第三十二話 「言えなかったこと」
トールが泣いた日の夜。
アークライト家の食卓は、いつもより少しだけ静かだった。
……いや。
静かなのはトールだけだ。
「ねぇトール、これ食べる?」
メリアが、自分の皿のローストポテトを差し出す。
「……いらない」
「ええっ!? トールがポテトいらないとか重症じゃない!?」
「フレイ……やっぱり昼間のあれ、パパとママに言うべきよ」
「……でも」
僕は言葉に詰まった。
昼間。
学院の屋上で。
トールは泣きながら言った。
『言わないで』
『父さんと母さん、心配するから』
──優しい。
優しすぎる。
自分がこんなにも傷ついてるのに。
まだ他の大好きな誰かのことを考えてる。
「……っ」
メリアが唇を噛む。
その時だった。
「何の話?」
にこやかな声。
母さんだった。
隣には父さんもいる。
父さんは、なぜかじっと僕たちを見ていた。
……まずい。
父さんは鋭いから……。
「いやー? 別に?」
メリアが不自然なくらい明るく笑う。
「そうか?」
父さんも、笑った。
爽やかに。
でも。
その目は優しく、そして鋭い。
「メリア」
「な、なに?」
「嘘つくの下手だなぁ」
「うっ」
「父さん」
慌てて僕が口を挟む。
「本当に、何でもないよ」
「フレイ」
名前を呼ばれる。
優しい声。
でも、逃がさない声だった。
「お前までそんな顔をしてるなんて、何かあったんだろう?」
「……」
言えない。
言ったら。
父さんと母さんは、絶対に傷つく。
だって、大切な息子が傷つけられたんだから。
「……何でもない」
絞り出した言葉。
父さんは少しだけ黙った。
それから。
「……そうか」
静かに笑う。
でも。
その横で。
母さんがじっとトールを見ていた。
「トール」
「……なに、母さん」
「今日、何かあった?」
トールの手がぴくりと止まる。
食器を持つ指が少しだけ震えた。
「……別に」
小さな声。
また、それだ。
別に。
何でもない。
大丈夫。
「……そう」
母さんはそれ以上聞かなかった。
でも。
その深い青の瞳だけが静かに揺れていた。
夕食の後。
珍しくトールはすぐに自分の部屋へ戻った。
「……トール」
メリアがトールを追おうと立ち上がる。
でも。
「待ちなさい」
母さんがメリアを呼び止めた。
「貴方たち、何があったの」
静かな声だった。
怒ってはいない。
でも。
隠せないと分かる声。
「……」
僕とメリアは顔を見合わせた。
言わないってトールと約束した。
でも。
守る為には言わなきゃ。
僕とメリアで昼間のことを話した。
紙のこと。
言葉のこと。
トールが“自分は変なんだ”って言ったこと。
全部。
話し終わった時。
しん、と、部屋が静かになった。
「……そう」
最初に口を開いたのは、母さんだった。
静かな声。
でも。
その手は強く握られている。
「……うちの子に」
ぽつり、と。
「そんなことを言ったの」
ひやり、とした。
空気が。
一瞬だけ。
部屋の温度が下がった気がした。
「ミレイユ」
父さんがそっと母さんの肩を抱く。
母さんは、はっとしたみたいに目を閉じた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
父さんの声はいつも以上に優しかった。
でも。
そのエメラルドグリーンの瞳が静かに怒っていた。
「……パパ」
メリアが、小さく呼ぶ。
「どうしよう」
その声はやっぱり震えていた。
「トールが、どっか行っちゃいそうで……」
父さんは少しだけ黙った。
それから。
ゆっくりと、笑った。
いつもの。
僕たちを安心させてくれる笑い方で。
「行かせるわけないだろう?」
「……っ」
「トールは、俺たちの息子だ」
父さんが立ち上がる。
「少し、話してくる」
「私も行くわ」
母さんもすぐに立ち上がった。
「二人とも」
僕は、思わず呼び止める。
「……ちゃんと、言ってあげて」
父さんと母さんが振り返る。
「トールは、変なんかじゃないって」
母さんが、少しだけ目を見開く。
それから。
ふわりと、優しく笑った。
「当たり前でしょう?」
「そんなこと、この世界の誰が言ったって」
父さんも、笑う。
「俺たちは絶対に認めない」
二人が部屋を出ていく。
その背中を見ながら。
僕は、少しだけ。
安心した。
大丈夫。
父さんと母さんなら。
きっと、トールを独りにはしない。
……そう、思った。
その頃。
トールは、自分の部屋にいた。
真っ暗な部屋。
灯りもつけずに。
ベッドの上で、膝を抱えている。
窓の外では夜風が揺れていた。
ノクスが静かにトールの肩に止まる。
「……ノクス」
小さく、名前を呼ぶ。
「僕、変かな」
ノクスはただ──
銀白色の羽をそっと擦り寄せた。
その時。
ふと。
部屋の隅の影が、揺れた。
ゆらり、と。
まるで、生きているみたいに。
トールは、気づかない。
気づけない。
でも。
暗闇の奥で。
何かが。
静かに、笑っていた。




