−誰そ彼ぞの章−
君は僕が好きで、僕は君が大切で…。でもそれは、口に出すだけで僕らの関係を壊す、悪い呪文だったね。
だからあえて僕は、別れの時にこの呪文を口にした。
もう君が、僕を追わないように。もう僕が、君を苦しめないように。
「こんなとこにいたのね、バジル」
後ろから声をかけれて、バジルは振り向いた。
屋上の風は冷たく強く、彼女の髪を弄ぶ。
「リリー…」
言ってバジルは、視線を元に戻す。
リリー・セレンはセレン家の次女。アイリスの妹だ。髪はアイリスの栗色と違う黒。生意気そうな口許と小柄な体付き。アイリスとは似ていない。
唯一、その気の強そうな茶色の目だけ、アイリスの影を垣間見せるが、それも冷静で真面目なアイリスとは真逆の天真爛漫な性格にかき消される。
リリーは銃士科でのバジルのパートナーだ。
「あ、お姉ちゃんだ」
リリーはバジルの見つめる先に野外訓練中の騎士科を見留める。
「バジル、騎士科に未練あるの?」
リリーの率直すぎな質問にバジルは首を振る。
「ないよ」
「なら騎士科の誰かに未練があるの?」
バジルは苦笑した。
「…それも、ないよ。なんで?」
フェンスに向かって立ち尽くしてるみたいにボーッと野外訓練場を見ていたバジルがリリーを見る。逆に問われて、リリーはバジルの隣りに寄った。
「そんな顔して見てたから」
「そうかな?」
「そうよ」
「そうかもね」
「…」
「…」
しばらくの沈黙の後でリリーが拗ねたように言う。
「…言いたくないならいいわよ」
「…言い方がわからない」
バジルの言葉に溜め息を吐いて、リリーは体を反転させた。
そのままフェンスに背中を預けようとした彼女の、背中とフェンスの間に、バジルは手を差し入れた。
「きゃっ?何よ?」
リリーが短く悲鳴を上げ、顔を赤くしてバジルを見る。
バジルはきょとんとしてリリーの赤い顔を見つめ、やっとリリーが怒る理由に思い至って謝った。
「あぁ、ごめん。このフェンス、もたれたら服汚れるから…」
「え?」
見るとリリーの背中とフェンスに挟まれたバジルの袖が、フェンスに触れたところだけ僅かに黒くなっていた。
「あ…」
「ごめん、咄嗟に声が出なくて…」
言って肩を竦めるバジルを、リリーは見る。
「…バジル?」
「え?なに?」
「あなたモテるでしょ?」
「…え?」
「ネオン、右から行け。オレは逆から回る」
「わかった。油断しないでね」
ネオンとベリルは息を潜めて言い合う。
「ウィスタはベリルを狙ってください」
「どっちから来ると思う?」
「…たぶん二手に別れて来るでしょうから、ギリギリまで引きつけて、それから俺たちも別れましょう」
「了解」
ウイスタリアはじっと様子を伺う。
「上から見ると丸分かりだね」
唐突にリリーが言った。
「あ、ああ…」
バジルは話の流れについて行きかねてもたついた返事を返す。
「バジルもあの中にいたのね」
「…うん」
「そのときここから見てたら、今バジルが何考えてたかわかったのかな」
「…どうかな?」
バジルが小さく微笑んだとき、騎士科の演習は終わった。
「あの女の子強いね」
「誰?どっち?」
「小さい方」
「あぁ、ネオン?強いよ。騎士科で一番じゃないかな?新しく入った三人は、俺は知らないけど…」
バジルの懐かしそうな眼に、リリーは見入った。
「ネオン、シャワー行こ」
ウイスタリアやセリーズ、白夜とシャワー室へ向かうテルルに誘われたがネオンは断った。
「先に行ってて、私アイリスのとこ行くから」
「なぁに?ネオン、何したの?」
セリーズがおかしそうに笑った。
「何もしてないわよ。…ウィスタ、私、次の時間休むわ」
「どうしたの?」
ウイスタリアが心配そうにネオンを見た。ネオンは笑う。
「なんか調子悪いの」
「…ネオンが?」
白夜が怪訝そうに、ネオンを見た。
彼女が疑問に思うのは当然のことで、ネオンは少し笑っただけで何も言わなかった。
ネオンはアイリスを探す。
教官室にいなかった。
アイリスの行き先で思い当たる場所が他になくて、ネオンはアスターのラボへ帰ってみることにした。
予想通り、アイリスはそこでネオンの保護者と喧嘩腰に話をしていた。
「とにかく、俺は今から出かける。お前は出て行け」
「話は終わってませんよ!?ヘルデライト氏!だいたいお前って…」
「いやなら自分こそいい加減俺をファミリーネームで呼ぶのやめろよ」
