50.飼育
「この未知の高原へ向かうなら、安全だけでなく時間にも気をつけて。二か月以内には戻ってきて。魔王の庭はおそらくその頃に開かれる」
「往復の時間を差し引けば、今のあなたの飛行速度では、実際に目標を探せるのは一か月ほどしかない。期限までに理想的な飼育対象が見つからなくても構わない。時間どおりに戻ることの方が重要」
翼を広げ、雲の中へ沈み込むほど天高くそびえる巨大な峡谷の岩壁の間を飛びながら、ヴィンセントは出発前にエリカから一つひとつ言い聞かされた注意事項を思い返していた。
まだ数日しか経っていないにもかかわらず、すでにこれまで探索したことのない未知の場所まで来ている。今の世界の心でも、ここまでは覗き見ることができない。
以前、世界の心から得た地形図によれば、この辺りは迷宮城の第十六層から第二十層にあたるはずだった。
両側の岩壁には、不気味な洞口がびっしりと口を開けている。
吹き込んだ風がその中へ次々と吸い込まれ、まるで岩壁そのものが呼吸しているようだった。さらに洞口からは大量の太い緑色の蔓が伸び、宙吊りの石道をことごとく覆っている。
根や茎を覆う細かな毛は、小さな虫のように蠢き、巨大な葉も絶えず揺れ動いている。まるで一帯すべてが生きているかのような光景は、見る者に本能的な恐怖を抱かせた。
かなり有名な邪悪体――肉喰い魔藤である。
毒を持ち、火にも強く、高温にも低温にも耐え、何より血肉を好む。
しかも数が非常に多い。一つ見つけた時には、すでに周囲一帯へ網のように蔓が張り巡らされていることも珍しくない。
強力な攻撃を受ければ地中へ潜って身を隠し、簡単な知性を使って様々な危険にも対応する。
数本だけなら、さほど対処は難しくない。
だが数千、数万もの肉喰い魔藤に取り囲まれれば、伝説に語られる竜族でさえ、その場で絡め取られて殺されるという。
この恐ろしい邪悪体の正体に気づいた時、ヴィンセントも一度はこの区域を迂回できないかと考えた。
たとえ飛んでいたとしても、結局はこの巨大な岩壁の間にいる。肉喰い魔藤の捕食範囲から抜け出せているわけではない。
幸い、まだ正式に飼育機能を再稼働させたわけではないものの、相手は世界の心の刻印を感じ取ったらしい。ヴィンセントが通過しても攻撃してくることはなかった。
危険な区域を無事に抜けると、その後数日の道のりは比較的穏やかになった。
進路はさらに曲がりくねっていたが、両側の岩壁は明らかに遠ざかり、先ほどまでのような険しく狭い景色ではなくなる。
血族の視力が生まれつき遠くまで見通せるほど優れていなければ、左右の岩壁が存在することさえ分からなかったかもしれない。
まるで、河の流れる広大な緑の平原へ出たかのようだった。
死亡峡谷の前半部を覆っていた分厚い暗雲も、ここではもう見当たらない。
光神の光が大地へ降り注ぎ、低い青草が一面に生え、吹き抜ける風も地底の深い闇から這い上がってくる冷気ではなく、生命の気配を含んだ穏やかな暖かさへ変わっていた。
虫や鳥、様々な獣が自由に動き回り、至るところで見慣れない花が美しく咲いている。
ヴィンセントの記憶では、ここは第二十層から第二十五層にあたる区域だった。
遠くの岩壁にある洞口を注意深く見る。
肉喰い魔藤の区域ほど数は多くないが、一つ一つが非常に巨大だった。
人間の姿をしたヴィンセントを十人、縦に重ねてもそのまま歩いて入れるほど高く広い。岩壁同士を繋ぐ宙吊りの石道に至っては、もはや石道ではなく、宙吊りの大地と呼んだ方が近いほどだった。
なぜなら、ここを守っているのは巨人族だからだ。
ヴィンセントが上空を通過していると、何体かの一つ目の巨人が洞窟から出てきた。
彼らは宙吊りの大地から一気に最下部へ飛び降り、そこを流れる巨大な地下河川のほとりで目のない怪魚の群れを捕らえたり、広い平原で大型動物を狩ったりしている。
岩壁に棲む鎌蜘蛛すら、彼らにとっては食料だった。
