90.未来
二人の魔王は老神官の頼みを断らなかった。
複雑に交錯する蜘蛛の巣のような通路の中、青緑色の光が点々と浮かび上がり、ボーウェンを空中庭園へ――彼の「可愛い」ドロシーのもとへと導いていく。
一日中忙しく動き回り、死亡峡谷の日々の仕事を片づけたあと、エリカとヴィンセントも地下深くにある、静かで美しい空間へ戻ってきた。
石造りの家の外。
ヴィンセントは、捕食妖樹から落ちた枝で作った釣り竿を手に、ひっそりとした湖のほとりに突き出た大岩へ腰を下ろし、波一つない水面へ糸を垂らしていた。
血族の鍛錬は、ほかの種族とは異なる。
最も重要なのは感情を制御し、血を求める欲望に自分を呑み込ませないこと。それによって最大限に理性を保ち、体内の血の力を引き出すことができる。
そのため、天賦の扱いにある程度習熟したあとは、別の方法で自らの意志を鍛えるようになっていた。
一人で湖と向かい合う。
やがて背後の石造りの家から扉が開く音が聞こえ、大衣を身につけていない、背が高くやや細身に見えるエリカがゆっくりと歩いてきた。
二人は言葉を交わさないまま、静かな時間を共にしていた。
辺りは静まり返り、時折、奇妙な虫の鳴き声が聞こえる。岩壁を伝って流れ落ちる水が、絶えずさらさらと音を立てていた。
しばらくして、天賦「探知」を使わず、五感だけに頼っていたヴィンセントが手元の釣り竿の震えを感じ取った。
軽く引き上げる。
細長く、平たい異形の長魚が水面を跳ね上がった。
ヴィンセントが口に掛かった針を外した瞬間、異形の長魚は尾鰭を力いっぱい振り、彼の手を弾くようにして再び湖へ潜り込んだ。たちまち何の気配もなくなる。
最近できた夫の趣味と、その失敗を静かに眺めていたエリカは小さく笑った。
「懐かしいか? 人間の国で暮らしていた頃が」
「今の暮らしも悪くない」
再び餌を付け、ヴィンセントは慣れた手つきで二投目を放った。
「私は懐かしい。少なくとも、煙草は吸えた」
普段は冷徹で迷いのないエリカから、意外な言葉が出た。
しばらく沈黙したあと、ヴィンセントがようやく口を開く。
「……地上に、自分の国を築きたいのか?」
最近のエリカの一連の大きな動き。そしてボーウェンを従えたあとの様々な指示。未来に備えているというより、何かのために着々と準備を整えているようにも見える。
ヴィンセントにも、その本当の意図までは分からなかった。
「お前に出会う前は、すべてを自分の手に収めたかった。お前に出会ってからは、穏やかに暮らすのも悪くないと思うようになった。そして全部を手放そうとした時になって、今度はすべてを掌握できるだけの力を手に入れた。これが、いわゆる運命というものなのか?」
疑問の形を取ってはいたが、その口調には確信が込められていた。
「ボーウェンは言っていた。仕組まれたものじゃない。お前自身の選択だ」
ヴィンセントは振り返ることもなく、釣りを続ける。
「だから、よく考えた」
夫の隣まで歩き、同じように湖畔の岩へ腰を下ろす。
エリカは淡々と言った。
「国を築くことにも、王になって覇を競うことにも興味はない。『運命』が私に力を与え、この迷宮城すべてを手に入れさせたというなら、私の選択は……穏やかに生きることだ」
その答えを聞いても、ヴィンセントは特に驚かなかった。妻は昔から、誰かに支配されることを受け入れる人間ではない。
たとえ神霊であろうと、運命であろうと同じだ。
それでも少し考えたあと、彼は振り返った。
「それで十分なのか?」
「今の暮らしも悪くない」
エリカは、彼とまったく同じ答えを返した。
珍しく、ヴィンセントも笑った。
傍らに置いてあった予備の釣り竿を取り、妻へ差し出す。
エリカも慣れた手つきで餌を付け、竿を振る。釣り糸が空中に美しい弧を描いた。
地下の小さな湖。
静かで、穏やかな時間。
二人は何も言わず、寄り添って座っていた。
時は音もなく流れ、夜光草の美しい色彩も、それに合わせるように移ろいながら輝いている。
ここは、二人だけの秘密の場所だった。
異形の長魚が再び食いつき、ヴィンセントがようやく一匹目を釣り上げたところで、彼は口を開いた。
「魔王の庭、三国の連合行動、それに決して退かない冒険者たち。どうするつもりだ?」
エリカも竿を上げてみる。そこで初めて、餌がとっくになくなっていることに気づいた。