「関係ないでしょう!?それより、勝手に出かけるなんて…!待ってください、ヘルデライト氏!!せめて行き先を教えないと、ここから出すわけにはいきません!」
ネオンは首を傾げる。
「…ただいま。アスター、どこか行くの?」
「ネオン…」アスター・ヘルデライトはネオンの顔を見て、しめたとばかりに命じる。
「ネオン!アイリス先生を押さえろ!」
ネオンは咄嗟に返事を返し、アイリスの手を掴んで引き寄せ、首に腕を回して押さえる。
「なっ!?何を…ヘル…ちょっと…ネオン・ガレナ!放しなさい!!」
「…え?」
ネオンは一瞬何を言われたかわからない。
「俺じゃなくて上官の命令を聞くように、教育しなおしといてくれ。頼んだよ、アイリス先生。いい子で留守番するんだぞ、ネオン」
アスターは微笑んで出て行った。
「あ、待ってアスター!あたし…」
ネオンが慌ててアイリスを放し、呼び止めるが、アスターはすでに扉の向こうを遠ざかっていた。
アイリスが咳き込むのを見て、アイリスは慌ててその背を擦る。
「ごめんなさい、アイリス…あたし…」
うろたえるネオンに、アイリスは溜め息を吐いて、教官として聞くべきことを訊いた。
「…どうしてこんなところにいるの!?」
「ごめんなさい…、体の、調子が悪くて…アイリスを探してたの…早退したくて」
アイリスは首を傾げる。
「どうしたの?テルルたちはなんともないんでしょう?故障かしら…何かしたの?」
ネオンは首を振った。
「ううん、でもテルルたちと私は違うから…」
ネオンとテルルたちは構造が同じだというだけで個性もきちんとある。人間たちが構造が同じでも一人一人違うように、ネオンたちがちがうのも尤もだと、アイリスは頷く。
「それはそうね、ごめんなさい」
ネオンは首を振った。
「違うの。そうじゃなくて、黒曜たちとテルルやアゲートが違うようにあたしとテルルたちもちがうのよ」
「…どういうこと?」
ネオンは微笑んで、自分でメンテナンスベッドを起動させる。赤い液体がベッドという名の水槽を満たす間、ネオンはアイリスに言った。
「アスターが出かけるなら仕方ないわ。これでできるだけメンテナンスしてみて治らなかったらあたしはしばらく休むかも知れないわ」
アイリスは頷く。
「仕方ないわね、大丈夫なの?」
「アスターではあたしを完璧に維持することができないの」
ネオンの不可解な言葉の端々に寂しさを感じてアイリスは戸惑う。
「…どういうこと?」
「アイリスはアスターの研究者になる前のことを知ってる?」
「え…」
「アスターが騎士だった頃のことよ」
ネオンは赤い液体の満ちた円柱状の水槽を見上げる。
「…騎士?」
「ヘルデライト家は騎士の家系だもの、当然でしょ?でもアスターのあの足ね、義足なのよ。あたしたちの足と同じ構造のね」
アイリスは目を見開いた。
「あたしは知らないけど知ってるの。それはあたしがある女性の記憶を全てもらったから。あたしはね、アイリス、アスターの子どもじゃないの」
ネオンはメンテナンスベッドに入りながら言う。
「メンテナンスは暇なの。アイリス、話相手になってよ」
アイリスは返事をせず、けれど動かなかったからネオンが椅子を勧めると黙ったまま腰掛けた。
「あたしは寧音という一人の女性技術士に、その人の分身として造られたの」
寧音・S・ガレナは軍の技術士であり、アスターの義足の整備士でもあった。
「まったく!あんたたち、騎士はあたしたちの気持ちを全然わかってない!」
義足の整備をしながら寧音は言う。
「技術士や医務員たちが自分たちの無力に憤りながら泣く泣くあんたたちを戦場に送り出してるってのに、そうやって自分たちだけ戦ったみたいな顔して、こっちの気も知らずにさ、あたしたちを守るために身も心もボロボロになって帰ってくるんだ」
寧音のその小言は聞き慣れたもので、アスターは聞くともなしにそれを聞いていた。
アスターの、怪我をした腕に包帯を巻いていた看護師が小さく苦笑した。
「やれ何人殺したの、やれ誰某が死んだの、どこでやられたの…こちとら傷付く姿が見たくてわざわざ前線までくっついて来てるわけじゃないんだよ?」
寧音はアスターを睨む。
「聞いてるの!?」
「聞いてるよ、ごめん…」
アスターはいつもそう言って、戦場へ出る。
