第三十四話 「ここまで来てしまった」
トールが眠ったのを確認してから、俺とミレイユは談話室に移動した。
メリアもフレイもそれぞれの部屋に戻り、暖炉の火は落ちている。
広い部屋は静かで、妙に寒かった。
「……見たわよね」
ミレイユが、ぽつりと呟く。
「ああ」
短く答える。
忘れられるわけがない。
トールの部屋の隅。
月明かりの届かない場所で。
影が、笑った。
「……疲れてるんだ」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
「最近、いろいろあったから」
「ルシアン」
ミレイユが、静かに俺を見る。
「私は、見間違えないわ」
「……」
「貴方も……そうでしょう?」
言葉が出なかった。
認めたくない。
認めたくなんか、ない。
だって。
あれがトールに関係しているなんて。
そんなこと。
考えたくもない。
「……呼ぶわね」
ミレイユが小さく息を吐く。
指先に、淡い魔力が灯った。
「アイリーンを」
数分後。
空気が、ふわりと揺れた。
「夜中に呼び出すなんて、何事?」
聞き慣れた声。
「ついにルシアンが失禁した?」
「してない」
「まだね」
「まだって何だ」
いつもの軽口。
アメジスト色の髪を揺らしながら、アイリーンが現れた。
ミレイユの顔を見た瞬間。
その表情から微かに血の気が引いた。
「……何があったの」
低い声。
冗談の色が、消えていた。
ミレイユが静かに口を開く。
「トールの影が、動いたの。昔みたいに少しズレるとか、そんなんじゃなくて……まるで、別物みたいに」
沈黙。
アイリーンは、何も言わなかった。
ただ。
ゆっくりと、目を閉じる。
「……そう」
ぽつり、と。
「やっぱり、もうここまで来てたのね」
「やっぱりって、何だ」
思わず、声が強くなる。
アイリーンは静かにこちらを見た。
「ルシアンも見たんでしょう?」
「……見た」
「じゃあ、分かるはずよ」
「分からないから聞いてるんだ!」
苛立った声が部屋に響く。
ミレイユがそっと俺の腕に触れた。
落ち着け、と言うみたいに。
でも。
無理だ。
落ち着いてなんかいられるか。
「トールだぞ」
絞り出すみたいに、声が漏れた。
「俺の息子だ」
「ええ」
アイリーンが静かに頷いた。
「トールは、トールよ」
「じゃあ──」
「でも」
その一言で。
空気が止まる。
「……あの子の魂は、“魔王だったもの”」
ミレイユが息を呑んだ。
俺はアイリーンの言葉の意味が理解できなかった。
「……は?」
「生まれ変わり、って言った方が正しいわね」
アイリーンの声は厭に静かだった。
「別の誰かが中にいるわけじゃない」
「あの子は、最初からトール」
「優しくて、家族が大好きで、お菓子に弱くて、少しぽやぽやしてて、寂しがり屋で──」
「ノクスがちょっと怪我しただけで泣くような、あの子よ」
そこまでは、分かる。
分かるに決まってる。
だって、俺たちの息子だ。
でも。
「……ただ」
アイリーンの瞳が、少しだけ揺れた。
「あの子の魂の奥には、“魔王だった頃の闇”が残ってる」
「小さい頃は、まだ眠っていた」
「でも、成長するにつれて、少しずつ表に出てきてる」
思い出す。
影だけが笑っていた日。
魔物たちが怯え、逃げた日。
空気の歪み。
漆黒の瞳に時折鋭く揺れる紅。
全部。
全部、繋がっていく。
「……そんな」
ミレイユが、小さく呟く。
「どうして……」
「分からない」
アイリーンはゆっくりと首を振った。
「でも、最初に違和感を覚えた時から、ずっと嫌な予感がしてた」
「普通じゃないのに、崩れていなかった」
「歪なのに、壊れない」
「それが、ずっと不自然だった。もう、様子見はおしまいよ」
談話室が、静まり返る。
暖炉の火は、もう消えている。
寒かった。
何もかも。
「……じゃあ、これからどうなる」
自分でも驚くくらい、掠れた声だった。
アイリーンはすぐには答えなかった。
長い沈黙。
それから。
「……分からない」
初めて。
アイリーンが迷うような顔をした。
「でも、もし」
「もし、あの子が自分を否定したら」
「“自分は変なんだ”って、本気で信じてしまったら」
ぞくり、とした。
「……闇に、飲まれるかもしれない」
「っ……!」
ミレイユが、顔を上げる。
俺は、何も言えなかった。
「だから」
アイリーンが、静かに言う。
「絶対に、あの子を独りにしないで」
「“貴方はトールだ”って、言い続けてあげて。引き繋ぐのよ」
唇を噛むミレイユのその手を、俺は強く握った。
「トールは、俺たちの息子だ」
「何があっても」
「絶対に、独りになんてさせない」
アイリーンは少しだけ目を細めた。
「……ええ」
その時だった。
ばさり、と。
窓の外で、羽音がした。
銀白色の影。
ノクスだった。
窓辺に降り立ったノクスがじっとこちらを見る。
それから。
何かを知らせるみたいに低く鳴いた。
次の瞬間。
二階から。
──何かが割れる音がした。




