第十五話 バーテンダー、逮捕願望。
「ライムを切らしたか」
アレンカが〈モビィ・ディック〉をちょっと通りかかったとき、ジャックがそんなことをこぼしていた。
「ライムを切らしたおれなんて」
ずうんと重くなる空気。
「お、おお。なんだかアレンカの知らないジャックのめんどくさい一面を見てしまったのです。仕方がないから優しいアレンカが買い物に付き合ってあげるのです。付き添い代はポッキーでいいのです」
来栖ミツルがパクられてから、ジャックが少々気持ちが不安定になっていた。
トキマルとクリストフを加えた三羽烏のなかでは一番来栖ミツルへの忠誠心が強いので、その忠誠対象がポンといなくなると心の安定がグラグラし始めた。
そこで考えたのが、自分もノヴァ・オルディアーレスにぶち込まれることだった。
そもそもヴィンチェンゾ・クルスは酒類販売免許を持っていなかったという罪状で捕まっているのだから、バーテンダーたる自分もそこに加えるべきだと思っていたが、レンディックらカンパニー一派もそれなりに下調べはしていて、ジャックを一緒にぶち込めば、刑務所内で用心棒になり、圧力が減じてしまうと思ったらしい。
すでのその圧力とやらは当初の一万分の一にまで減じられていたが、これではジャックのひとり損である。
そこで彼は営業免許のない酒類提供以外の(不本意ではあるが)自分が得意とする犯罪――暗殺をもって、ノヴァ・オルディアーレスへぶち込まれることにした。
このとき、ジャックはちょっと長くなった髪を後ろのほうで結んでいた。
彼に必要なのは散髪だったが、ともかく少々おかしくなり始めたジャックはリサークからもらった暗殺装束をつけ、三日間連続で暗殺をやった。
もちろん、相手は死んで当然のクズである。
とはいえ、カスを殺しても意味がない。
目の見えない男を背中から刺した辻斬りや男らしくなるのは女の顔を殴るときだけのポン引きといった犯罪ピラミッドの底辺に這いつくばっているようなカスの殺人事件には指一本動かさないカラヴァルヴァ治安裁判所である。
それはトップがカンパニーの人間になっても変わらないだろう。
だから、その重い腰を上げざるを得ないと思うような大物を狙うことにする。
つまり、怪盗クリスが狙うような悪党を殺していくことにしたのだ。
悪徳高利貸しとそいつと絡む人身売買組織と売春宿の主。
ジャックはこの三夜で三人の悪党を葬った。
さて、久々に暗殺をして気づいたことは自分の腕がまだ落ちていないこと。
つまり、このまま姿を消したのでは証拠が全く残らず、イヴェスが閑職に追いやられた治安裁判所では到底自分まで捜査の網が届かないことに気がついた。
治安裁判所に逮捕されないと意味がない。
じゃあ、聖院騎士団でもいいだろうというわけにもいかない。聖院騎士団では国外の刑務所への収監もあり得る。
そこで彼が考えたのは暗殺において最も避けるべき失敗――目撃者を残すことである。
三人とも屋敷に住んでいて、使用人がいたので、この使用人たちを目撃者にした。
ターゲットがコーヒーを持ってこいと言った直後に襲って殺し、あとは窓を開け、召使が熱々のコーヒーを持って部屋に入ってくるのを待つ。
そして、召使がやってきたら、さも逃げ遅れたかのごとく姿を見せるのだ。
――これでおれも逮捕されるだろう。
しかし、逮捕されなかった。
三回目の暗殺で気づいた。仮面をつけていた。
三回目の暗殺ではメイドがやってきたので、ジャックは仮面なしで顔をしっかり見せ、出どころを調べれば自分につながる凶器も置いていった。
――今度こそ。
だが、ジャックは逮捕されなかった。
――所詮、おれなど刑務所にぶち込む価値もないということか。
これがジャックがライムを切らしても落ち込むことになるまでの彼の精神的軌跡である。
――†――†――†――
ジャックはライムを箱単位でいつも買っていて、〈モビィ・ディック〉のカクテル需要は十分に満たされていた。
ライムの品質がよくて、箱買いできる屋台となると、いくつか限られてくるが、そのひとつにスカリーゼ橋の北西側のたもとにある屋台もそれである。