「わかったらたまには元気に帰ってくるんだよ!」
そう怒られる度に、アスターは理不尽さと共に、胸が暖かくなる安心を感じていた。
その日も、いつも通りだった。
「寧音…」
彼らの帰るべき陣営が、敵の砲撃に墜ちるまでは。
「ね…おん…?」
何度も、アスターはその名を呼んだ。
「あぁ、確か今日は命日なんだったわ。寧音の…。そしてネオン・ガレナが自分だけの記憶を持った初めての日」
ネオンが目も口も閉じたまま、音声だけで語る。
「…アスターは義足の不調を訴えるようになり、それは誰にメンテナンスさせても完璧にはならなかった。結局彼は、前線から退いたの」
アイリスは黙った。
「あたしはその寧音・S・ガレナの作品。陣営が墜ちるその前日までの彼女の記憶全てを持つ分身…」
ネオンの声は消えそうに響いた。
それは彼女がその赤い液体の中で、深く眠ろうとしている合図なのだが、アイリスはネオンが深く沈んで消えようとしているような錯覚を覚えた。
「アイリスは…似てるわ。あたしに。…彼女、に…」
プツリと音のしそうな唐突さでネオンの声は消えた。
彼女にとっては母胎とも言える円柱状のベッドの中で、その意識はブラックアウトしたのだ。
メンテナンスベッドの端のパネルには『120min』と表示されていた。
「…二時間、か」
アイリスは溜め息を吐いた。
アスターの行き先を訊きたかったのだが、ついネオンの話に聞き入っている間に彼女は二時間は何か非常事態が発生しない限り目覚めない眠りについた。
「お姉ちゃん」
教官室前で呼び止められて、アイリスは立ち止まる。
「リリー、学校では先生って呼んでちょうだい」
溜め息混じりに振り向くと、妹のリリー・セレンが立っていた。
「はぁい、アイリス先生」
「どうしたの?」
「見えたから呼んだだけ」
アイリスはまた盛大に溜め息を吐いた。
この妹はいつまで立ってもベタベタと甘えてくる。
それがうれしい時もあるが心配な時もある。
「バジルは元気?」
「うん、私のパートナーよ」
「そうなの?」
アイリスはしばらく話に付き合うことにした。
自分とは、父親譲りの目以外の全てが違う妹に、結局アイリスは甘いのだった。
「ネオンが?」
「ええ、調子が悪いんですって」
アゲートに答えるウイスタリアは心配そうに眉を寄せている。白夜が言葉を継ぐ。
「しかもヘルデライト博士が留守らしい。今日は休むから、アゲートとテルルを頼む、と言われた」
「だから今日は喧嘩しないでね」
ウイスタリアに言われて、アゲートはテルルをチラリと見る。
「…わかった」
ネオンが目覚めるとアゲートとテルルがいた。
「あれ?授業は?」
「終わったわよ。ネオン、ずっと寝てたの?」
「メンテナンスベッド、二時間にセットしといたんだけど治らなくて…」
アゲートがパネルを操作してネオンのメンテナンスベッドの記録を見る。
「やっぱ俺じゃわかんねー。アスターが帰ってくるの待つしかないか」
ネオンは少し笑った。
「当たり前でしょ?弄らないでよ」
アゲートははいはいと二回返事してパネルから離れた。
「アイリス…」
門の前で、アスターは呟いた。
「何も知らない私が、あなたの監視役でよかったんでしょうか…」
アスターはバレちまったか、と呟いて後頭部を掻いた。
「…何も知らないから、よかったんだ。話さなくて済むだろ?」
「でも知ってしまいました」
「ネオン、だな?」
アイリスは頷く。
「あいつが言ったんなら、いいさ」
俯いたアイリスに、泣くかな、と警戒しながらアスターは微笑む。
「これからもよろしく」
「…はい」
「未練、か…」
背の高い門に背中を預けて、アスターとアイリスには見えない位置でバジルは、リリーの言葉を声に出してみた。
逃げたつもりはない。なのにこうも引きずるのは、まだ何も、言ってないからだ。
僕が彼女を好きなこと、君は気付いてたよね。だけど変わらず僕を見ててくれる君に僕は安心していた。
ヘルデライトの過去にいる、アイリスに似た女性については、前から考えてましたが、まさか彼女がネオンの制作者だとは思いませんでした。
リリーも、ホントは騎士科に入れて、バジルもそのまま騎士科にいて、人数合わせのつもりで作ったキャラですが、このままだと自分のキャラが薄くなることを危惧したバジルが銃士科へ行ってしまったのでリリーも銃士科になりました。




