。当然だ。まだ小学校に上がるか上がらないかの年齢だったのだから。
わたしの無力感は、カグ兄様が黒薔薇家を追い出されたときにピークに達した。
カグ兄様がいなくなって、黒薔薇家からギスギスした空気が薄れた。まるで、長年放置していた難題が片付いたかのように。
わたしは、その空気の変化が許せなかった。
だから、決意した。
カグ兄様は必ず戻ってくる。
そのときのために、わたしが、黒薔薇家の空気を変えるのだ。
絹地のお守りを握りしめた幼い日の決意は、今でもわたしの原動力になっている。
◆◆◆
目を閉じて、昔を懐かしんでいたエリスは、決意の眼差しで健二を見つめた。
「学園でのカグ兄様の評判を聞いたよ。今こそ、カグ兄様が黒薔薇家になくてはならない人材だと、お父様たちに示すべきだよ。わたしは、ずっとこのときを待ってたんだ」
「エリス……」
「カグ兄様、受け取って」
そう言って、エリスは背後に控える部下に指示を出した。
健二に渡されたのは、夕陽ノ万津神社の土地取得に関する資料、そして、エリスが現在担っているいくつかの事業に関する資料だった。
いくらエリスが当主候補といっても、そう簡単に事業内容の詳細を部外者へ伝えることはない。
これは、健二に引き継がせたいという意思表示だった。
さらに、資料には仕事内容以外のものも含まれていて――。
「やっくん、ちょっと待って」
横から資料を覗き込んだ輝夜が、眉をひそめた。
「『新婚旅行計画表』って、何か変な資料が混じっているような……!?」
「うふふふふ!」
「こ、この子……!」
「見ちゃったのなら、お姉ちゃんにも手伝ってもらわないとなあ。ふふ!」
本気なのか冗談なのか、口元に手を当てて笑うエリス。
さらに、エリスの連絡先だけが入った専用のスマホも、健二に手渡した。「黒薔薇家特注品だよ」と、エリスは胸を張った。
「決心が付いたら、いつでも連絡してくれていいからね、カグ兄様。でも、できるだけ早く決めてくれると、エリ、嬉しいな」
エリスは満面の笑みを浮かべた。
黒薔薇家の小さな次期当主は、健二や輝夜、千影の顔を順に眺めた。
「さて、今日のところは帰るよ。じゃあね、カグ兄様。それと、お姉ちゃんたちも」
そう言って、部下を引き連れて踵を返すエリス。
ゴムボートに乗り込んだとき、エリスは思い出したように言った。
「明日からの天翔祭、楽しみだね」
夕暮れの中、エリスの大人びた笑みが陰影を作る。
意味ありげな言葉を残した彼女は、夕陽ノ万津神社から去って行った。