「鎌蜘蛛は宙吊りの石道を守るだけじゃなく、死亡峡谷の大型守衛にとって主要な食料の一つでもあるらしい。さっきの肉喰い魔藤も巨人族と同じかもしれない。鎌蜘蛛の飼育機能を優先して再稼働させたのは正しかった……」
エリカから聞いた迷宮城の基本的な構築の仕組みについて考えていた、その時だった。突如として巨大な影が覆い被さってきた。
振り返る。
自分の身体よりも大きな一個の眼球が、すぐそばまで顔を寄せ、興味深そうにこちらを覗き込んでいた。
同時に、強烈な生臭さと体臭が襲ってくる。
あまりの濃さに吐き気が一気に込み上げ、頭まで痺れるような感覚が走った。意志の強いヴィンセントでさえ、反射的に息を止め、吐き気と眩暈を堪えなければならなかった。
目の前の小さな存在が苦しんでいることに気づいたらしく、一つ目の巨人は気を遣うように少しだけ後ろへ下がった。
だが今度は、その巨大な口が大きく開く。
笑っているかのように無形の音波が次々と放たれ、低く重い、耳をつんざくほどの声が辺りへ響き渡った。
本人に悪気はなくとも、その笑い声だけでヴィンセントの心拍は速まり、鼓膜が痛んだ。急いでエネルギーで身体を強化し、自分を守る。
ようやく落ち着きを取り戻したヴィンセントは、目の前の一つ目の巨人を改めて観察し、考えた。
皇家冒険団によって最初の十層が強引に突破されたことで、自分は迷宮城の守衛そのものを過小評価していたのかもしれない。
かつてのヴィンセントは、ただの流浪の冒険者だった。
総合能力は悪くなく、一通りのことはできたが、特定の任務に特化した有名冒険者や伝説級の冒険者とは違う。
大規模傭兵団に届くほどの実力もなく、本当の意味で荒野の奥地へ踏み込んだことも、迷宮城の中心部で人間の限界を遥かに超えた危険と対峙したこともなかった。
伝聞と、自分の乏しい経験だけで戦力を推し量れば、判断を誤る。
その認識のずれは、今後の戦いにも少なからず影響を与えるだろう。
幸い、今はエリカが全体を取り仕切っている。
そして死亡峡谷は、確かにその名に違わぬ場所だった。
三体の超獣種を除いたとしても、この迷宮城が知性種族にとって極めて大きな脅威であることに変わりはない。
妙に友好的な数体の一つ目の巨人へ手を振って別れを告げると、ヴィンセントは再び飛行を続けた。
だが、その後の数日間、岩壁に新たな洞窟を見つけることはなかった。
後半の階層へ進むほど、そこを守る存在はさらに強大になる。
洞窟の位置さえ見つけにくくなり、ヴィンセントも今ここで寄り道してまで探すつもりはなかった。
まして、世界の心の飼育機能はまだ完全には回復していない。そうした危険な種族が、彼を襲ってこない保証もなかった。
中には、超獣種のようにほとんど制御の利かない存在がいる可能性すらある。
世界の心があったとしても、迷宮城の主と超獣種との関係は、あくまでエネルギーを供給する側と、そこに居つく客に近い。
彼らは混沌時代よりさらに古い竜獣時代から生き残ってきた生命であり、竜族でさえ、かつての強敵へ好き好んで挑もうとはしない。
時間は飛行と休息を繰り返すうちに過ぎていった。
それからの旅では、ヴィンセントはずっと一人だった。
新たな守衛と出会うこともなく、腹が減れば一つ目の巨人たちのように地下河川で目のない怪魚を捕まえて食べた。
鎌蜘蛛は体内に毒があり、酸味と渋味が強くて不味い。一度試しただけで、二度と食べる気にはならなかった。
十四日目。
ヴィンセントはようやく死亡峡谷の終わりを目にした。エリカの見積もりより数日早い。
飛行にますます慣れてきたことが理由だろうとヴィンセントは考えた。
今のところ、天賦の中で最も頻繁に使っている能力なのだから、それも当然だった。
峡谷の果てには、空の半分を覆い隠すほど巨大な斜面が、緩やかに上へ伸びていた。
地表には巨大な岩と奇岩ばかりが乱立し、深い褐色の大地には生命の気配がほとんどない。上るにしても下るにしても、容易ではなさそうだった。
その巨大な斜面の最下部には、さらに途方もなく大きな黒い洞穴が口を開けている。
底は見えない。
血族の視力でも奥までは見通せず、底なしの深淵へ繋がっているかのようだった。
