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宵闇に灯火の唄を  作者: 野木 千里
第一章
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16話

 出立の朝となった。ソラは結い上げのために仕立てた淡い緑の正装を着せられ、頭のてっぺんからつま先まで丁寧に磨かれ、香油を塗り込まれていた。花嫁衣裳は大きな衣装箱に詰められて先ほど部屋から運び出されていった。

「気持ちいい天気だね。私もこんな日に結婚式がしたいなぁ」

「サグエルまで十日もかかるんだよ。それに、旦那さんがあのラヒムだって言うんだから」

「絶対雨ね」

 女官たちは楽しそうに歓談しながらソラの身支度を進めている。計画を中止してもらうなら今が最後の機会だ。雨季が始まったとは思えないほど穏やかな様子の庭を見ながら、ソラは思い悩んでいる。

 病床に伏せる父のために山に薬草を取りに行って、人攫いに捕まった。暗くて煙草や香の臭いが充満した部屋で、主人だという男に歌え、と囃し立てられた日々。怖かった。寂しかった。薄い毛布に包まって、来る日も来る日も泣いた。男は言った。こんな子供では抱き心地が悪そうだが、声はいいな。次の日から鞭で打たれるようになった。

 どうして、と問うソラへの返事はなかった。

 そんな恐ろしい場所に、ある日光明が差した。

 穏やかな優しい声で、慈愛に満ちた目で、柔らかな温かい手で、ソラを連れ出してくれた

 ユルクはソラに沢山のことをしてくれた。話し方や文字の書き方、外国の話。手習いもさせてくれた。歌や踊りや刺繍に至るまで。イスティファはソラに「お姫様」だと言った。確かに彼女の言うとおりだ。籠に入れた鳥を可愛がる以上のことを主人はしてくれた。

 きっと、彼も一人きりで寂しかったのだろう。王太子とその奴隷の『鷹』。第一後宮にそれ以上の住民はいない。本来同じ場所に住まうはずのユルクの母親は、産後すぐに亡くなってしまったからだ。その他の王子や王女、正妃や側室も第二後宮を住居としている。

 王が許した時だけ王太子は異母兄弟に会うことができるが、それも限られた時間のこと。いつでも話し相手になれるのはソラだけだった。国王はそのことを知っていたのかもしれない。二人でお茶の時間を楽しんでいると耳に入れた時も「アレは息子の持ち物だから」とそれ以上の言及を止めてくれたと聞く。自分が主人の寂しさを埋めることができているのならば幸せだ、とソラは思っていた。

 自分が出ていけば、ユルクは本当に一人ぼっちになってしまう。たった一人であの広い後宮に暮らすことになる。そして時が来れば王となり、やはり一人きりの住居で暮らす。

 主人のためにソラは出ていく。それだけは間違いない。だが、そのために彼をこれから先、ずっと一人きりにして良いのだろうか。傍に仕えて、支えていくことこそが一番の恩返しではないだろうか。

 答えの出ない問いに胸を惑わされていることは、ソラ本人が一番自覚している。

 後戻りはできない。一度作戦を実行すれば犠牲者が出ることは間違いない。作戦をやめれば、助かる命ももちろんある。

 ソラは胸の下、下着の中に縫い付けた銅貨に服の上から触れた。アサドに返し損ねた銅貨だ。イスティファに返そうと思ったのだが、どうしてもできなかった。ソラに外の世界のことを教えてくれた小さな男の子。あんなに小さいのに自分の病気を受け入れて、医者に診てもらえないことを恨みもしない様子だった。

 自分の選択が、もしかしたら彼の仲間たちの未来を変えるかもしれない。そんな不確かな予感がソラの中にある。鳥人族に市民権が与えられたら。同じ自然に信仰を見出す者たちに権利が与えられれば、いつか彼らも信仰のために辛く当たられることがなくなるかもしれない。

「ソラ、準備できた?」

 落ち着かない様子のラヒムが顔を出す。彼はソラが出発した後、ユルクと共に王都を出るらしい。

 ソラと揃いの正装を仕立てたようで、緑の上着を身にまとっている。

「ちょっと今日は来なくていいのよ」

「そうよ、邪魔!」

「あなた、自分が主役の自覚はあるわけ?」

 女官たちの怒涛の攻撃に、ラヒムははにかんでごまかした。姉が三人いると言っていた。このくらいなら何でもないのだろう。まぁまぁ、と女官たちをいなしながら部屋に入ってくる。

「最後の準備、俺がしたって罰は当たらないだろ?」

 ラヒムはそう言って、台の上から靴を取った。今日の正装に合う緑の生地に金の刺繍を施したものだ。結い上げの日に履いたきりなのでまだ汚れもついていない。

 大きな手で足を包まれて、ソラの胸が跳ねる。

 慈しむような手つきだ。昨夕、怒った顔で口づけてきたのとは打って変わって。

「……小さいなぁ」

「そうでしょうか?」

 ソラのつま先は、手と同じように鉤爪状になっている。もちろん女官たちがしっかりとやすりをかけてくれて、人を傷つけないように加工はされているのだが。

「専門の職人にちゃんと仕立ててもらったほうが良かったかもね。ちょっと大きいよ、これ」

 そう言いながらゆっくり噛みしめるようにラヒムはソラに靴を履かせた。

 このまま彼の元へ嫁げば、きっと大切にしてくれるだろう。きっとずっと、仲の良い夫婦としてやっていけるはずだ。時に言い合いをしたとしてもちゃんと仲直りができる、そんな二人になれるはずだ。

 自分の足に履かされたほんの少しだけ大きな靴を見て、ソラは決意した。

 幸せだった頃の記憶も、夢見てしまった未来も、全てここに置いていこう。それは自分には過ぎたものだった。

 これから自分は主人と婚約者を裏切る。二人は悲しんでくれるだろう。できればその後、時間が二人の傷を癒してくれれば良い、とソラは願った。

 ラヒムの額が足の甲に触れる。旅に出る人に家族が行う特別な挨拶だ。怪我をしないように、無事目的地まで歩くことができるように。きっと、ユルクでは身分が許さないので、夫となる彼が代わりにしに来てくれたのだろう。

「……ありがとうございます」

 できるだけの微笑みをソラは浮かべた。彼は何を思ったのだろうか。泣きそうなほど切なげな笑顔をソラに向けて、今この瞬間を噛みしめるようにその言葉に返事をした。

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