78.衝突
エリカがまだ反応を見せないうちに、傍らにいた海の魔王が先に激怒した。
顔の両脇にある鰭状の耳が激しく震え、それまで物静かだった表情が一瞬にして凶悪なものへと変わる。口の両端が大きく裂け、幾本もの鋭い牙が露わになった。
クイナは三本の腕を巨竜へ突きつけ、容赦なく怒鳴りつける。
「老竜! エリちゃんは私が招いた友達だよ! 海の中で私と戦うつもり!?」
怒声が響くと同時に、泡のような障壁で形作られた空間が震え始めた。外側に広がる果てしない海から何らかの強大な圧力を受けているらしく、障壁は激しく揺れながら耐えている。
巨竜も負けじと四肢で立ち上がった。赤い巨大な翼が天を覆うように広がり、その場にいる魔王たちの視界を巨大な黒い影が覆う。
荒れ地のような空間の温度が急激に上昇し、周囲には爆ぜるような赤い炎が立ち上った。
「ここにいるのは所詮、意識の投影にすぎん。消えてもどうということはない。一眠りすれば済む」
「それよりクイナ。貴様は本当に、その二人の人間のために俺と敵対するつもりか!」
クイナは答えなかった。
ただ、人に似ていた顔はさらに妖魔めいて歪み、大きく開いた口は耳元まで裂けていく。全身が徐々に鱗で覆われ、額の中央には三つ目となる縦長の眼が開いた。
巨大な尾を高々と立て、三対の腕すべてで拳を握る。
水色のエネルギーが全身を包み、激しく震動しながら、障壁の外に広がる海そのものまで揺り動かしていく。
相対する二つの力。
水と炎のエネルギーが衝突し、何度も恐ろしい震動を引き起こす。
ついには周囲の泡状の障壁が耐えきれず、亀裂の走る音が響き始め、そこから海水が潮のように流れ込んできた。
二人の大魔王が今にも激突しようとしているにもかかわらず、神霊と思しき夢と、足元の大地そのものであるコアビーストはまるで反応を示さない。
オスヴィドだけが肘を支えて顎に手を添え、薄く笑っていた。
やがて背中の黒翼を一振りし、エリカの傍らまで浮かんでくると、小声で尋ねた。
「知性種族と悪魔種族をどう思う?」
エリカはちょうど、自分で目の前の面倒を片づけようとしていた。
だが、この堕天使の王が意味もなくこんなことをするようには見えない。わざわざこの状況でそんな敏感な質問をしてくる以上、何か意図があるはずだった。
少し考え、率直に答える。
「どちらも生命だ。特に思うところはない」
オスヴィドはわずかに眉を上げた。
そして突然、元は人間だったこの二人の魔王を、自分は案外気に入っているのかもしれないと思った。
そのまま声を張り上げる。
「老竜! 聞いただろう。新しい仲間に一度くらい機会を与えてもいいんじゃないか? この先もずっと眠り続けるつもりか? 自分はそれでよくても、竜島にいる竜たちのことくらい考えてやれ!」
「眠り」と「竜島」という言葉を耳にすると、巨竜の怒気は目に見えて弱まった。
まだ怒りを露わにしているクイナを見つめ、しばらく考えた後、天を覆っていた赤い翼をゆっくりと畳む。高熱と赤い炎も次第に消えていった。
やがて溶岩化しかけている地面へ再び身を伏せたものの、その口調には依然として露骨な侮蔑と粗探しするような響きがあった。
「貴様らはもはや人間ではない。世界の心を持つということは、理屈の上では永遠に生きる機会を得たことを意味する」
「だが、知性種族の短い生は常に無知と貪欲に満ち、その心と知性を曇らせる。果てにはテレサ世界を次なる大変革へと導き、時代末期の混乱へ陥れることすらある。貴様は、それが起こらないとどう保証する?」
巨竜の話には、ある程度博識なエリカでさえほとんど理解できない言葉や意味がいくつも含まれていた。
だが、一つだけ確かなことがある。
金髪の女は、いついかなる時も余裕と自信を失わなかった。
エリカは巨竜へ歩み寄り、小山にも似た巨大な竜の頭の前に立つ。両手を背後で組み、翻る軍用コートを軽く押さえながら、容赦なく冷笑した。
「どうして私が、あなたに何かを保証しなければならない?」
「魔王の庭は、テレサ世界の平和を守るための組織なの?」
「駄目!」
挑発的な言葉をエリカが言い終えた瞬間、クイナが悲鳴のような声を上げた。
何の前触れもなかった。
巨竜の大口がすでに開き、エリカの身体よりもはるかに巨大な、超高温の灼熱の火球が吐き出される。
次の瞬間、彼女の姿は炎に呑み込まれた。
