−人間の章−
ある所に一人の赤ん坊と二人の母親がいました。母親が赤ん坊を取り合って喧嘩をするので、ある男が言いました。
『二人で赤ちゃんの腕を引っ張り合って、最後までその腕を握っていた方が本当のお母さんということにしてはどうですか?』
二人の母親は早速赤ん坊の引っ張り合いを始めます。
赤ん坊は引っ張られて痛くて痛くて泣き叫びます。
とうとう一人の母親が、泣き叫ぶ赤ん坊がかわいそうで仕方なくて手を放してしまいました。
最後まで手を放さずに、赤ん坊を手に入れた、と喜ぶ母親と、手を放して、赤ん坊をとられてしまった、と悲しむ母親に、男は言いました。
『手を放した方が本当の母親です。赤ん坊が泣いているのを見て手を放す優しいお母さんの方が本物に決まっているからです』
手を放したお母さんは赤ん坊を手に入れることができました。
テルルは本を閉じて呟く。
「でもね、泣き叫ぶ赤ん坊を大切さのあまりに手放してしまう愛と、その子を引き裂いてでも自分のものにしたい愛、どちらも究極なんじゃないかって思うの」
「わからないわ。私たちには、人間の愛なんて…」
ネオンが首を振った。
アゲートはすでに、赤い液体の満たされたメンテナンスベッドで眠っている。
『ネオン、テルル、そろそろおやすみ』
ラボのメンテナンスルームにアスターの声が響く。
ネオンとテルルはつまらなそうに返事をして、自分でメンテナンスベッドを起動させ、横になった。
アスターは溜め息を吐く。
「究極の愛、か…」
スピーカーの電源を落としてから呟き、デスクの中から写真を一枚取り出す。
アスターが持っている写真は、この写真くらいだ。
小さな紙の中に、アスターと一緒に笑っている人物。彼女にせがまれてたった一枚だけ撮った写真。
アスターは写真を撮ったり、それを飾ったりという情緒的なことに興味はない。研究資料としての写真は全てパソコンの中に入っている。
アスターはその小さな紙を、切なげな苦笑と共にデスクの引き出しにしまった。
アイリスはパソコンの画面を見て思わず机を叩いて立ち上がった。
「なんですって!?」
アイリスが見ているのは仕事用のメール画面。
『アスター・ヘルデライト博士より要請があり、彼が保有するヒューマノイドをもう三体、アイリス・セレンの生徒に加えることになりました。詳しくはアスター・ヘルデライト博士より直接お話がありますので、博士のラボへお越しください』
「ヘルデライト氏!?」
バンッと大きな音を発てて部屋に入ってきたアイリスに、ヘルデライトは微笑んでコーヒーカップを差し出す。
「やぁアイリス先生、ちょうどコーヒーを淹れたところだよ。どうぞ?」
「どうぞ?じゃありません!ヘルデライト氏!!また三体ものヒューマノイドを私の生徒に加えるなんて、どういうことですか!?」
「今、自分で言った通りだよ。俺のヒューマノイドをもう三体、あんたに預ける」
アスターはコーヒーを一口啜って、事も無げに言う。
「あなたは私のヒューマノイドに対する態度に不満を持ってるんじゃないの?」
「だれがそんなこと言った?俺は俺の子たちを預けるのはあんたしか考えられないと思ってるよ」
ニッコリ微笑まれて、アイリスは目眩を覚える。
「うれしくありません!これじゃ私の生徒は人間よりヒューマノイドの方が多いことになるわ!」
アイリスの言葉にアスターはカラリと笑った。
「それも珍しいよね」
「だいたい、ヒューマノイドたちには今すぐにでも軍に入ることのできる実力がすでにあるのに…」
「…戦闘に関しては、ね」
不意に真面目に、アスターが言った。
「ヘルデライト氏?」
「あんたに教えてほしいのは、人付き合いと愛国心」
首を傾げるアイリスに、アスターは少し微笑んで説明する。
「このままじゃあいつらは、自分が強すぎるために、か弱い人間たちを見下すだろう。国のためじゃなくて、自分たちの親である俺や自分たちのために戦うだろう。もちろんみんな、誰かのために戦ってるんだが、心に抑制のないヒューマノイドではそれが暴走する恐れがあるんだ。だからあんたに頼みたい」
アイリスは溜め息を吐く。
「よくもそんな危険な子たちを私に預けられますね」
そしてアスターを睨み、もう一度溜め息を吐いて言った。
「でもあなたが教えるよりはマシなことを教えますよ」
「…ということで、ウイスタリア・フェナスと南手朱夏、セリーズ・パフィオと漆原黒曜、ネオン・ガレナとベリル・ティール、テルル・マルメロとアゲート・ジェード、雪絹白夜とシアル・クリプトン、以上のペアで訓練に当たってもらいます。新しいペアになった八名、構いませんか?」
「なんでテルルがアゲートとなんですかぁ?」
テルルが手を挙げて不満を言う。
「なんだよ、テルル?仕方ねーだろ?黒曜たちがはやく他のやつらとも慣れるための組み合わせだよ」
アゲートが眉をしかめる。
