30.野営地への帰還
蒼藍帝国辺境、前線基地。
緑と灰褐色の大地が接する境界。その手前に臨時で築かれていた野営地は、大量の人員と物資が送り込まれるにつれて、ますます規模を拡大していた。
壊死の大地との境界には巨大な天幕が次々と立ち並び、外周にあった簡素な木造防壁も、いつの間にか厚く堅牢な防壁へと造り替えられている。高くそびえる壁は外からの危険と覗き見る視線を確実に遮り、この場所は徐々に、新興の大規模な軍事複合都市へと姿を変えつつあった。
地下迷宮の第一層を攻略し、死亡峡谷内部に広がる、まさに自然の造形としか思えない巨大構造の情報が持ち帰られて以来、この場所は蒼藍帝国の命令によって急速に発展を続けている。
今では一万人を超える人員を収容できるほどの野営地となっていた。
「聞いたか? 前に第三陣の探索隊で殿を務めた奴が見つかったらしいぞ」
「第二層の入口で、全身傷だらけになってるところを救助されたらしい」
「そいつも運が悪いな。殿を引き受けて迷宮城で何日も苦労した挙げ句、自分の功績は仲間に分け取られたんだろ……」
「俺がそいつなら、目を覚ました途端、ジェットとかいう気持ち悪い奴を斬り殺すかもしれん」
「そういや、仲間を裏切ったジェットって、今どこにいるんだ?」
一人の冒険者にとって、他人の噂話をあれこれ考えるのは一人で楽しめる娯楽であり、冒険者が集まれば、他人の醜聞や噂を語り合うことが集団の娯楽になる。金もかからず、他人を話の種にしながら自分たちも気晴らしできるのだから、やらない理由はなかった。
野営地の後方医療センターへ続く道。
ドロシーは慌ただしく足を速めていた。探索で付いた泥や血が全身に残ったままで、途中ですれ違った巡回要員の何人かは声をかけようとしたものの、可愛らしい顔いっぱいに焦りを浮かべ、今にも泣き出しそうな彼女の様子と、先ほど耳にした噂を思い出し、最後にはそのまま通してやった。
もともとドロシーは、病を抱えた姉が永遠に男爵へ昇爵できず、あと一歩というところで無念を抱えたまま一生を終えるよう仕向け、その後で自分が「努力」して功績を立て、姉を追い越すつもりだった。
そのための相手もすでに選んでいる。
最近ずっと熱心に自分へ近づいてきているグリフィスだ。
成功した暁には、人を使ってカンダベスへ知らせを送り、姉を思い切り嘲笑ってやるつもりだった!
ところが突然、作戦部から人が派遣され、第二層の入口で義兄が発見された、それも生きて戻ってきたという知らせが届いた!
狂喜して叫び出したくなるほど嬉しい知らせだった。
だが同時に、ドロシーの心には強い不安もあった。自分はジェットに協力し、ヴィンセントが殿を引き受けた功績を消す側へ回ってしまった。
もし何年にもわたって命懸けで積み上げてきた努力を自分が台無しにしたと義兄に知られれば、あの冷淡な眼差しがどれほど厳しいものになるか、想像することができた。
義兄は、ほかの愚かな男たちとは違う。
出会った初日から彼女の偽装を見抜いていた。どれだけ小細工を弄しても意味はない。
ならば正直に謝り、許しを請うしかない。
結果がどうなるかは分からなかった。
だが、その不確かな可能性を意識しただけで、ドロシーは逆に興奮を覚えた。かすかな極楽にも似た異様な快感が身体の奥から広がり、想像の中の義兄の反応に思わず顔を伏せ、甘い吐息を漏らしてしまう。
それを偶然見た周囲の者たちは、探索中に怪我を負い、医療区へ急いでいるのだと勘違いするほどだった。
親切に声をかけてきた者たちへ何度も礼を言って断り、数度深く息をして、暴走しかけた感情をどうにか抑える。
今はまだ、自分を好きなように解放していい時ではない。
少なくとも、義兄を姉の手から奪い返すまでは――駄目だ!