恐るべきエネルギーを内包した火球は猛烈な勢いで飛び続け、泡状の空間の境界に衝突して、轟音とともに爆発した。
その結果に、その場の魔王たちは揃って呆気に取られた。
驚いたのは、巨竜が突然攻撃したことではない。
攻撃を受けたにもかかわらず、何事もなかったかのようにその場に立っている金髪の女だった。
「悪くない。少し熱かった」
エリカは再び形を取り戻した自分の服を見下ろす。姿勢すら変えず、平然と続けた。
「巨大な爬虫類。もう少し力を入れた方がいいんじゃない?」
ここに存在するのは意識の投影にすぎない。とはいえ、世界の心は生命そのものをもとに、現実に限りなく近い能力を再現できる。
巨竜にとっては適当に放った一撃だったとしても、本来なら相手がこれほど簡単に受けきれるものではなかった。
意外にも、巨竜は挑発には乗らなかった。むしろ表情を引き締め、目の前で無傷のまま立っている小さな人間をじっと見つめる。しばらく沈黙した後、確信を込めて言った。
「貴様は血族ではない」
「ヴィンセントは血族。でも、私が自分も血族だと言ったことは一度もない」
答えながら、エリカは軽く身体を動かした。腰の軍刀に手を添える。
意識を投影するこの場所には、もう一つ利点がある。自分の天賦の力に耐えられる武器まで、意識によって形作れることだった。
天賦「剛力」を発揮する。
足元を強く踏みつけた瞬間、軍用コートをまとった金髪の姿が消えた。広大な空間に、甲高い金属音が響く。
鋭い刃が鞘から抜き放たれた。
次の瞬間、巨竜の口に並ぶ、人間ほどもある巨大な牙が数本まとめて斬り落とされた。痛みを感じた巨竜が咆哮を上げ、怒りに任せて再び起き上がろうとする。
だがその時、いつの間にか骨と血で形作られた翼を持つ影が、その巨大な瞳の正面に浮かんでいた。
全身を包む血のように赤いエネルギーが猛烈な勢いで巡っている。いつでも雷霆の一撃を叩き込める状態だった。
「はは、老竜。どうやら少し痛い目を見たみたいだな」
状況が混乱しようとも、オスヴィドの性格の悪さは変わらない。面白そうに横から口を挟む。
クイナはといえば、小さな女の子のように歓声を上げていた。
エリカがすぐに振り返り、手にした軍刀を彼女へ向けなければ、今頃は親友を抱き上げ、思う存分可愛がりながら褒めちぎっていたに違いない。
立て続けに傷を負い、さらに目の前で威嚇までされたというのに、巨竜は意外にもそれ以上暴れようとはしなかった。
ゆっくりと地面へ伏せ直し、黄橙色の縦長の瞳で、目の前にいる二つの小さな影を静かに見つめる。先ほどまでの怒りに我を忘れた様子は完全に消えていた。
代わって、声音まで淡々としたものへ変わる。
「人間。貴様らは本当に、竜族と敵対できると思っているのか?」
巨竜の態度があまりにも急に変わったことに、エリカは何かを察した。ヴィンセントに戻るよう合図を送り、自分も軍刀を鞘へ戻して答える。
「覚えておいて。私たちはもう人間じゃない」
「誰と敵対することになろうと構わない。侵略し、私たちを冒す者には、相応の報いを受ける覚悟をしてもらう」
巨竜は何か滑稽なものでも聞いたかのように、低く嘲るような笑い声を漏らした。
「魔王の庭を侮る無礼者が、最低限の共通信念すら約束できぬまま会合に加わり、それでいて相手には罰を受ける覚悟をしろと大言を吐く」
「これが知性種族の『知性』か」
それを聞いた金髪の女は、赤い瞳で巨竜を真正面から見据えた。冷え切った気配が全身から立ち上り、蒼灰色のエネルギーが音もなく大地へ広がっていく。
「竜族の思い上がりは、どうやら永遠に治らないみたいね」
「数十年前の『血染めの薔薇事件』でも、まだあなたたちを黙らせるには足りなかった?」
一瞬言葉を切り、エリカは思い出したように続ける。
「ああ、ごめん。忘れてた」
「あの時、竜と飛鳴の地にいた竜族は全滅したんだった。自分の目で見ていないなら、覚えられなくても仕方ないか」
巨竜の黄橙色の縦長の瞳が大きく見開かれた。全身の赤い鱗が逆立ち、炎の光を放つ。
だが今度は、挑発されるや否や飛びかかってきた先ほどとは違った。
伏せたまま、嘲るように言い返す。
「たかが数頭の若い竜だ。その程度を殺すために、知性種族は千を超える命を必死に差し出した。それで勝利したつもりとは、何とも愚かだ」