青と白の縞模様の片流れな布屋根をいつもきれいにしているところはなかなか好感度がよい。
果物屋はジャックが来ると、そろそろだと思っていたと言って、ジャックが持ってきた革製の箱を皮を剝かずともそのみずみずしさと香りが利いているライムで満たした(来栖ミツルの言葉を借りれば『処女みてえな』。彼には欠点がいろいろあるが、果物の新鮮さを例えるときこの表現をやたら使いたがるのもそのひとつだ。曰く『このみかん、処女みてえだな』『このスイカ、処女みてえだな』『この人喰いドリアン、処女みてえだな』)。
箱詰めライムがもたらすずっしりとした重さに精神の均衡を取り戻しつつあったジャックは、アレンカがポッキーを食べながら、道の向こうに集まった人混みに目を向けているのに気付いた。
そこには銀取引所があった。
ロンドネを代表する取引所のひとつで、穀物、果物、香辛料、金属、傭兵、武器、魔法書などを船倉ひとつ単位で売り買いしている。
幾多の投機熱と何百という自殺者を出し続ける罪深い場所だったが、アレンカがそこをじっと見ているのは、
「ほろ苦い記憶がよみがえってくるのです」
その昔、アウグスト・セディーリャを仕掛け人とするマンドラゴラ取引が大流行になったとき、アレンカは来栖ミツルから渡されたお金で大いにその相場に打って出て、こっぴどい目にあわされたことがあった。
別に金額で損失を食らってもびくともしないが、バブルを生活の中心に据えたことは彼女の精神力を徹底的に削ぎ取り、新しい取引方法や保険商品だのまで考えに入れて、マンドラゴラ相場を読もうとした彼女はくたくたになってしまったのだ。
そして、現在、銀取引所は懲りずに投機熱に見舞われている。
売り物はノヴァ・オルディアーレスの株である。
刑務所と治安裁判所とカンパニーの公式な声明にもかかわらず、〈確かな筋〉〈絶対間違いない秘密情報〉〈現場にいたから話せる男〉といったものがノヴァ・オルディアーレスの新商売の裏にはクルス・ファミリーがいる、現にポッキーとトッポは彼が収監されてから売り始められた、ヴィンチェンゾ・クルスは法的にも物理的にも政府の介入しづらい空中刑務所でこれまで温めていた様々な商売を始めようとしているとまことしやかにささやかれていた。
あまりにも株が高騰し過ぎて、一枚の株券を十等分にするとか、取引所以外の場所――つまり、酒場や教会、住宅街の広場などで信用取引まで行われるあたりはマンドラゴラ・バブルの記憶とカサレス塔からジャンプした投資家たちの命がけの教訓も役に立たなかったということだろう。
もちろん、アレンカとジャックは真相を知っている。
クルス・ファミリーの影響下にある菓子屋ギルドが地上でこっそりポッキーとトッポを製造し、それをノヴァ・オルディアーレスに持ち込み、刑務所内労働の産物に見せかけて売っているのだ。
いまのところ、来栖ミツルと菓子屋ギルドは原料費にちょっと色がついたくらいの額しかもらっていない。
得をしているのはただポッキーとトッポを右から左へ受け流すだけのノヴァ・オルディアーレスとそれにノヴァ・オルディアーレスの株式所有者だ。
もっといえば、カンパニーが得をしている。
実はジャックにはそれが分からない。
なぜ、来栖ミツルは自分をぶち込んだカンパニーにいい目を見させるのか。
ひと言いってくれれば、カラヴァルヴァじゅうのカンパニーを血祭りに上げるのに。
「あう。マスターが考えてることはアレンカには難しすぎて分からないのです」
たったいま道に残ったぶすぶす燻ぶる黒い焦げを後にしながらアレンカが言った。
その馬車のなかに乗ったカンパニーの殺し屋はふたりを追い抜きざまに槍で刺し殺そうとしたのだ。
もちろんアレンカは罪のないお馬さんには傷ひとつつけていない。
アレンカの魔法制御はすさまじく、馭者が三千度の炎で灰となっても、馬の尻尾の毛一本だってチリチリにしてはいないのだ。
「でも、何だか分からないけどマスターが何とかしてしまうことは知っているのです。えっへん」
「胸を張れることか、それは?」
と、言いながら、真上へスローイング・ダガーを放つ。