どうやら彼女は釣りというものがあまり得意ではないらしい。
新しい餌を付け、もう一度糸を投げてから答える。
「危機はいつだってある。気にしすぎても仕方がない。魔王になった今も、従男爵夫人だった頃も、私はあらゆる危機に備えてきた」
「魔王の庭は、これから長い間、私たちの盟友になる。海外で起きている異変と大変革の関係を調べる任務も、遂行しなければならない。三国の連合行動を片づけたら、一度、霧影の淵へ行くつもりだ。深海妖姫でさえ危険を感じる人型異種生命体には、興味がある」
妻に天賦「不死」があることは分かっている。
だが海の魔王を巡る特殊な事情もあり、自分が代わりに行くことはできない。
ヴィンセントは考え込むような表情を見せたものの、最後には小さく頷いた。
「三国の連合行動は問題にならない。互いに持っている情報に大きな差がある以上、撃退するには多少の代償を払うかもしれないが、それほど難しくはない」
「外から来る者たちに十分な犠牲を払わせれば、最後には死亡峡谷も生体迷宮のような存在だと認める。以前、蒼藍帝国が退いた時と同じだ」
「冒険者については、むしろ歓迎する。これから少しずつ、この死亡峡谷の養分になってもらえばいい……」
そこまで言ったところで、エリカは一度言葉を切った。
「ただ、死ぬだけの場所には、欲深い生命は集まらない。これから静謐の森の村に、光の高原にしかない自然資源を移植させる必要がある。それに地潜り虫を使って、死亡峡谷各地にある特有の鉱物資源も移しておく」
「迷宮城へ踏み込む勇気が、実際の報酬に変わるようになって初めて、冒険者は絶えることなくやって来る」
金髪の魔王は何でもないことのように、未来の数千、数万――あるいは数えきれないほどの命に影響する決定を語っていた。
飾り気のない言葉。
そして、あまりにも血なまぐさい未来。
「俺は何をすればいい」
それが妻の最後の一線であり、すでに下した決断なのだと理解し、ヴィンセントはそれ以上を求めなかった。ただ、自分が何を担えばいいのかを尋ねる。
「本当なら、まずこの『天地を貫く峡谷』を詳しく探索したかった。ドロシーが山壁の頂上でいくつか面白いものを見つけている。一つ目の巨人族も、どうやら山頂から下りてきたらしい」
「それに、この隠された空間を探していた時、地下深くも単純ではないことが分かった。海へ繋がる水路だけでなく、さらに下には伝説にある地底世界へ通じている可能性まである……」
そうした発見について語るエリカの冷ややかな顔には、珍しく未知を探ることへの興味が浮かんでいた。
幼い頃、光神の光さえ届かない暗い牢獄から逃げ出したあと、彼女が望んだのは外に広がる世界を見ることだった。
だからこそ血染めの薔薇を離れ、冒険者になった。
身体に残った古傷さえなければ、ヴィンセントとあれほど早く蒼藍帝国へ移り、落ち着いた生活を始めることもなかっただろう。
そして今。
運命に従うつもりもなければ、時代の大変革を自ら引き起こすつもりもない。健康を取り戻した彼女には、ようやく再び未知を探索するだけの力がある。
ただ――
「……今は、やることが多すぎる」
どうしても魚が釣れない。
まるで自分が気に入った人材を、いつまで経っても勧誘できないのと同じだ。
エリカは釣り竿を片づけることにした。
「三国の連合行動は私が処理する。今、お前には死亡峡谷の使者として神々の国へ行ってもらいたい」
「オスヴィドが話した過去の歴史が事実なのか、それとも嘘なのか、自分たちの目で確かめる。それから、私たち自身の連絡経路を作る。旅のことはボーウェンに手伝わせる」
そこまで言って、エリカは少し間を置いた。
「その時は、ディアドラも連れていけ」
「彼女が同意するのか?」
光騎士は、簡単に屈するような相手ではない。
とりわけ、あの銀髪の女は意志が強かった。
「抵抗できない状況で、ディアドラもここに残って死ぬほど愚かではない。それに死亡峡谷について多くの情報を知った今、生きて帰れると言われて拒むこともないだろう」
もちろん、彼女が知ったものはすべて、エリカが意図的に触れさせた情報にすぎない。
それもまた、神々の国へ示すささやかな善意だった。
「ただし、神々の国へ戻って歴史の真相を知ったあと、それでもディアドラが条件を受け入れないなら、もう連れ戻さなくていい」
