英雄の馬
あの光を覚えている。
心震えるほど美しく、あたたかな灯火を。
それは、この国で語り継がれていく、最も新しい英雄譚だ。
エドラサルム=ジ・エラの小さな村で、ある少年は仔馬と出会った。貧しい暮らしながらも、一人と一頭は村人たちの助けも借りて、身を寄せ合うようにして成長した。
立派に育った彼らは、馬術大会に出場し、他の参加者と大差をつけて優勝した。その俊足は他の追従を許さず、当時の記録は未だに破られていない。
青年と成馬は、推薦を受けてエドラの軍隊へと入隊した。それからの活躍も目覚ましいもの。捕らえた盗賊は数知れず、追跡を逃げきった者はいなかった。
時の成功者として注目を集め、その名声が最も高まった頃、彼らに新しい任務が与えられた。
魔法を使う動物、"黒き獣たち"の討伐隊に任命されたのだ。
初期に変異した"獣"は肉食獣が主だったという。ただでさえ危険な動物たちに、強力な魔法が備わった。瞬く間に住処近隣の餌を食い尽くし、村まで襲い、やがて人の味を覚えた。
出撃した部際だったが、獣に立ち向かうには情報も対策も足りなかった。懸命に戦うも壊滅。だが、命と引き換えに得るものはあった。
指揮官は獣の弱点と首都への襲撃予告を伝書に記し、最高の騎手と駿馬に伝令を頼んだ。
目的地まで遥かな距離がある。
獣の襲撃までに首都へたどり着けるのは、彼らしかいない。
散っていった仲間の思いを背負い、獣の手から人々を守るため、彼らは走った。
朝夕問わずに駆け、道なき道も飛び越えた。最後まで走りきれたのも、ふたりの強い絆があればこそ。種族を越えた信頼は、困難な道を拓き、奇跡の行軍を成し遂げた。
真夜中、首都を臨む丘に彼らは立った。満身創痍の体で見下ろす町は、まだ焼け落ちておらず、健やかな灯りで満ちていた。
間に合ったのだ。迎えの兵たちに伝書を渡せば、首都は守られる。青年は心から安堵して、その場に崩れ落ち、
そして……彼は英雄となった。
◇ ◇ ◇
目標の獣は"魔法少女(略)"たちを蹴散らし、一目散に走り去った。まっすぐカーレス・シズネ町へ向かっている。このままだと直撃は免れない。
「最終防衛線を突破……残念だけど、捕獲は失敗だよ」
「だい、じょうぶ……ですか、みなさん?」
「ジュディちゃん、立てる……?」
「うっ、ううぅ……はい、っす……」
四人の少女たちは互いを支えに前を向く。立ち上がるのもやっとの有様だ。いつも光り輝く装備も、暴風雨の中ではくすんでいるようだった。
その獣へはどのような魔法も通じず、足を止めさせることすらできなかった。最後の試みにてようやく肉薄したが……ある事実を知って、オーガスタは雷撃を放てなかった。
「よく頑張ったね、みんな。でも、もういいんだ。捕まえられなかった以上……止める方法は一つしかない」
「博士、そんな……!」
下がっていてくれ、とエイプルに声をかけた博士は、自らの武装を展開し始める。
温存していた"万象改変機構"で攻撃魔法を発現し、災いの元凶を消そうとする。獣の命を絶つ気なのだ。
「やめて! あの馬を殺さないで!!」
嵐のさなかにてオーガスタは絶叫する。彼女は両手を広げて前に立ち、博士の視線を遮った。
暴風を巻き起こして猛進する獣を、博士は"嵐纏馬"と呼んでいた。どのような手を使っても侵攻を止めなければ、町に甚大な被害が出る。
だが、少女たちはその決断をためらった。
気づいてしまっては攻撃できない。あの獣は……かつて大勢の命を救った、英雄の愛馬なのだ。
数年前、主の葬儀から走り去るのを最後に、駿馬は消息を絶っていた。
エドラ周辺国各地にて、原因不明の大嵐が発生するようになったのはそれからのことだ。謎の異常気象として警戒されていたが、その正体は獣の魔法だった。
オーガスタが暴風越しに見た馬は闇色に染まっていた。その瞳は一心不乱に前方のみ見、蹄とともに青白く帯光する。振り乱される鬣も冷え冷えとした色だ。
英雄譚で知る駿馬は栗毛であった。毛皮があり得ない配色をしているのも、獣として変異した証。だが、元の面影はある。
使命を帯びた凛々しい横顔は変わっていない。獣の背には鞍と手綱の残骸があり、極めつきに……首に掛けられたメダルは、元の名を示していた。
