第四十八話 ラケッティア、海底ゴッドファーザー。
珊瑚が丘のふもとのさらに向こうの藍色の底なしの穴まで続いていて、浅い海面が巻き下ろすエメラルドグリーンの光の網が大きな首長竜のつるりとした背中に金色の模様をつける。
これがドン・ペスカトーレのテラスから見えた景色だ。
表玄関で出迎えた二匹のホオジロザメに屋敷のなかを案内され、部屋いっぱいに盛られた宝貝やサメ文明の壁画を見て、裏庭のテラスへ。
そこに年老いた魚人がひとり、椅子に座って、うたたねをしていた。
ホオジロザメのひとりがその老人の腕を軽くゆすり、おれが到着したことを、この海のゴッドファーザーに告げた。
ドン・ペスカトーレは小太りで白い口ひげが垂れたかなりの老人で、着ているのも簡素な服で装飾品らしいものはひとつも身につけていなかった。
白く長い眉毛に隠れた眠たげな目でこちらを見て、唯一帯びているアクセサリーである大きな指輪をはめた手を差し出したので、ゴッドファーザーの礼式に乗っ取って、手に接吻した――いや、接吻しようとしたが、ヘルメットの呼吸用ガラスマスクに邪魔され、ガラスがコツンと指輪にはまった黒真珠にぶつかっただけだった。
水中で取れる最大の礼儀を補完するために、うちの店でつくったエスプレッソ・ウミウシの詰め合わせを渡す。
「カルロに借金をするやつはたいていつまらんことにカネを使うが、これは違うな。一級品だ」
ホオジロザメに箱を渡すと、まもなく小さなコーヒー・カップにエスプレッソ・ウミウシ二匹が入ってやってきたので、ドン・ペスカトーレは早速二匹を踊り食いにした。
「苦い」
「お気に召されたなら光栄です。ドン・ペスカトーレ」
やっと椅子を勧められたので、石でできた椅子に腰かける。
「ここから見える珊瑚がまだ小さな卵だったころから、この屋敷は建っている。祖父も父も、ここでいろいろな魚介類の相談に乗ったものだ。祖父と父はまさに王侯のごとく、海域に君臨した。わしは? 時代が変わったと言っておこう。相談の内容も変わってくる。あの赤線もわしら三代のあいだにずいぶん大きくなった。大きく脹らんだ売春宿は性病と変質者を生む。わしが面倒見ているやつらの揉め事を見たら、祖父と父は墓のなかでひっくり返るだろう。変態の後始末をする王がどこにいる?」
「ドン・ペスカトーレ。おれは別にくだらない用事であなたの時間を無駄にしようとは思っていません。おれたちの究極の目標は仲間の奪還です。帝国の打倒はそのついでに過ぎません」
「帝国について、きみはわしに何を提供できるというのだね? ん?」
「ドン・ペスカトーレ。あの赤線にうまいウミウシを淹れる店を開いて、三日間のあいだ、一番多かった相談は酒絡み、つまりウミウシの問題でした。いまはまだ深刻化していませんが、各娼館はウミウシの買い付けがどんどん難しくなっているのを感じ、少ないウミウシのためにずいぶん無駄な争いをしています。そして、この海域でのリキュール・ウミウシの供給はあなたが一手に握っている。魚人たちの兵舎から蟹の民の居酒屋まで、そこで呑めるウミウシは必ずあなたの手を通る。ところが、いま、ウミウシが手に入りにくくなっている」
ちょっと言葉を切って、相手の反応を見てみる。
寝てるようにも見えるし、寝てるふりしてきいているようにも見える。
「陸ではガラスの水槽のなかで魚を飼うことが流行っています。しかし、なかにはウミウシを飼いたがるものもいる。でも、たいていの愛好家はウミウシの飼育に失敗する。ウミウシは魚とは比べ物にならないくらい、水質に敏感だからです。そして、あなたが支配しているウミウシの最大生産地の隣には帝国のメガリスが築かれている。ウミウシの生産量が減少し始めたのはそのころですね?」
「魚は水が変われば、泳いで逃げることができる。だが、ウミウシは岩を這って逃げるしかない。この星の生き物を見れば、神というものがいかに不公平を好んだかを知ることができる。顎がない魚、不必要な装甲でろくに泳げないトカゲ、他者の餌になるために生み出されたとしか思えない小魚たち。一方で、神はこの珊瑚のような美しいものをつくり、あの首長竜のような王者をつくる。だが、創造主に対して、どうしてわしらのような卑小な海棲生物が異議を唱えられる? わしらは配られたカードでゲームをするしかない」
「あなたはいま帝国を追放できる切り札を握っている」
「それがきみだと?」
「そうです」
「だが、きみには兵はない。きみの連れはふたり、手練れらしい。だが、相手は軍隊だ」
「頭数は蟹の民で揃えます」
「蟹の民はあれだけの武器を持ちながら、平和を愛好する」
「危機感を持っている蟹もいます。水の星の守護神の加護が得られれば、蟹の国は動きます」
「だから、〈海竜の墓場〉か」
「あのローンシャークは道を知っている」
「カルロにきみらを案内するように言う。そうしたら、きみらは蟹どもを率いて、帝国を叩くと?」
「魚人もです」
見ると、お姫さまがいた。
「おやおや」
「魚人も少ないながら、抵抗運動を形成しています」
「なるほど、血筋は用意できていると」
おれは肩をすくめた。
「カルロにきみを〈海竜の墓場〉に案内させる。それだけでわしらはウミウシの生産を元の水準に戻せる。ずいぶんうまみのある取引だが、ひとつ、気になることがある」
「なんです?」
「仲間をひとり、奪還するのが究極の目標だと言ったが――なぜだね? あの赤線できみらが始めた商売は成長間違いなしだ。それでもその商売を捨てて、次の星へと帝国をつぶすための旅を続ける。それはなぜだね?」
「さらわれたのはおれの身内です。身内がさらわれたら、何があっても取り返す。それがファミリーです」
「ファミリー」
「ええ。ファミリーです」
ドン・ペスカトーレは黙った。
過去の糸を手繰り寄せ、引き寄せたものを確かめて手放すような目をした。
「きみを見ていると、祖父を思い出す。祖父も同じことを言った、なによりも、まずファミリーだと」




