十話 皇帝
ルーファスの母は、自分の息子を王にしたいとは考えていなかった。そもそも、王の妻になろうとすら考えていなかった。
だが国をより良いものにしようとは考えていた。
「エイシュケルはとても綺麗な国なのよ。それなのに戦争の舞台にするつもりだなんて……」
彼女は元は踊り子で、各地を回っていた。だがアドフィルで開かれた宴でルーファスの父に見初められ、妻となった。
それは父が皇帝となる前――アドフィル王を殺すよりも前のことだった。
「攻めるだけじゃなくて、綺麗なものを取り込めるようになったらいいのにね」
幼いルーファスに語る彼女は、そう言いながらもどこか諦めているように見えた。
当時のルーファスは数いる王子の一人にすぎなかった。
母は中々子宝に恵まれず、ルーファスができたのも父が皇帝となってから――数いる妃の一人となってからだった。
周囲の国を攻め入る皇帝にとっては子供の一人でしかなく、皇帝のそばで働く者たちにとってもその程度でしかなかった。
だが代わりに、いくばくかの自由が与えられた。その自由の中で、母は何度かルーファスを他国に送った。
母の言う綺麗な国――エイシュケルにも足を踏み入れたこともある。だが滞在期間はどれも短く、すぐにアドフィルにと帰らされた。
そうしているうちにエイシュケルとの戦が本格化し、時を経るうちに激化していった。
どうにか一部の領地を奪うことには成功したが、受けた被害は甚大だった。
「忌々しい」
そう吐き捨てた皇帝は、ルーファスにとある任務を任せることにした。
命じられたのは、エイシュケルの城にに忍び込んでの暗殺。一度行ったことがあるのだから、多少は勝手がわかるだろうという理由で。
やるべきことは単純だが、難しい。
エイシュケルとの戦争によって受けた被害の大半は毒によるもので、ルーファスが命じられたのはその毒の製作者を殺すことだったからだ。
戦争の功労者ともなれば手厚く警護されていることだろう。
失敗するとしか思えない命令に、ルーファスはすぐに応じることができなかった。
だがそんな彼に皇帝は、逃亡すれば母の命はなく、失敗しても母の命はないと冷たく言い放った。
母は皇帝の最初の妻で、短くない時間を共に過ごしてきた相手だ。だがそれでも、皇帝にとっては妃の一人に過ぎなかったのだろう。
だが成功すれば、ルーファスの命はない。
母と自身、二つの命を秤にかけ――ルーファスは再度、エイシュケルの土を踏んだ。
だが結局、ルーファスは命じられたことをなせないままアドフィルに帰り――待っていたのは、踊るための足を切り落とされ、歌うための喉を焼かれ、吊るされた母の姿だった。
「かわいそうな王子様」
見上げるしかできなかったルーファスに囁いたのは、父の側仕えである女性。
「憎いでしょう。苦しいでしょう。辛いでしょう。ああ、だけど、安心して。その思いを抱き続けることはないもの。だってあなたもすぐに、死んでしまうでしょうから。かわいそうなかわいそうな王子様。だけどあなたが望むのなら、あなたの恨みを晴らすために手を貸してあげるわ」
それはまさしく、悪魔の囁きだった。
もしもあの誘いに応じていなければ、色々なことが違っていただろう。だがルーファスは悪魔の囁きに乗り、玉座を血で染めた。
王になろうなどと考えていたわけではない。
ただ母を殺した皇帝を殺し、母の死に関与した者も殺し、刃を向けてきた兄弟を殺し――気づけばルーファスは、自分に何がなせるのかわからないまま玉座に座っていた。
ルーファスの父である先代皇帝は攻め入ることには熱心だったが、その管理に興味はなかったようで、すべて人任せにしていた。
結果、それぞれの国で方針が異なり、管理された者の中には甘い汁を吸おうと勝手な動きをしている者までいる始末だった。
余計な者を処分し、恐れる者は城を去り――それぞれの国に課す法の整備など、さまざまな利権に関する書類がルーファスのもとに届けられた。
「陛下、吉報です。妃が決まりました」
玉座についてからというもの、日々書類に追われるようになったルーファスに、ふと思い出したかのようにヴィルヘルムが言った。
「お前のか?」
「ご冗談を。陛下のですよ」
ルーファスが顔を上げると、まるで世間話の一環であるかのような、何食わぬ顔がそこにあった。
眼鏡の奥で瞬く瞳は、天使の血をひいている証だ。
「……どういうことだ」
「陛下はすでに二十。そろそろ妃を持ち、子をなす努力をするべき年齢です。我々基準でいえば遅いぐらいですが……」
「俺は妃を持つ気はない」
ルーファスは王になりたいなどと思ったことはない。だから当然、妃を得たいと思ったこともない。
「それは難しいかと。現在、こちらに嫁ぐために移動している最中でしょうから」
「…………どこから持ってきた」
よぎるのは、噎せ返るような匂いとその中で笑っていた少女の姿。
嫌な予感に、自然とペンを持っていた手に力がこもった。