巨大な地下河川も、そこから流れ出している。
以前、エリカが大量のエネルギーを費やして感知領域を使った際、ここも一瞬だけ確認していた。彼女の推測では、シロ大陸を流れる巨大な地下水脈の支流の一つなのだろうという。
もしかすると、詩人の歌の中にしか存在しないとされる伝説の地底世界――幻想的な地中空間へ繋がっている可能性すらある。
だが今の二人には関係のないことだった。
それ以上考えず、ヴィンセントは巨大な斜面に沿って飛び上がる。
そして峡谷の終端を越えた瞬間、目の前には見渡す限り広がる、心まで晴れるような広大な高原が現れた。
青空と白い雲。
緑の草原と澄んだ河。
暖かな光と風が大地を撫で、森林が点在し、山脈が遠くまで連なっている。
生命の気配は、視界の果てまで続いていた。
穏やかな風を感じ、ヴィンセントは思わず心地よさを覚えた。
迷宮城攻略へ参加して以来、こうして気を緩められる時間はほとんどなかった。
骨と血の翼を畳んで地上へ降りる。
ここはすでに、世界の心が覗き見ることのできる限界の外側だった。
知性時代となった今でさえ、シロ大陸の大半を占めているのは知性種族ではない。野外には常に様々な危険が潜んでいる。
空が地上より安全というわけでもなかった。
巨大な飛禽、空から獲物を狙う捕食者、空壁付近に生じる乱気流――どれも一瞬で致命的な被害をもたらし得る。
必要もないのに、未知の土地で好き勝手に飛び回るつもりはなかった。
それに空よりも地上の方が、ヴィンセントには冒険者として積み重ねてきた経験がある。比較するなら、こちらの方が安全だった。
膝ほどまで伸びた草が一面を覆う高原を、慎重に歩いていく。
ここは壊死の大地や死亡峡谷とは完全に異なる環境だった。
明るく開けており、陰鬱な気配もない。
まるで天と地、生と死ほどの違いがある。
それでもヴィンセントは油断しなかった。
前進しながら絶えず天賦「探知」を使い、広がっていくエネルギーの波紋から返ってくる反応を受け取り、常に周囲を確認する。
正式な調査すら行われていない荒野へ足を踏み入れるなら、かつてヴィンセントが所属していた開拓隊や傭兵団であれば、異なる専門技能を持つ冒険者を最低でも十人近く揃えて、ようやく出発できるような状況だった。
だがエリカが言った通り、今の迷宮城は深刻な人手不足だ。
ヴィンセント一人で、十人分をこなすしかなかった。
そのまま歩き続ける。
涼しい風が吹き、光神が暖かく照らす。
高原は見渡す限り生命に満ち、青空には白い雲が浮かび、多くの穏やかな動物が群れを作って暮らしている。生き物の種類も豊富で、雄大な自然そのものといった場所だった。
できることなら、ヴィンセントはエリカとここで静かに暮らしたかった。
だが、現実がそれを許してくれない。
それほど歩かないうちに、飛翔鳥、双角牛、刺突隼、鉤牙蜂などの姿を次々と見つけた。
さらに、最もよく見かける緑皮鬼の群れも少なくない。大型の動物や獰猛な獲物を狙い、隙を窺っている。
姿を隠したまま、ヴィンセントはしばらくこの土地の生き物たちの動きを観察した。天賦の扱いに慣れてきた今では、漏れ出す気配もある程度は隠せるようになっている。
まだ動作音を消す方法は見つけられておらず、飛行や高速移動、戦闘中には隠匿を維持できないものの、それ以外ではかなり使えるようになっていた。
草むらへ身を潜めて見ていると、緑皮鬼の一団が見事な連携で双角牛を仕留める場面に遭遇した。
それを見て、ヴィンセントは再びこの種族を飼育することを考え始める。
一体一体は弱い。
だが知性種族と同じように集団行動を得意としており、ある意味では冒険者とよく似ている。簡単な武器も使える。
第一層では老バダの策によって一瞬で壊滅させられたものの、あのようなことができるのは少数の老練な冒険者だけだった。
それにヴィンセントには、別の考えもある。
第一層のような閉ざされた空間へ緑皮鬼を置けば、あらかじめ準備された大規模魔法を受けた時、逃げ場がない。