「闇神への信仰に目覚めた光騎士なら、死亡峡谷にとってそれほど大きな問題にはならない。もう完全な公正無私ではなく、誰にも非難できない存在でもない。世論と道理の両面から牽制しやすくなる」
「神々の国と双子教会が魔王の庭との関係を維持したいなら、向こうで自然に処理する」
「それらを一つずつ片づけ、魔王の庭から任された海外調査を終えてから、ようやく山頂と地底を探索する番だ」
エリカの口元がわずかに上がった。
「こんな忙しい暮らしも、悪くない」
静かな湖畔で、ヴィンセントは何も言わなかった。
ただ、穏やかに表情を緩めて頷く。
もう病に苦しむこともない。それでいて戦火を起こし、大変革を招くこともなく、こうしてエリカと暮らしていける。
それなら十分だった。
蒼藍帝国辺境、希望町。
一、二年前までは人影すらなかった荒野も、今では巨大な集落へ発展しつつあった。
特産資源である黒泥が発見されて以来、絶え間なく行き交う交易路によって急速な発展を遂げ、人々で賑わう町となっている。
かつての簡素な木壁は、今では内側の警戒線となった。
その外側では二重、さらには三重となる新たな石壁の建設が次々と進められている。厚く、高く、頑丈で、エネルギー攻撃にも耐えられる城壁だ。
大規模な工事隊と専門の魔法使いたちが急ピッチで作業を続け、辺境の町には徐々に大都市へ向かう活気が生まれていた。
噂を聞きつけて集まった冒険者、商人、その他の勢力に属する者たちも多い。
町へ入る許可を得られない者たちは、希望町の外で長い列を作り、その周辺には彼らが勝手に作った無許可の小集落が一つ、また一つと生まれていた。まるで星を散らしたように、近くの平原へ広がっている。
そうした無許可の集落を、蒼藍帝国は事実上黙認していた。希望町の中では扱いにくいものでも、外へ出せば話は違う。
それに、いずれ本格的に都市規模へ拡張する時になれば、すでに「勝手に」発展している集落を利用することで、かなりの時間を省くことができる。
帝国側にとっては、いくつもの利点があった。
迷宮城周辺への接近は現在一時的に禁止されているとはいえ、この地域自体が蒼藍帝国にとって重要な開拓地であることに変わりはない。周辺には魔獣や邪悪体が多く、天然資源にも恵まれている。
闇市や裏取引も次第に盛んになり、無許可の集落はそうした問題を外へ逃がす格好の受け皿にもなっていた。
帝国監察使ディアは、兵団に護衛された馬車の中から、すっかり様変わりした辺境の景色を眺めていた。
希望町の変化はあまりにも速い。
この地が作られ始めた頃から関わってきた彼でさえ、感嘆せずにはいられなかった。
「ここへ来るのも二度目か……。女皇陛下に、今度こそ良い報告を持ち帰らなければ……」
窓辺に寄り、涼しい風を感じながら胸中で呟く。
馬車は建設中の希望町へ直接向かわず、平原を迂回し、反対側にある丘陵地帯へ進んでいった。緩やかに盛り上がった丘の周辺には、無許可の集落は一つもない。
あるのは、いくつも並ぶ巨大な軍用天幕だけだった。
周囲では完全武装した重装剣士が巡回し、勇壮な騎兵が希望町と軍営の間を絶えず行き来している。
一万を超える兵士が連なる壮大な軍容。
それを目にするだけで、多くの商人や住民は安心感を覚えていた。
ここに駐留しているのは、蒼藍帝国の四大騎士団の一つ――殲滅騎士団。
現在は希望町の防衛と現地の治安維持を一時的に担当し、同時に壊死の大地にある迷宮城の魔物が再び暴走する事態にも備えている。
一行が軍営の入口へ着く。
身分確認を終えると、監察使を護衛してきた兵団はその場に残され、馬車だけが中にある主営へと向かった。
目的地へ着き、ディアが馬車を降りた途端だった。
聞き覚えのない豪快な笑い声が飛んできたかと思うと、いきなり熱烈な抱擁で強く抱き締められた。
「はははは! あなたがディア監察使殿か! 俺は殲滅騎士団団長、カイエルだ!」
「これから鋼鉄の玉座と循律の塔との協力について、あなたが担当してくれるそうだな。いやあ、本当に助かる! 俺は外交ってやつがどうにも苦手でな。それに迷宮城の陰気な洞窟は本当に面倒だ。まったく、悪魔どももどうして地上に住んでくれないのか……」
初対面とは思えないほど馴れ馴れしく、熱烈な態度。
ディアの陰気で冷ややかな顔つきは変わらなかった。
ただ胸中では、思わずこう考えていた。
「私も、お前のような面倒な男を相手にするのは得意ではない」