「エイシュケル王国から。領土を返還するように言われましたが、こちらもただで返すわけにはいきませんので」
「勝手なことをするな!」
ペンが折れるが、ヴィルヘルムの顔色は変わらない。
彼からしてみれば、それが最良の選択だったのだろう。ルーファスにとっては最悪だが。
「陛下が気にかけていた女人ですから、きっと気に入りますよ。それに妖精の血をひく姫君を迎えることができれば民も納得するでしょうし、得しかありません」
「ならばいっそ、お前が娶ればいいだろう」
ヴィルヘルムは玉座の正当な後継者だ。
天使の血を根絶やしにするのは気が引けたのか、民からの反発を恐れてかはわからないが、殺されることなく幽閉されていた。
帝国を継ぐ権利を持っているにも関わらず、皇帝などという面倒な職に就きたくないからと、ルーファスの補佐を務めている。
「お前が皇帝になると宣言すれば民も納得する。その上で、エイシュケルの姫君を娶ればいいだろう」
「それができないことは、陛下もご存じでしょう。我々異種族の血をひく者は、唯人との間でしか子をなせないのですから」
かつてこの地にいた様々な種族は同種、あるいは異種族との間に子をなして力を蓄え、神の座を目指したという逸話が残されている。
そしてそれゆえに神の怒りを買い、力のない唯人との間でしか子をなせなくなったとも言われている。
それがどこまで事実であるかはわからないが、特別な血を持つ者は、唯人との間でしか子を作れないのは確かだった。
天使や妖精の血は着実に薄まり、今ではただ体が頑丈だとか、腕力に優れているだとか、そういった特色しか残されていない。
「それに妖精の血をひく者は丈夫ですからね。並大抵のことではお亡くなりにならないでしょうし、陛下の希望にも沿ったよい人選だと我ながら自負しております」
「人選という意味でなら最悪だ。……まあいい、すぐに帰せば問題ない」
「それはできません。陛下と姫君の婚姻はすでに成立しておりますので」
さらりと告げられた事実に、ルーファスは頭が痛くなるのを感じた。
「俺は承諾した覚えはない」
「王族の婚姻は本人の同意がなくても成立します。僭越ながら、補佐である私が署名させていただきました」
ずきずきと痛むこめかみを押さえて、悪びれなく言うヴィルヘルムをルーファスは睨みつける。
「そんなものは無効だ」
「正式に受理されたものを無効にするのは難しいかと」
「どうして受理されているんだ! 俺は同意していないぞ!」
目を通してすらいない書類など、破り捨ててもいいくらいだ。
そもそも、本人の同意なく結婚できることが間違っている。
抱いた苛立ちを表すかのようにルーファスは唸るように言う。
「いつか絶対に、その悪法を正してやる」
「まずは配下にある国の整備からとなりますので、諦めてエイシュケル王国から来られる姫君を迎え入れてください」
書類は受理され、ヴィルヘルムに引く気はない。だが、だからといってルーファスが素直に受け入れるかというと話は別だ。
彼は妃を迎えるつもりはない。ましてやそれが、エイシュケル王国の姫君であれば、なおさら迎えたくはなかった。
「それにエイシュケル王国の姫君は薬姫と呼ばれているそうですから、帝国の助けとなるでしょう」
「薬……?」
毒の間違いではないのか、と思いはしたが口にすることはなかった。
毒も薬も表裏一体。薬姫と呼ばれていても、おかしくはないと思ってしまったからだ。
「……どこに行った」
これまでのことを思い返していたルーファスは、ふと、後ろからついてきた足音が消えていることに気がついた。
振り返れば、どこまでも続く廊下だけが目の前に広がっている。
輝く瞳も、灰色の髪も、どこにも見当たらない。
自らを妃だ妻だと言い、帰る気はないと言い張った彼女の姿はどこにもない。
「どうしてこの短時間でいなくなれるんだ……」
もしもあの時毒について言及していれば、ヴィルヘルムも彼女を送り返すことに協力してくれたかもしれない。
そうすれば、消えた彼女を探す羽目にはならなかったかもしれない。
「いや、無理か」
当てもなく廊下を歩きながら、ヴィルヘルムの頑固さを思い出してため息をつく。
毒姫だと彼女が名乗っても、ヴィルヘルムの顔色は変わらなかった。おそらく、まあいいかとでも思ったのだろう。
結婚する前であれば一考の余地はあったかもしれないが、書類に署名したのを撤回することになれば色々と都合が悪くなる。
ルーファスとヴィルヘルムはある意味付き合いが長い。変なところで頑固で、変なところで緩いことをルーファスは知っていた。
「……頭が痛くなる」
距離を詰めてこようとする彼女と、皇帝になりたくないからとルーファスに玉座を押しつけたヴィルヘルム。
またも痛みそうになる頭を手で押さえながらふと外を見て――そこにある光景に目を疑った。
「あいつは……何をしているんだ」
高い木の上にいる彼女の姿に、ルーファスの頭が本格的に痛くなった。