「わたくしの見間違いなんかじゃないわ! 外見は変わってしまったけれど……あれは"風迅"と言う名の、英雄の馬なのよ!!」
「私も、そのお馬さんのことは知っています……近代情勢の授業で、オータム先生から教わりました……」
「そうっすね……でも、首都ではもっともっと人気のあった馬なんすよ、メイちゃんさん。オーガスタも、首都の人たちもみんな、名馬"風迅"と乗り手の英雄には憧れたものっす」
「この国に住んでる人なら、みんな知ってるよ。でも、その馬が獣になって、今は私たちの町を……」
少女たちの間に動揺が広がる。心優しいがゆえに、あの獣を助けたいとの願いを持った。
英雄に憧れるオーガスタもまた、涙目で博士に縋った。
「まだ間に合うわ! 博士、なにか作戦を言いなさいよ。あの馬を傷つけずに、町を守る方法があるはずよ!!」
「……あきらめよう、オーガスタ。予備の策を含め、しっかり準備して挑んだ結果がこれだ。再度立ち向かっても、"嵐纏馬"を捕獲できるとは思えない。それに……もう、君たちを危険な目に遭わせられないよ」
「そんなの絶対に嫌っ! お願い……もう一度だけ接近する方法を考えて! わたくしが今度こそ止めてみせるわ!!」
「無茶を言わないでくれよ。町を救って、獣も生かすなんてこと、できるわけ……」
「できるよ! かなり危険だけど、みんなで力を合わせれば、今からでも獣に追いつける!」
逆境の中にて希望ある言葉が叫ばれた。奇しくもそれは、諦観を語ったのと同じ声。
今まで隠れていたエイプルの背から、小さく白い姿が顔を出す。
「マジっすか! さすがっすね、ぬいはかせ!!」
「えっ……でも、博士は今……ほかに方法はないって言って……あれ?」
不思議がっているメイと同じく、博士たち当人も当惑していた。彼らは同じ魂からできた"博士"。意見が分かれることはないはずなのに。
「おい! 何を言いだすんだ、僕!! みんながどうなってもいいのかい?」
「大きい僕こそ、どうしてみんなのお願いを聞いてあげないんだい!? 一番いい結果を出す方法だって、教えてあげられるじゃないか!」
「どっちでもいいから、早くわたくしたちに話しなさい! 時間がないわ。エイプル、メイにジュディも、こっちに集まって作戦会議よ!!」
「は、はいっす!」
「ええっと、がんばり……ます」
「やめるんだ、そっちの僕に耳を貸すな! 失敗したらただじゃ済まないんだよ? 君たちも町も、取り返しのつかないことになってしまう」
小さい自身を回収しようと博士は手を伸ばしたが、エイプルは阻んだ。ぬいはかせを抱きかかえながら、真摯に彼と向き合う。
博士たちの意見が分かれた理由を、エイプルは理解できていた。彼も迷っているのだ。"危険な目に遭わせたくない"と、"できることをしてあげたい"という思いが、それぞれの博士に表れた。
彼らは本気で自分たちのことを案じてくれている。
「博士……私からもお願い、もう一回だけ挑戦させて! あの獣のことも助けてあげたいの。一番うまくいく方法があるなら、私はそれを信じる。必ずやり遂げてみせる!!」
「冗談じゃない! 今まで挑んで一度も成功しなかったのに? 次、失敗してしまえば……確実に犠牲が出るだろう」
「大丈夫だよ、博士。獣の正体を知ってから、"絶対に助ける"っていう、強い気持ちが生まれたの。これまでと同じ結果になんてならないよ。私は、みんなが助かる未来を実現してみせる」
「そうか。君は、そういう女の子だったね。そこまでの信念があるんなら、もう僕から何も言うことはないよ。でも、僕もまた僕の信念を通させてもらう」
捕獲作戦の続行を許したわけではないが、博士はそれ以上の反対をしなかった。この状態のエイプルは、絶対に決意を変えないだろうと、彼はすでに思い知っている。
危険な挑戦への餞別に、別の自分へ投げ渡したのは"万象改変機構"。
「悪いけどひとつしかあげられない。残りは最後の保険として、僕が使うからね」
「うん! わかった、ありがとう博士!!」
日に二つまでしか生成できない、不死者"博士"独自の武装。その残ったひとつで自身に魔法をかけ、彼は姿を消した。いざという時少女たちを守るために、単独行動を取るのだ。