「お義兄さん!」
布の仕切りを押し開け、ドロシーは医療センターの個室へ飛び込み、焦った声で叫んだ。
だが、目に入った光景にわずかに面食らう。
ファング、アカヤ、ベリ、カルロ、それどころかアンダまでいる。
数人は先ほどまで楽しそうに話していたらしく、ヴィンセントはいつも通り、黙ってそれを聞いていた。
しかしドロシーの姿を見た途端、部屋の空気は冷えた。
「じゃあ、あたしは先に行くぞ、いい男。機会があったら、また勝負しよう」
アンダは遠慮なく、大きな手で負傷者の肩を力強く叩くと、そのまま立ち上がった。近づいてきたドロシーを片手で押しのけ、さっさと部屋を出ていく。
ほかの者たちもそれぞれ複雑な表情を浮かべ、何言か見舞いの言葉を残して後に続いた。
個室に残されたのは、複雑な関係にある義兄と妻の妹だけだった。
目の前のヴィンセントは、全身のあちこちに包帯を巻かれている。頭部も半分以上が覆われ、ところどころには腐食した傷跡らしきものまで見えていた。
このままなら、将来は広い範囲に醜い傷痕が残るかもしれない。
だが、ドロシーは気にしなかった。
「お義兄さん、おかえり! ずっと心配してたんだよ。宙吊りの石道で鎌蜘蛛に襲われたって聞いたけど、傷は大丈夫?」
慎重に表情を窺いながら、ドロシーはヴィンセントの隣へ腰を下ろそうとした。
まずは優しい気遣いから会話を始めようとする。
「大丈夫だ」
表情は変わらず、ヴィンセントの返事も以前と同じく短かった。
皇家冒険団に対してヴィンセントが説明した生還までの経緯は、こうだった。
食獣人の通路で仲間とはぐれた後、手持ちの食料で何とか食いつなぎながら、何日もの間、身を隠して迷宮内をさまよった。やがて第二層へ通じる宙吊りの石道を発見し、そこで岩の窪みに溜まっていた水を頼りに、どうにか生き延びていた。
しかしある日、油断したところを鎌蜘蛛に襲われ、糸で縛られ、貯蔵用の餌として山壁に吊るされた。
その後、意識を取り戻した隙に脱出。
鎌蜘蛛の糸には強い腐食性の毒があるため、付着した装備や衣服は捨てざるを得なかった。それでも傷はあまりに重く、第二層入口の宙吊りの石道まで逃げ戻ったところで力尽きて倒れ、次に目を覚ました時には老バダたちがいた。
説明にはかなり多くの穴があった。
それでも彼は生還者であり、発見した隊も特に疑うことなく、すぐにヴィンセントを野営地へ送り返した。
ただ一人、老バダだけは帰路の間、終始一言も口にしなかった。
険しい表情を浮かべ、何かを考え込んでいるようだった。
もっとも、そんな小さな違和感は、鎌蜘蛛が存在するという情報によってすぐに埋もれた。
報告が届くと作戦部も重大視した。隊そのものはその場で襲撃を受けていなかったが、ヴィンセントの身体に残っていた鎌蜘蛛の糸と腐食痕が何よりの証拠である。
宙吊りの石道を安全に通過するための計画を、改めて立て直す必要があった。
この説明は、ヴィンセントが短時間で考え出せる最善の方法だった。
唯一厄介だったのが、負傷そのものを偽装することだ。
この方法で野営地へ戻る前、ヴィンセントはわざわざ山壁まで飛び、数頭の鎌蜘蛛を見つけ出した。そして無理やり糸で自分を攻撃させた後、血の力による自己修復を抑え、痛みに耐えながら身体にいくつもの腐食痕を作った。
そこまでは順調だった。
しかし腐食毒による傷が広がるにつれて、ヴィンセントは再び変身衝動と吸血欲求を抑えきれなくなりかけた。
幸い、先にオスヴィドから助言を受け、練習もしている。
そして老バダたちもついに彼を発見し、応急治療によって傷の悪化を抑えてくれた。
そのおかげで、偽装は最後まで無事に成立した。
ただ、戻ってきて間もなく、ヴィンセントは仲間たちから悪い知らせを聞かされた。
自分が殿を引き受けた功績が、なぜか消されていた。
さらにジェットが引き起こした正義告発には、ドロシーまで関わっていたという。
そのこと自体は、ヴィンセントにとってそれほど大きな問題ではなかった。
だが、カンダベスにいるエリカが、自分の死の知らせに続いて昇爵撤回の知らせまで受け取った時、どんな気持ちだったかは想像できた。
