十二話 何がおかしかったんだろう
さっきよりも近い距離で聞こえる声にゆっくりと目を開ける。すると、間近にこちらを見据える赤い瞳があった。
「な、なにを……」
「そう言いたいのはこちらのほうだ。落ちるのならば、最初から登るな!」
落ちた。たしかに落ちた。間違いなく落ちた。だけど今私は、ルーファス陛下に抱えられている。
つまり、ルーファス陛下が受け止めてくれた、ということだろう。
「あ、ありがとうございます……?」
「……礼はいらん」
肌と外気を隔てるのは肌着一枚だけ。触れている手の温かさやらが伝わってきて、どうにも落ち着かない。
しかもルーファス陛下は不機嫌な顔をしているのに、こちらを真っ直ぐ見ている。
落ち着かないことだらけだ。
「あの、降ろしてくれますか?」
「……降ろしたら、お前は何をするつもりだ」
「花を……愛でに」
間違ってはいない。色々調べるのも、愛でるうちに入るだろう。
「…………また勝手なことをされてはかなわん。部屋に運んでやるから、おとなしくしていろ」
少々言いよどんだのを嘘だと思われたのかもしれない。ルーファス陛下は私を降ろすことなく――むしろ抱え直して――歩き出してしまった。
途中すれ違った侍女に、ルーファス陛下が服を持ってくるように指示を出して、私を抱えたまま廊下を突き進んでいく。
そうしてたどり着いたのは、昨日もお邪魔した執務室だった。
たしかに部屋だ。部屋は部屋だけど、ここは違うのではないだろうか。
「あの、私の部屋ではないんですか?」
「一人にしておけば、またおかしなことをしでかすかもしれないからな」
ソファの上に降ろされて、ルーファス陛下は執務机に向かってしまった。
カリカリとペンが書類の上を走る音だけが聞こえる。思わず遠い目をしていると、侍女が私の服を持ってきてくれた。
「ここで着替えろ」
書類から顔を上げずに言うルーファス陛下に、侍女の顔色が蒼白に変わる。
殿方の前での着替えなんてはしたない、とでも思っているのかもしれない。だけど逆らえば首が飛ぶかもしれないから、困惑と恐怖の狭間で悩んでいるのだろう。
「大丈夫ですよ。私の恰好を見ればわかると思いますが、すでに手遅れです」
なにしろすでに肌着一枚だ。
安心させるために言ったのに、何故か侍女の顔色が今度は赤に変わる。
「お前は……もう少し違う言い方はなかったのか……」
そして、ルーファス陛下が苦虫を噛み潰したかのような顔で、唸るように言った。
おかしい、何も間違ったことは言っていないはずだ。
なにしろすでに肌着一枚。着替えを見られようと、ただ上に服を着るだけの作業でしかない。
脱ぐのならともかく、この恰好でいる時点で、はしたないとか恥ずかしいとか思うタイミングは通りすぎている。
「それでは……失礼いたします」
「あ、はい。よろしくお願いします」
されるがままドレスを着せてもらう。
手伝ってもらわなくても一人で着れたけど、命令されているのは侍女だ。ここで私が逆らっても、飛ぶのは私の首ではなく侍女の首かもしれない。
飛ぶ首は私のだけでじゅうぶんだ。
「呼ぶまで下がっていろ。他の誰も、部屋にいれるな」
「かしこまりました」
また顔を赤くさせて侍女が部屋を出る。ルーファス陛下が「ああ、くそ」と何やら呻いているのを横目に、私はだんまりを決めこんだ。
ルーファス陛下と離れたことで胸のざわつきは治まっているけど、今話しかけたらまたあの赤い瞳で見据えられる。
そう思えば思うほど、どう話しかけたらいいのかわからなくなる。いっそ後ろを向いて話そうかとすら悩んでしまう。
妖精の血をひいている人は背中に目がついていますとでも言えば、騙されてくれるだろうか。
だけど結局口を開かないまま、代わりに手を開いたり閉じたりを繰り返す。侍女にお茶の一つでも頼んでおけばよかった。本とかを頼んでもよかったかもしれない。
さっきもぎ取った花は部屋に飾っておくとかで侍女が持っていってしまった。
せめて花弁の一枚でも手元にあれば、とりあえず口に含んでみたのに。
「……お前は」
静寂を切り裂く低い声に、思わず体が震える。
「国に帰るまでおとなしくしていられないのか」
「……帰る気はありません」
ぷいとそっぽを向いて答える。これなら顔を背けてても、拗ねているようにしか見えないはず。
「俺はお前を妻として認める気はない。……それでもか」
「すでに妻ですので」
「そんなものは書類上でのことだ」
「書類上で妻なら、実際に妻だと思いますけど」
むしろ、それ以外に妻である条件なんてあるのだろうか。
「いい加減、腹をくくってください。私はあなたに嫁ぎました。正式に書類も交わし、国で式も挙げました。今さら国に帰れるわけないじゃないですか」
「奪った土地は返還する。お前が国に帰る時にはそれなりの金品も用意してやろう。それでじゅうぶん、役目は果たしたことになる」
「その程度で私が納得するとでも思っているんですか」
私が国に帰るとしたら、それは死んだ後。魂は天に還り、体は国に帰る。
金品なんていらないから、代わりに私の命をもらってほしい。
「エイシュケル王は納得するだろう。損にはならないのだからな」
「私の気持ちも考えてください。嫁いだのにのこのこと帰れません」
「……むしろ、お前はこの条件で何が不満なんだ」
不満しかない。
私が生きたまま帰れば、お母様の面倒を見るという約束はなくなるだろう。
そしてもしも、お母様が目覚めていた場合、また以前のように私と二人、森に閉じこめられる。
だから、私は死んで、国に帰るしかない。
同情してくれるかもしれない。お姫様からは感謝してもらえるかもしれない。そして、お母様を目覚めさせるのに尽力してくれるかもしれない。
どれも可能性でしかないけど、私はその可能性に縋るしかない。
私では、お母様を目覚めさせることはできなかった。より良い薬と環境が、お母様には必要だ。
「いいか、妃となるのはお前が考えているほど甘くはない。まず、俺には敵が多い。皇位を簒奪したのだから当然ではあるがな」
王から武力で王位を奪い、帝国にまで押し上げたのだから、彼の父親の代から敵は多かっただろう。そして彼もまた、武力を持って王位を奪った。
しかも天使の血をひく正当な後継者を宰相にして、自身は玉座に座っているのだから、不満に思う人も多いだろう。
「俺はそうやすやすとやられることはない。だが、お前は違う。丁度よい穴として狙う者もいるだろう。ましてやお前は、庭園などというくだらないもののために安全を手放した。守ってもらうこともできず、敵ばかりのここで暮らすことになる。それでもお前は妃になりたいと言うつもりか」
そんなこと、聞かれるまでもない。
「望むところです」
そんな素敵環境、手放すなんてもったいない。