そうと決まれば急いで取り掛かろう! とぬいはかせは張り切って計画を話し始める。オーガスタを筆頭に、皆は真剣に聞き入った。
これは、この場に博士が二人いたからこそ生まれた好機。絶対に無駄にはしないと、少女たちは頷き合った。
◇ ◇ ◇
すぐ近くの高台に"魔法少女(略)"たちは移動した。それぞれが自身の役割を確認し、段取りに従って魔法を発現する。
まずはジュディ。"嵐纏馬"が駆け抜け、暴風の余波が残る空に飛び立つ。
続いてメイが、エイプル、オーガスタともに立つ地面を凍らせた。一言、気をつけてくださいね……と述べてすぐ、三人が立つ氷の足場がせり上がる。
メイの魔法、"氷槍"の発現だが、これは攻撃のために突き出されたものではない。限界まで長く伸ばし、槍同士を組み合わせて補強し、獣の走る方向へ氷の軌道を敷く。
「おふたりとも、ご武運を……えいっ!」
そり滑りの要領で、メイは仲間たちの背を押して、凍らせた足場ごと下方へ走らせた。
「……オーガスタちゃん、いくよっ!!」
「ええ!! いつでもよくってよ!」
充分な速さに達してからがエイプルの出番だ。メイの発現した氷槍の滑走台は、あくまで助走を稼ぐためのもの。頃良しと見た彼女は、オーガスタを抱えた状態で、背後に花火魔法を発現。爆発の勢いに乗って、さらに加速する。
本来の用途にはなかった、エイプルの飛行方法"流星三連玉"。その最後の爆発連鎖が途切れた瞬間、オーガスタは両脚に力を込めた。
荒れる大気を弾き、稲妻の如く天を駆ける。
ぬいはかせが少女たちに授けた策は、それぞれの魔法の特徴を生かした三段階の方法で加速し、オーガスタひとりを"嵐纏馬"に接触させる方法である。
暴風纏った走りを止められるかどうかは、彼女の雷撃にかかっている。しかし、獣の元へ行ったとしても本当に効果があるのか、不安要素は多い。
「信じてるよ……みんな」
それでも、ぬいはかせは少女たちの願いを叶えたかった。
重量制限を考えた結果、同行を諦めた彼は今、遠間より彼女たちを見守っている。
不確定事項を打ち破り、奇跡を成し遂げる瞬間を、今か今かと待っている。
嵐の中心へ近づくにつれ、激しい風圧がオーガスタを襲う。"魔法少女(略)"への状態変化なく寄れば、体が引き裂かれているところだ。
かの名馬を救いたいとは思うが、一度接近したときに味わった苦痛を、忘れたわけではない。
恐れはある。不安も大いに感じている。けれど、背に受ける追い風が、常に彼女を鼓舞してくれる。
「ふおおおおおおお!! うおおおおわあああああ!!」
大気の流れに乗って、ジュディの雄叫びがオーガスタの耳に届いた。
先に飛び立ったジュディこそ、今回の策で最も重要な役目を担う。ゆえに当初から"万象改変機構"の強化を受け、全力で魔法を行使していた。
獣の発現する暴風に、渾身の風魔法をぶつけ、相殺する。仲間たちが吹き飛ばされぬよう守り、進路の調整も器用にこなす。オーガスタが単騎で飛ぶのを見てからは、さらに魔法の出力を増した。
「行って!! 行ってくださいっす、オーガスタ!」
支援の風とともに、ジュディの言葉が背中を押す。
「風迅を助けられるのは、あなたしかいない!!」
「そんなの当然よ!!」
仲間からの後押しを受けて、オーガスタは嵐を破り、獣本体を視界に捉えた。
はためく手綱に、あと少しで手が届く……
名馬"風迅"の心はまだ任務の過程にいる。今に至るまで死にものぐるいで走っているのは、主人である英雄との最後の行軍をなぞっているから。
悲劇の結末を受け入れられず、獣に変異してなお主人を諦められなかった。暴風を纏い始めてからは、より現実が見えなくなった。けれど、そうまでして駆け抜けた先に、幸福などない。
オーガスタの瞳から涙がこぼれる。風迅の気持ちを考えるほど胸に痛みを感じた。史上最速を誇る駿馬の末路が、こうであってはならない。
つらい出来事であるが……かの馬に事実を思い出させなければならない。
どんなに早く走っても追いつけない。
どれだけ遠くに行ってもたどり着けない。
「あなたの主人は、もうどこにもいないのよ!!」