伯爵令嬢から馬のたてがみまで何でも扱う櫛職人が店を入れている建物の最上階――両手に鉤爪をつけた仮面の暗殺者が飛び下りてきていたのが、宙で、ゴボッと奇妙な音がして、暗殺者はくの字によじれて落ちてきた。
暗殺者の胸にダガーがしっかり刺さっている。
しかも、昨日殺した人身売買組織の親玉相手に使ったのと非常によく似た意匠。
ジャックはまだ可能性を捨てきってはいなかった。
だが、やってきた警吏はダガーの刺さった死体を見て、昨日の殺しとおんなじものだとは気づいたが、
「昨日の殺しもこいつの仕業だ」
と、鉤爪の殺し屋を足蹴にした。
いやいや待ってくださいと頭の白い捕吏が言う。
「でも、旦那。こいつは鉤爪を持ってるんですぜ」
「だから、なんだ?」
「獲物をしとめるときは鉤爪で仕留めるでしょう?」
「それで?」
「でも、昨日のやつはダガーでやられてました。そして、同じダガーで暗殺者が死んでる。あっしらはこのダガーを投げたやつを探すべきなんですよ」
「だから?」
「え? だ、だからって、だって、昨日の殺しと同じ殺しが同じ意匠のダガーでやられたんなら、刀剣鍛冶をあたって、このダガーを買った持ち主を探すべきでしょう?」
「その必要はない。ホシの武器は鉤爪だからな」
「え?」
「え?」
「いや、だから、こいつの武器は鉤爪ですけど、昨日のやつはダガーでやられてたでしょう?」
「そうだな」
「で、ここにやられたこいつ、こいつの胸に刺さってるダガーも昨日のと瓜二つだ」
「そうだな」
「だから、二件の殺しは同じやつの仕業なんです」
「そうだな」
「分かっていただけやしたか?」
「ああ。犯人はこのキシャーとか言いそうな鉤爪野郎だ」
「え?」
「え?」
「旦那、もう一度おさらいしやしょう。昨日のやつはダガーで死んだ、鉤爪じゃあなかった」
「そうだな」
「で、今日のこいつ、こいつもダガーで死んだ。鉤爪じゃない」
「そうだな」
「つまり、凶器として鉤爪が一度でも使われたことはなかった。ここまでは『え?』じゃないですよね」
「そうだな」
「だから、鉤爪のやつは犯人じゃない。なぜなら鉤爪は一度だって誰の命もいただいてなくて、殺しは全部ダガーの持ち主の仕業だからってことです」
「そのダガーの持ち主がこの鉤爪野郎なんだ。真犯人だ」
「え?」
「え?」
「……じゃあ、おききしやすが、どうして真犯人は自分で自分を刺して死んでるんです?」
「殺人という罪の重みに耐えきれず、悔恨の情から自殺したのだ」
「でも、こいつ、鉤爪つけてますよ? 自分でダガーを胸に刺そうとしたら、先に鉤爪が刺さっちゃうでしょう?」
「それなら簡単だ。この敷石の舗道は少々隙間がある。そこにダガーの柄のほうをねじ込んで差し込み、刃が立った状態にする。そして、その上に倒れ込めば、鉤爪で胸を切り裂くことなく胸を突いて死ぬことができる」
「なんで、そっちには頭がまわって、肝心なことが分からないんですかい? こいつは自殺したんじゃない。殺されたんすよ」
「そうだ。鉤爪の野郎によってな」
「がああああああ!」
イヴェスが閑職にやられたせいか、警吏の質は確実に落ちていた。
このままいけば、カラヴァルヴァには未曽有の混乱が引き起こされるのは必至だ。
「そのためには株券を集めて、オーナーを最有力株主にしないと……でも――」
株券の値段は大暴騰で最近ではクルス・ファミリーの面々があの手この手で脅しても株券を手放そうとせず、手放すくらいなら殺されたほうがマシだと本気で言ってきていた。
――これではオーナーは出所できない。いや、だが、なにか、きっと――。だが、今回は時間がない。もう四日経った。あと三日でオーナーの変身が解けて、それをヨシュアとリサークが見てしまう。時間はないはずだ。
トントン、と肩を叩かれ、ふりむくと、細い人差し指が頬をぶにっと突いた。
果物箱に乗ったアレンカがにっこり笑う。
「ジャックはあれこれ考え過ぎなのです。マスターは絶対に大丈夫なのです。アレンカを見習うといいのです。マスターはいつだって絶対に大丈夫なのです。えっへん」




