第十七話「うちの子がいい子すぎて魔物が逃げ出したんだが、理由が全然よくない」
王都の空に、異変が起きたのは、昼下がりのことだった。
書類仕事をどうにか片付け、ようやく一息つけると思った矢先、訓練場の騎士たちがざわつき始めたのだ。
最初は、ただの違和感だった。
誰かが空を見上げ、別の誰かが足を止める。
そうして、ざわめきはじわじわと広がっていった。
嫌な予感がして、俺も視線を上げる。
「……多いな」
思わず、そう呟いていた。
空を埋めるようにして旋回しているのは、黒い影の群れだった。
一つや二つではない。
十、二十──いや、それ以上。
昼間の青空に、あれほど不吉な色が浮かぶ光景はそうあるものじゃない。
「飛行型の群れか……」
隣に並んだレオンが、険しい顔で目を細める。
「あれは──」
「ナイトレイヴンだな」
言いながら、俺も眉を寄せた。
夜を好む中型飛行魔物。群れで動くことはあるが、本来なら昼間から堂々と王都上空を旋回するような連中じゃない。
まして、あの数だ。
「昼間からかよ……」
「普通じゃないな」
短いやり取りの間にも、街の空気は目に見えて変わっていく。
訓練場の外では、すでに悲鳴に近い声が上がり始めていた。
空を見上げて立ち尽くしていた商人たちが、ようやく我に返ったように店じまいを始める。子供を抱き上げて走る母親。年寄りを支えて路地へと急ぐ若者。王都全体が、じわじわと不安に飲まれていくのが分かった。
──まずいな。
群れの規模もそうだが、それ以上に厄介なのは、あいつらが何を目的に集まっているのかが見えないことだ。
飢えているのか、何かに追われているのか、それとも──もっと別の理由か。
「騎士団、展開急げ!」
レオンの声が飛ぶ。
「了解!」
団員たちが一斉に散開した。
やはり頼りになる。書類さえ絡まなければ、あいつは本当に優秀だ。
俺も腰の剣に手をかける。
柄の感触が、妙に冷たく感じた。
「ルシアン!」
「上から叩くぞ!」
「了解」
訓練場の外縁へと踏み出す。
このまま王都の中心部へ降りられたら厄介だ。被害が出る前に散らす必要がある。
その時だった。
「ママー、あれなにー?」
場違いなほど呑気な声が、背後から飛んできた。
思わず、動きが止まる。
「……は?」
振り返った先にいたのは──
ミレイユと、子供たちだった。
買い物帰りなのだろう。ミレイユは軽装のローブ姿で、片手には紙袋。メリアは相変わらず目を輝かせ、フレイは空を見上げて少し不安そうに眉を寄せている。そしてトールは、ミレイユの足元で俺たちより先に空を見つめていたようだ。
「なんでいる」
「買い物帰りよ」
ミレイユはさらりと言った。
さらりと言うな。
最悪のタイミングにもほどがある。
「避難──」
言いかけて、言葉が止まる。
「わー! とんでるー!」
メリアがぱあっと顔を輝かせた。
「……いっぱい……」
フレイはフレイで、空の群れをじっと見上げたまま、小さく呟く。その声音には、ただ驚いているだけじゃないものが混じっていた。
そして──
トールは、何も言わなかった。
じっと、空を見ている。
笑っていない。
そこに一番、ぞくりとした。
いつもなら、飛んでるものを見れば「あー!」だの「とりー!」だのと無邪気にはしゃぐはずだ。なのに今のトールは、まるで何かを見定めるように、じっと群れを見ていた。
「トール?」
ミレイユも、それに気づいたのだろう。小さく名前を呼ぶ。
その瞬間だった。
ばさっ──!!