ついに触れた手綱を思い切り引っ張り、"止まれ"の合図を伝える。同時に、持ちうる力のすべてをかけて、雷魔法を展開した。
嵐の夜に、眩い光が満ちていく――――
「光だ!」
風迅の耳に蘇るは、主人が発した歓喜の声。互いに疲れきり、傷だらけの体で見下ろした目的地には、夜景が星々のように輝いていた。
動き出す数個の光は守備兵が持つ松明だ。彼らの帰還に気づき、こちらへやってくる。
「よく……がんばってくれたな、風迅……ここまで来られたのは、おまえのおかげだ」
今までの尽力を労わるべく、青年は愛馬を撫でた。普段はやわらかく、手入れの行き届いた栗毛だが、今はところどころ血に濡れた塊があった。
触れてくる手が普段より弱々しい。ただならぬ主人の様子に不安を覚え、風迅は指示を守らず、明かりの方へ進もうとする。
まだ間に合う。向こうへ行けば主人を助けられる、そんな気がした。
しかし、青年は手綱を引いて、その歩みを止めさせた。風迅の体力が尽きるのを、よしとしなかった。
彼は愛馬の首にもたれかかり、自分たちが守った首都の町を見つめる。
これがふたりの旅路の果て。いっしょに見る最後の景色だ。靄かかる視界でも、その輝きとあたたかさは伝わった。
「おまえといっしょに走るのは、本当に楽しかった……でも、ごめんな。俺は……もう無理みたいだ」
わかっていたはずだった。彼の受けた傷は深い。まもなく、永遠の別れがやってくる。
伝令の任務は成し遂げられた。青年にはもう悔いはなく、自身の運命を受け入れている。残された時間の許す限り、最高の愛馬を撫で続け、鬣に指を絡めた。
「ありがとう、風迅。どうか元気で……」
主人と過ごした最後のひとときと同じく、今も小高い丘から明かりを見下ろす。
夜のカーレル・シズネ町。そこにも人々の平穏な営みがあり、家屋からは憩いの光が漏れ出ている。首都と比べてささやかで、儚い……嵐でも来れば、なす術なく吹き消されてしまうだろう。
オーガスタの魔法、"轟々たる白金の閃き"は獣を怯ませ、その思考を白紙に戻した。暴風の発現は止まる。
進むことをやめた"嵐纏馬"は、その場に立ち尽くし、一心に町を見つめていた。
あの光を覚えている。
心震えるほど美しく、あたたかな灯火を。
過去を再現したかのような状況に、風迅はようやく主人との別離と、自らの現状を思い知った。
久しく感じなかった、背に人を乗せる重みも認識した。
「もう走らなくていい。頑張らなくてもいいの……」
すすり泣くオーガスタ。獣が止まったことに安心しきっていたため、次に起こる異変に対処できなかった。
風迅が急に激しく嘶き、暴れ始めたのだ。棹立ちになった馬にしがみつくこともできず、彼女は背から振り落とされた。
「……っと! 危なかったあ」
「きゃああああ!! あ……はか、せ……?」
オーガスタを受け止めたのは今まで姿を見せなかった博士。よくやったね、と微笑む彼は、自らの武装で駆動力を上げ、獣の周りを警戒し続けていたのだ。
無事助かったこと、エイプルたちも駆けつけてくるのを確認し、彼女は堰を切ったように泣きわめく。
風迅は暴れ続けていた。進むことはやめたが、荒れ狂う動きには暴風が生じ、蹄で何度も何度も地面を抉る。
主人を追うのは諦めたが、身に余る悲しみが駿馬を突き動かす。主人を傷つけた"黒き獣たち"と同じ存在に成り果て、美しい町灯りを潰しかけた事実も、心を追い詰めた。
いずれ気が済み、おとなしくなったところを研究所に連れ帰る。これが最良の結果だとわかってはいるが、狂乱する風迅の姿は、少女たちの涙を誘った。
「博士、っ……ねえ!! どうにかならないの!? あの子をもとに戻す方法はないの……?」
「そんなものはないよ、オーガスタ。獣に変異したが最後、周囲を巻き添えにして破滅するしかない」
「あなた不死者でしょ! 世界に名高い実力者のひとりなら、不可能なんてないはずよ!!」
「獣を生み出したのも不死者だよ。"魔女"は、僕よりずっと力を持った存在だ」
カーレル・シズネ町への危機は去った。獣も傷つけず無力化できたが……皆は悲痛な表情で、英雄の馬を見守るしかできなかった。
悲しみの嵐が過ぎるのを、待つことしかできなかった。