第二十七話 「知らないはずなのに」
最近。
トールは、よく笑うようになった。
「……ユリウス」
「なんですか」
「飴」
「さっき渡したでしょう」
「もうない」
「早いですね……」
昼休み。
中庭のベンチ。
いつもの場所。
黒猫もいる。
トールの膝の上で丸くなっていた黒猫が、ユリウスの声に耳だけぴくりと動かした。
「今日のは何味だったの?」
僕が聞くと、トールは少しだけ考えて。
「……いちご」
「赤いやつ?」
「うん」
「それ、さっき一袋食べてたじゃない!」
メリアが呆れた声を出す。
トールは首をかしげた。
「足りない」
「足りないじゃないのよ!」
「姉さん、うるさい」
「うるさくない!!」
最近、トールは少しだけ口数が増えた。
家族の前だけじゃなくて。
ユリウスの前でも。
それが、嬉しい。
……嬉しい、はずなのに。
「……兄さん?」
トールが、不思議そうに僕を見る。
「なに?」
「なんでもない」
笑う。
大丈夫。
ちゃんと嬉しい。
その時だった。
ひゅう、と風が吹いた。
中庭の木が揺れて、トールの膝の上の本が、ぱらぱらとめくれる。
「あ」
トールが手を伸ばす。
でも、その前に。
一枚の紙が、ひらりと落ちた。
「……?」
見覚えのない紙。
薄い、古びた紙切れ。
本の間に挟まっていたらしい。
ユリウスが拾い上げる。
「何ですか、これ」
「知らない」
トールも首をかしげた。
紙には、見たことのない文字が書かれていた。
ぐにゃぐにゃしていて。
でも、どこか整っていて。
不思議な文字。
「古代文字……?」
僕が呟く。
学院の図書室で、少しだけ見たことがある。
昔の魔術書とかに出てくる文字だ。
「読める?」
メリアが聞く。
「無理。少し見たことあるだけ」
「そう」
メリアが覗き込む。
「……全然わかんない」
「僕も」
僕とメリアが顔を見合わせる。
その時。
「──『黒き王は、眠りにつく』」
ぽつり。
トールが、呟いた。
しん、と。
一瞬、空気が止まった。
「……え?」
メリアが、ゆっくり振り向く。
トールは、自分でも不思議そうな顔をしていた。
「……なんで、読めるの」
僕の声が、少しだけ震える。
「わかんない」
トールが、小さく首を振る。
「でも……読める」
その黒い瞳が、紙を見る。
まるで。
最初から知っていたみたいに。
「『黒き王は、白き光に封じられ──』」
「トール!」
思わず声を上げた。
びくり、とトールが肩を震わせる。
はっとしたみたいに瞬きをした。
「……あれ」
紙を見つめる。
それから。
「……読めない」
小さく、呟いた。
さっきまで本当に読めていたのに。
「兄さん……?」
不安そうな声。
しまった、と思う。
怖がらせた。
「……ごめん」
慌てて笑う。
「びっくりしただけ」
「……うん」
でも。
僕の手は冷たくなっていた。
だって。
今のは。
知らないはずの文字だった。
学院の教師だって、簡単には読めないはずの。
なのに。
トールは読んだ。
迷いもなく。
当たり前みたいに。
「……」
トールの隣でユリウスが静かに紙を見ていた。
その顔はいつも通りだった。
でも。
「ユリウス?」
「……いえ」
少しだけ間を置いて。
「僕も、読めません」
そう言って紙をトールに返す。
その時。
ふと。
ユリウスの指先が、トールの手に触れた。
ほんの一瞬。
なのに。
トールが、目を見開く。
「……あったかい」
ぽつり、と呟く。
ユリウスも少し驚いた顔をした。
「……トール?」
「……なんでもない」
トールは小さく首を振る。
でも。
その顔は少しだけ安心したみたいだった。
……どうして。
どうして、ユリウスだけなんだろう。
怖くない。
離れない。
そして。
今みたいな時でも。
トールを、“こっち”に繋ぎ止めているみたいに見える。
僕はトールを見る。
トールはもういつも通りだった。
飴を口に入れて。
黒猫を撫でて。
少しだけ、笑っている。
──さっきのことなんて、何もなかったみたいに。