ドロシーがエリカに抱いている感情は、昔から愛情と憎しみが入り混じっていた。
本人にすら説明できないほど複雑なものだった。
だからこそ、ドロシーが医療センターへ入ってきてからも、ヴィンセントは何も問いたださなかった。
彼は、相手が自分から口を開くのを待っていた。
「お義兄さん、これ、治癒の実だよ。『生体迷宮』の特産品で、傷を治すのにすごくいいんだって。それとも……私の神術はあまり強くないけど、身体を楽にして回復を早めるくらいならできるよ。名もなき神霊に祈って、神術で治療しようか?」
ドロシーは果汁をたっぷり含んだ橙赤色の果実を優しく差し出した。
その顔には心配と気遣いが溢れている。
ヴィンセントは受け取らなかった。
ただ黙って、彼女を見つめていた。
しばらくすると、ドロシーはとうとう気まずい沈黙に耐えられなくなったらしい。
可愛らしい顔にある大きな瞳が涙で潤み、眉がかすかに震える。
悲しそうに果実を引っ込めると、顔を伏せたまま涙を一滴ずつ落とし始め、肩を震わせながら低く泣き出した。
「お義兄さん、ご……ごめんなさい。全部、私のせいなの。私が悪かったって分かってる。でもあの日、ジェットがまるでおかしくなったみたいに、ずっとみんなに絡んでて、それに修道女の嘘を見抜く神術でも本当のことを判別できなくて、私……私、仕方なく……」
ドロシーは泣きながら、あの日に起きたことを説明していく。
ただ、それが故意なのか無意識なのか、肝心なところになると決まって声を詰まらせ、曖昧なまま話を飛ばしていた。
「……その後、姉さんが改めて男爵へ昇爵できるように、私は野営地に残って探索隊へ参加して、功績を稼ぐことにしたの。それに……それに、お義兄さんを捜し出そうともした。みんなが証明してくれるよ。お義兄さん……私のこと……許してくれる?」
最後には涙を雨のように流し、哀しげな声で何度も顔を覆いながら謝っていた。
ヴィンセントは、ドロシーの性格をある程度理解している。
説明を最後まで聞いても、すぐには返事をしなかった。
もし迷宮城の地下で、今なお思い返すだけで信じ難いような出来事を経験していなければ、彼女を罰していた可能性もある。
だが今は、男爵への昇爵など最も重要な問題ではなかった。
「お……お義兄さん?」
厳しく扱われる覚悟はすでにしていた。
それどころか、心のどこかでは少し期待すらしていた。
だがドロシーを待っていたのは、予想外の無反応だった。
冷たく、何も言わない。
そのことが逆に、彼女をいっそう不安にさせ、恐れさせた。
長い時間が過ぎた。
落ち着かない気持ちのまま待ち続けていたドロシーは、ようやく義兄が低い声で口を開くのを聞いた。
「一つ、頼みがある」
「頼み……うん! もちろん! お義兄さんのためなら何でもするよ」
ドロシーには、義兄がいつもと違う理由は分からなかった。
だが、自分を無視されないのなら、それでよかった。
ヴィンセントは緊張と期待を浮かべるドロシーを見つめ、真剣な表情で言った。
「今は自由に動けない。手紙を書いてエリカに連絡し、すぐここへ来るよう伝えてくれ。どうしても話さなければならない重要なことがある」
言い終えると、ヴィンセントはドロシーに問い返す機会を与えず、すぐに部屋を出て、頼んだことを済ませるよう促した。
個室を出ると、自分が再び受け入れられたというドロシーの喜びも、次第に冷めていった。
疑り深い彼女は、何かがおかしいことに気づき始める。
「どうして、あの病気だらけの女を辺境まで呼ぶの? お義兄さん、迷宮城の中で何かあったのかな? それに……お義兄さんの匂い、少し変わったような……」
先ほどヴィンセントのそばで果肉を切っていた時、ドロシーはすでに気づいていた。
以前から好きだった義兄の匂いが、どこか少し違っている。
今でも非常に魅力的で、いい匂いであることに変わりはない。
だが確かに、以前とは何かが違った。
ドロシーは俯き、個室の方へそっと視線を向けた。
桃色の髪の下に隠れた表情が一変する。
大きな瞳は焦点を失ったように揺らぎ、その顔はぼんやりしているようでもあり、狂気に浸っているようでもあった。
そして低く呟く。
「お義兄さん、何を隠してるの……」




