第九話「聖女、方向を見失う。」
ある日の午後。
珍しく穏やかな時間が流れていた。
……いや、“あのミレイユ”がいる時点で油断は禁物だが。
「ミレイユは昔から苦手だものねぇ……数学や地理が」
優雅に紅茶を傾けながら、ミレイユと会話していたアイリーンがさらりと言った。
「だからママは方向音痴なの?」
フレイが首をかしげる。
「そうよ?」
即答だった。
「地図を逆さに持って南に行こうとして東に歩いていくようなおバカさんよ?」
「だってぇ!」
ミレイユが勢いよく立ち上がる。
「地図どっちが上だか分からないし! 東西南北ってなに!? 右左前後ろ上下でよくない!?」
「はぁ……」
アイリーンが額に手を当てた。
「アンタ、その方向音痴ぶりで何回ルシアンとのデートすっぽかしたの?」
「ぅ……」
ぴたり、と動きが止まる。
「数え切れましぇん……」
「すっぽかしたの!? ママ!」
「サイテー!」
容赦ない子どもたちの声に、ミレイユが肩を震わせる。
「そうよ? まだ結婚する前なんて、しょっちゅうだったんだから」
アイリーンは楽しそうに続ける。
「だ、だって!」
ミレイユが必死に弁解する。
「待ち合わせ場所に辿り着けない内に五時間とか経っちゃって……!」
「それはもう遭難の域だな」
「それでね?」
アイリーンはくすりと笑う。
「“ここどこぉ? ルシアンのとこに行けなぁい……”って、通信魔道具で泣きついてくるのよ。
仕方ないから、魔力の残穢を辿って迎えに行ってたんだけどね?」
「ある時なんて――」
「東の森のど真ん中で、ボアの山の上に座り込んでたのよ?」
頭を抱えた。
フレイとメリアの視線が、じっとこちらに向けられる。
「パパ……」
「よく結婚したね……」
「……あのな」
小さく息を吐く。
「放っておけなかったんだよ」
ぽつりと零れた言葉に、ミレイユがぴくりと反応する。
「前線でな。瘴気に飲まれかけたくせに、他人を庇って倒れかけてた馬鹿がいた」
「ちょっと!? 誰が馬鹿よ!?」
「それを抱えて引きずり出したのが俺だ」
ミレイユが、ほんの少しだけ言葉に詰まる。
「……あの時のルシアン、めちゃくちゃかっこよかったのよ」
ぼそりと呟く。
「今もだろ?」
「否定できない……」
アイリーンが肩を震わせている。
その時だった。
「あばぁー!」
トールが元気よく声を上げる。
そして――
ぺた、ぺた、とハイハイで進み始めた。
「え? トール?」
迷いのない動きだった。
一直線に、廊下へ向かっていく。
そのまま、ぺた、ぺた、と進み――
「……あら?」
ミレイユの声。
「キッチンだわ!」
……は?
「トールすごーい! 正解ー!」
「あいっ!」
得意げに床を叩く小さな手。
フレイが、じっとその動きを見つめる。
「……最短経路を選んでるね」
ぽつりと呟いた。
「え?」
「無駄な動きがない。迷いもないし……」
少しだけ考えるように、視線を細める。
「……すごい」
――一歳児に対する評価ではない。
「……なぁ」
静かに口を開く。
「もしかしてこの家で一番迷わないの、トールじゃないか?」
全員の視線が、一斉にトールへ向いた。
ぺた、ぺた。
得意げに進む小さな背中。
「「「……」」」
誰も、否定しなかった。
「じゃあ今度からママの案内、トールに任せようか」
フレイが真顔で言う。
「名案だね!」
メリアも頷いた。
「ちょっと待って!? 私が迷子前提なの!?」
「前提じゃない、事実だ」
「ひどい!!」
わちゃわちゃと騒ぐ声。
笑い声。
いつもの、騒がしい日常。
その中心で――
トールは、何も分からないまま笑っている。
――ああ。
(この時間が、ずっと続けばいい)
心から、そう思った。