「少なくとも、竜族も殺せることは証明された」
エリカは巨大な竜を見上げる。
「あなたも、殺せないわけじゃない」
その言葉に、その場の魔王たちが驚愕した。
だがエリカは、さらに続けた。
「そして私は――死なない」
それまで楽しそうに見物していたオスヴィドの表情が一変した。即座に黒翼を羽ばたかせ、エリカのもとへ飛ぼうとする。
だが別の骨と血の翼がすぐさま行く手を塞ぎ、オスヴィドはその場で浮かんだまま止まるしかなかった。
その顔には珍しく、真剣な表情が浮かんでいる。
「エリカ。今、何と言った?」
巨竜までもが静まり返った。
どうやら今、長い長い間耳にすることのなかった、禁忌ともいえる言葉を聞いたらしい。
「私の種族天賦は『不死』」
オスヴィドは眉間に深い皺を寄せた。次いで何かを必死に思い出すような顔になり、最後には諦めたように、どうでもよさそうな笑みを浮かべる。
「なるほど、不死族か。だから竜炎の一撃を正面から受けても平気だったわけだ。老竜の脅しなんて、最初から気にもしていなかったんだな」
目の前に立ち塞がるヴィンセントを見る。それから、変わらず両手を背後で組んで立っているエリカへ視線を移した。
オスヴィドは思わず笑った。
「本当に面白い」
「一人は千年以上前に滅びた悪魔種族。もう一人は、本来なら淘汰されていたはずの存在が再び現れた」
「知性時代の大変革が、いよいよ訪れようとしている……」
そこまで言ったところで、オスヴィドは何かを思いついた。背中の六翼が大きく広がる。そして突然、堪えきれないように声を上げて笑い始めた。
笑い声は次第に大きくなり、奔放になり、ついには狂気さえ感じさせるほどになる。周囲のエネルギーが暴風のように激しく渦巻いた。
泡状の空間全体がその笑い声に共鳴するかのように、激しく震え始める。
その時。
鋭い軍刀の切っ先が、オスヴィドの喉元へ突きつけられた。さらに背後には血色の影が瞬時に現れ、冷たく彼を見据えている。
エリカの声も冷え切っていた。
「堕天使の王。さっきから、どうにも私は侮辱されたような気がしてならない」
「よく考えてみれば、この老竜と私たちが衝突したのも、あなたが裏で仕向けた結果じゃない?」
蒼灰色のエネルギーは、生まれつきあらゆる生命に拒絶と嫌悪を感じさせる。それは悪魔種族でさえ例外ではない。
喉元へ冷たい刃を突きつけられたことで、オスヴィドは遥か昔に見た不死族の存在を思い出した。
記憶が狂気を押し沈め、笑い声はようやく少しずつ収まっていった。
冷静さを取り戻したオスヴィドは、喉元の刃など存在しないかのように振る舞う。
そして伏せている盟友へ顔を向け、呆れたように言った。
「老竜。だからお前は芝居が下手だって言っただろ。俺が交渉すればいいって話だったのに、どうしても新しい仲間を脅してみたいなんて言うから」
「帰ったら、またサマンサに揉め事を起こしたって小言を言われるぞ」
非難された巨竜は聞こえなかったふりをして、巨大な頭をそっぽへ向けた。
それを見たクイナの表情が一変する。
巨大な尾を動かして慌ててエリカの傍へ寄ると、恐る恐る弁明した。
「エリちゃん、私は何も知らなかったからね! 信じて!」
「信じられないなら、私、魔王の庭を抜けてもいいよ! 深海妖姫族が永遠に堕天使族と竜族の敵になってもいい!」
名指しされた二者が、驚いて同時にクイナへ目を向けた。
彼女の精神がすでに崩壊寸前まで追い詰められていることは知っていた。
だが、千年以上にわたる深い付き合いも、魔王の庭そのものの意味さえ忘れられるほど深刻になっているとは思っていなかった。
もっとも、新たな魔王が現れたことで、まだ状況を変えられる可能性はある。
オスヴィドの脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
エリカは、目の前にいる三人の魔王を順に見た。
そして、意思疎通のできないもう一人の魔王と、神霊ではないかと疑われているもう一人の魔王を思い浮かべる。
自分が魔王の庭へ参加した目的は、最初からはっきりしていた。その意志は一度たりとも揺らいでいない。
エリカはオスヴィドの喉元から軍刀を引いた。
そして改めて、厳かに宣言する。
「私、エリカは、ヴィンセントと共に魔王の庭へ参加する」
「では、始めて」