「その通りね。我慢してちょうだい、テルル」
「アイリス…我慢ってちょっとアゲートに失礼よ…」
セリーズが困ったように笑って、そっと黒曜を見上げた。
「…よろしく、ね?」
「よろしくお願いします」
黒曜は微笑みもせずに言った。
彼なりに緊張していたための態度だが、セリーズは怯えたように顔を引きつらせた。
「ウィスタって呼んでちょうだい」
「ああ、よろしく」
ウイスタリアの差し出した手を朱夏が握った。
「よろしくビャクヤ」
「…よろしく」
シアルが微笑んで手を差し出したが白夜は小さく頷いただけだった。
「…」
アイリスは一抹の不安を覚えながら、ネオンとベリル以外の生徒にはとりあえず基礎訓練をするように命じた。
そしてネオンとベリルを連れて外に出る。
「新しいペアの組み方をどう思う?」
「テルルとアゲートの組み合わせが一番最悪ね。黒曜たちは緊張してるだけだから、大丈夫だと思う」
「っていうかあいつら、バジルの代わりに軍が拾って来たんだろ?巻き込まれて、また子どもを三人も引き取るなんてヘルデライトさんも人がいいね」
二人の意見にアイリスは溜め息を吐く。
「テルルとアゲートの組み合わせが良くないのはどうして?ネオン。あなたたちは仲良いでしょ?」
「あたしがいないからよ。あたしがいれば喧嘩してもすぐ修まるの。あたしが飽きちゃうから。でもあの二人だと、アゲートは子どもっぽいテルルをバカにするし、テルルはいじわるなアゲートに反発するし、って感じで…」
「なるほどね、仮に、あなたとテルルが代わったらどう?」
「あたしとアゲートの方は完璧ね。でもテルルと、ベリルでしょ…」
チラリと見られてベリルは不機嫌そうに首を傾げる。
「なんだよ」
「バジルとペアを組んでたときにベリルにはいじめられてるから、テルルはベリルにも反発するわよね」
ネオンが言うと、アイリスがベリルを見る。アイリスに睨まれて、ベリルはそっぽを向いた。
「だってあんなとろいのがバジルのパートナーだなんて、むかつくじゃん!?」
ネオンは溜め息を吐いた。
「テルルに合うのはバジルかシアルよね…」
アイリスは顎にてを当てて考える。
「ネオンとアゲート、テルルとシアル、白夜とベリルならどう?」ネオンは首を振る。
「ベリルが軍のことを何も知らない白夜の世話をできるかしら?今のところ問題なのは、あたしの見る限りではテルルたちだけよ。他はきっとうまくいくわ」
そしてネオンは微笑む。
「それに、テルルとアゲートなら、万が一何か致命的な失敗があっても損害は少ない。…言ってる意味がわかる?」
アイリスはハッとする。
致命的な失敗は死に至る負傷。
「わかったわ。今のまま、様子を見ましょう。悪いわね、ネオン…」
ネオンは苦笑いして首を振った。
ベリルは意味が分からずネオンとアイリスを見比べていた。
アイリスはネオンの言いたいことを理解して、少し悲しい顔をした。
「ねぇテルル、アゲート、おやついらないの?」
ネオンが二人に問い掛けるのを、黒曜たちは見ていた。
テルルとアゲートは喋らない。
「随分ストレスが溜まってるな、二人とも…」
アスターが言いながら現れる。
「黒曜たちはペアの子にも慣れてきたわ。でもこの二人のペアはよくないみたい」「どうしてアイリスはペアを変えないんだ?」
「あたしが言ったの。もし変えたら白夜とベリルがペアになるから、あたしじゃ白夜とベリルが相性いいかどうかはわからないって」
「それで?」
アスターは首を傾げる。
「ベリルと白夜が相性悪い方が、アゲートとテルルが相性悪いのより危険だって言ったのよ」
テルルとアゲートが致命的な失敗を犯すよりも、白夜とベリル、特にベリルが致命的な失敗を犯したときの方が損害は大きい。
テルルとアゲート、それに白夜は人形だからアスターがいれば修理ができるし、もし、修復が不可能でも、破棄されるだけだ。
しかしベリルはそうはいかない。彼はたった一つの命を持つ人間だから。
「だからアゲートとテルルも我慢してペア組んでるんだけど、特にテルルのストレスはひどいみたいよ」
アスターはネオンの頭を優しく叩く。
「おいで、テルル、アゲート、黒曜、朱夏、白夜…」
五人を呼び寄せ、それぞれの頭を撫でて言う。
「いいか?お前たちは強いから、自分よりも仲間の、人間たちの命を気遣わなきゃいけない」
六体のヒューマノイドが神妙な顔で頷く。アスターは優しく微笑んで目を閉じた。
「それでも、お前たちは代えのきく、大量生産のロボットじゃない。忘れるな。お前たちにも、死んで悲しむ人がいること…」
「わかってるわ、アスター。アスターは悲しんでくれるって…」
テルルが嬉しそうにアスターにすり寄って言い、黒曜たちは俯く。
アスターは苦笑し、彼らを順番に撫でた。
「お前たちだってもう、俺の大事な家族だよ」
白夜が少し、目を細めた。