だが地表にある巨大宮殿へ配置し、一定数の罠と組み合わせて冒険者を迎え撃たせるなら、危険になった時も早めに撤退できる。
攪乱と足止めを目的とするなら、悪くない戦術になるかもしれない。
考えを固め、緑皮鬼を飼育対象の一つに加えることにしたヴィンセントは、狩りを終えた一団の後を音もなく追い、そのまま巣へ向かうことにした。
出発前、エリカから飼育の方法は教わっている。
通常は三つの段階に分かれる。
第一段階。
対象となる種族から、反抗する力と意志を奪う。
一般的な魔獣や邪悪体であれば、群れの指導者や中核となる個体を徹底的に打ち倒せばいい。
ただし第二段階は、種族によって方法が異なる。
簡単に言えば、希望を断ったうえで利益を与え、相手を完全に服従させることだった。
たとえば食獣人なら、打ち倒した後に利益を示して誘わなければ、素直に従わせることは難しい。
下手をすれば、種族全体を巻き込んだ血みどろの戦いになる。
緑皮鬼の場合は、逃げ道がなく、どう足掻いても助からないと理解させればいい。肉体も精神も弱い彼らなら、絶望すれば自然と命乞いをし、服従する。
そして第三段階。
世界の心による制約を受け入れさせる。
その過程は、エリカの天賦「不死」が魂を抜き取る時と少し似ている。
相手自身が受け入れるか、あるいは抵抗する力を失っている状態でなければ、制約を成立させることはできない。
従属関係が成立した後、その種族が定められた範囲から長期間離れれば、エネルギーの供給と生命の源を失い、少しずつ死んでいく。
迷宮城の主はこの仕組みを利用して、いつでも罰を与えることができる。
しかも、その種族から生まれた次の世代にも同じ制約が引き継がれる。
ただし、石炎魔の主のような極めて強大な個体や、超獣種のような規格外の存在には、こうした制約はほとんど効果を持たない。
ヴィンセントは、巨人族に対してもそれほど強い効力はないのではないかと考えていた。
彼らはおそらく、あの環境を気に入って自発的に残っているだけなのだろう。
つまり守衛を選ぶ時は、ただ強い種族だけを求めればいいわけではない。迷宮城との相性や、主自身がどこまで扱えるかも考える必要がある。
また、飼育の制約が成立すると同時に、世界の心は対象へ定期的にエネルギーを供給しなければならない。そのエネルギーによって種族は生存し、繁殖し、さらには個体として進化することもできる。
逆に、長い間エネルギーが供給されなければ、制約そのものが次第に弱まり、やがて消えていく。
現在の死亡峡谷で、強大な種族の多くが制約を離れ、各迷宮階層の外へ出て活動するようになっているのもそのためだった。
エネルギーの供給を失えば、最初に直面するのは食料不足だ。生き物がそのまま座して死を待つはずもない。
そして、この三段階の仕組みもまた、ヴィンセントが緑皮鬼を選んだ理由の一つだった。
第一段階では、まず自分自身が圧倒的に強いことを示さなければならない。
今のヴィンセントにとって、この程度の弱い邪悪体の群れは最も確実な選択だった。
狩猟隊の後を追って巣へ向かう。
緑皮鬼たちは仕留めた双角牛を担ぎ、草原と森林の境界にある場所まで進んでいった。そこまで来ると、邪悪体の棲息地によくある生臭い悪臭が次第に漂い始める。
巣はもう近い。
だが、その時。
天賦「探知」の波紋から返ってきた反応に、ヴィンセントはわずかな異常を感じ取った。
周囲は静かだった。
強い風が吹き抜け、長い草を激しく揺らしている。
対照的に、森林の奥からは何の音も聞こえない。
一見すれば、何もおかしなところはない。
それでもヴィンセントは確かに見つけていた。
十数の生命反応が、森の中に潜んでいる。
静かに距離を取る。
自分の隠匿が完全無欠だとは思っていない。
野外には恐ろしいほど鋭い獣の勘を備えた生命も少なくない。あの光騎士のように。
ならば、用心するに越したことはない。
隠匿を維持したまま身体を低くし、ヴィンセントは一面の長草の中へ身を潜めた。
そして、これから始まる伏撃を静かに待った。




