52話 思い出の場所
叱られてしゅんとなっている輝夜たちの元へ、やっくんから次のメッセージが届く。
:それじゃあ、俺はそろそろ行くよ
:千影さんのリスケジュールのために
:やっておきたいことがあるんだ
:剣崎マネージャーが糸口になると思う
「え、もう行っちゃうの?」
思わず輝夜が呟く。
数秒の間があって、返信があった。
:きっと
:すぐに
:会える
一語一語区切ったメッセージに、やっくんの思いの強さを輝夜たちは感じ取った。
ぱっと表情を明るくしたふたりに、やっくんからたしなめるような言葉が届いた。
:雲が出てきたみたいだ
:急な雨に打たれる前に帰った方がいいよ
:それじゃ、行くね
それきり、やっくんのメッセージが途切れる。
彼がこの場を離れたのだとわかった。
相変わらず姿は見えない。喫茶店の出入り口はカウベル付きなのに、ベルの鳴る音も聞こえなかった。
いつの間にか三毛猫の姿も消えていた。
輝夜と千影は脱力して座席の背もたれに身体を預けた。
「はぁーあ」とため息のような、恍惚の吐息のような、悩ましげな呟きをこぼす。
しばらくして、千影が居住まいを正した。凪砂から預かった古びた手帳を、再びめくり始める。
輝夜は首を傾げた。
「千影さん。いったい何を」
「リスケジュールの件はクロバラくんに任せるわ。私には想像もつかないやり方をクロバラくんは考えているはずだから。私は、私のできることをしようと思う」
真剣な表情で手帳をめくっている。
「クロバラくんは言ってた。私が凪砂さんの気持ちをファンに伝えるんだって。凪砂さんがこれ以上、絶望に潰されないよう、私はファンのみんなの力を借りたい。そのためにも、私はもっと凪砂さんのことを知る必要がある」
凪砂から託された手帳は、彼女のことを知る絶好の資料だ。
ファンに凪砂の気持ちを伝え、ファンの力で凪砂の絶望を振り払うこと。それが彼女を再びステージに立たせるために、最も有効だと千影は考えていた。
「クロバラくんは、凪砂さんを立ち直らせる役目を私に託したんだと思う。私も、凪砂さんのことをもっと知りたい。そのヒントは、きっとこの手帳の中にある」
「私もお手伝いします。あのやっくんが影から支えるだけじゃなくて、私たちを信じてくれたんですから」
そう言って、輝夜は千影の隣に移動した。ふたりして手帳の中身を読み返す。
使い込まれた手帳は、なんとなくページが重く感じられた。日々のできごとの中で、特に心に残ったことだけが書き綴られているのだろう。文字は丁寧で、彼女の真摯な性格が感じられた。
何度か鼻をすすりながらページをめくっていた千影が、ふと手を止めた。
「ねえ、輝夜ちゃん。この『万津池公園』って、前のページにも出てこなかった?」
「確かに、何度か見た気がします」
「もしかして」
千影はページをめくる。
輝夜の言うとおり、最初のページに『万津池公園』という言葉が書かれていた。
凪砂がまだデビューする前、自作のCDを手売りしていた場所とあった。
「活動のスタートとなった場所……これ以降も、思い出すように繰り返されてる。きっと、凪砂さんにとって芸能活動の原点になっているんだ」
「万津池公園……」
「輝夜ちゃん、知ってる?」
「……いえ、よくわかりません。ただ、どこかで聞いたことがあるような」
「じゃあ確かめるしかないね」
千影は手帳を閉じた。スマホで公園の位置を確認する。ここから徒歩では厳しいが、行けない距離ではなかった。
輝夜が、近くで待機していた運転手に連絡した。
「車で送ってもらえるそうです」
「ありがとう。それじゃあ、行きましょう」
「はい」
ふたりは荷物をまとめて立ち上がる。
すると、店内の女性客から「頑張って」と声をかけられた。
輝夜と千影は立ち止まり、柔らかな笑顔で応えた。
「ありがとうございます」
吹っ切れたようなふたりの笑顔に、女性客だけでなく他の客や従業員まで見惚れた。
喫茶店の外に出ると、確かに雲が出てきていた。遠くの空はねずみ色に染まっている。
道路脇では、すでに運転手が輝夜たちを待っていた。
「お疲れ様です。輝夜お嬢様、紫月様」
「お待たせしました。さっき電話したとおり、万津池公園に向かっていただけますか」
「かしこまりました。ただ、天候が急変するかもしれません。あまり長時間の寄り道は控えた方がよろしいかと」
「ありがとう。でも、どうしても行きたいんです」
輝夜が真っ直ぐ運転手を見ながら言う。
彼は小さく微笑み、「かしこまりました」と頷いた。そういえばここ最近、運転手や家の者たちの態度が心なしか柔らかくなったと輝夜は思った。
千影とともに車へ乗り込み、移動すること約15分。緑豊かな万津池公園に到着した。
「ありがとうございます!」
駐車場に車が停まるなり、千影は飛び出した。手帳をしっかりと握りしめ、気合いが入っている。
一方の輝夜は、車外に出るなり首を傾げた。
「あれ……? ここ、どこかで」
「輝夜ちゃん。どうしたの?」
千影の呼びかけに、輝夜は慌てて走り出す。
トランクから傘を出そうとしていた運転手は、小走りに行ってしまった少女たちの背中を肩をすくめて見送った。
「高嶺家の運転手になって3年。お嬢様にも、ようやく年相応の活発さが見られるようになった。若いっていいねえ」
感慨深く頷き、彼は運転席に戻った。
一方の輝夜と千影は、手帳を覗き込みながら公園内を歩く。
芝生エリアだけでなく、遊歩道も整備された長閑な公園である。休日ということもあって、子ども連れやジョギングに勤しむ人たちの姿をよく見かけた。
輝夜は内心で首を傾げた。
(何だろう。やっぱり何か引っかかる)
けれど、今は凪砂のことが先決だと思い、輝夜は千影に付いて歩いた。
ふと、千影が手帳から顔を上げた。
「あった。たぶん、ここね」
輝夜たちの前に現れたのは、石造りの小さなステージ。おそらく、地元のお祭りやイベントで使うものだろう。
ステージと言っても、控え室もなければ、背景スクリーンもない。日除け程度の簡易的な屋根が設置されただけで、あとは吹き抜けだ。
ステージの前は円形の広場で、盛り土によって自然な傾斜がつけられていた。
「ここが、花咲さんの出発点……」
「ええ。デビュー前にCDの手売りから始めた場所。そして」
千影が手帳の記述を確認しながら、ステージ脇の草地に向かう。
「ここが、手帳に何度も出てくる、凪砂さんの思い出の場所ね。本当に、凪砂さんらしい」
目を細めた千影。
ふたりの前には、色とりどりのガーベラの花が咲いていた。