群れの中の一体が、鋭く急降下してきた。
黒い翼が昼の光を遮り、地面に不吉な影を落とす。
「来るぞ!」
レオンが前に出る。
俺も反射的に踏み込んだ。
だが、その一瞬前に。
「……や」
小さな声がした。
トールだった。
「トール!?」
制止する間もない。
トールは一歩、前へ出る。
ほんの一歩だ。
だが、その仕草はあまりにも迷いがなかった。
「やぁ……!」
首をぶんぶんと横に振る。
小さな手が、空へ向かって伸びた。
──その瞬間。
空気が、わずかに歪んだ。
目に見えたわけじゃない。
だが、確かに“何か”が広がったのを感じた。
騎士として戦場を潜ってきた勘が、それを見逃さない。
ばさばさばさばさっ!!!
ナイトレイヴンの群れが、一斉に乱れた。
「……っ!?」
レオンが目を見開く。
俺も、息を呑んだ。
旋回していた群れが、明らかにおかしな動きを見せる。
統率を失ったんじゃない。
混乱したんでもない。
──逃げたのだ。
一体もこちらへ向かってこない。
むしろ、王都から遠ざかるように、高度を乱して散っていく。
あのナイトレイヴンたちが。
臆病とは程遠い、あの群れが。
まるで“何か恐ろしいもの”から逃げるみたいに。
「……おい、ルシアン」
レオンの声が低い。
「なんだ」
「今の、見たか」
「ああ」
見間違いじゃない。
俺も、レオンも、ミレイユも、フレイも。
きっと全員、同じものを見た。
あるいは、見えてしまった。
「ぱぱー!」
トールが、くるりと振り向く。
そこにいたのは、いつもの息子だった。
無邪気で、愛嬌たっぷりで、何も知らないような笑顔。
「ばーばい!」
嬉しそうに、小さな手を振っている。
──まるで、自分が何をしたのか、ちゃんと分かっているみたいに。
「……そうか」
俺はゆっくりしゃがみ込み、トールの頭を撫でた。
「えらいな」
口から出たのは、そんな言葉だった。
父親としては、そう言うしかなかった。
目の前の息子は、ただ“イヤだ”と言っただけだ。襲ってくるものを追い払っただけ。子供なりに、家族を守ろうとしたのかもしれない。
だが、分かってしまう。
今のは、普通じゃない。
「すごーい!」
メリアが跳ねる。
「トール、つよい!」
無邪気な賞賛。
それは、この場にいる誰よりも正直な反応だった。
「……すごい、けど」
フレイが小さく呟く。
その先を言わなかったが、言葉の続きを俺は勝手に補ってしまった。
すごい、けど──怖い。
ミレイユは、何も言わない。
ただトールを見ていた。
その目が、ほんの少しだけ揺れている。
母親としての愛情と、治癒魔術師としての勘と、そのどちらもが今、せめぎ合っているのだろう。
「……おい」
レオンがぼそりと呟いた。
「今の、魔法か?」
「違うな」
即答した。
「あんな魔法はない」
少なくとも、俺は知らない。
ミレイユでも、アイリーンでも、あれを“魔法”とは呼ばないだろう。
空は、もう静かだった。
つい先ほどまでの不吉な旋回も、羽音も、嘘みたいに消えている。
街のざわめきだけが、遅れて戻ってきた。
何が起きたのか理解できず、空を見上げる者たち。安堵にへたり込む者。騎士団の団員たちも、構えた武器を下ろしきれずに戸惑っている。
「パパー!」
「ママー!」
子供たちが騒ぐ。
トールが笑う。
いつも通りの、うちの家族の光景。
──のはずなのに。
俺はもう一度、空を見上げた。
あの群れは、確かに逃げていた。
こちらを恐れたのではない。
俺やレオンの剣を恐れたのでもない。
答えは、俺の足元にいる。
トールを抱き上げる。
軽い。
いつもと同じ体温。いつもと同じ柔らかさ。小さな手が俺の服を握る力まで、何も変わらない。
それなのに──
背筋に残るものだけが、どうしても消えなかった。
「ぱぱ、ちゅきー!」
にこにこと笑う。
俺の頬に、むにっと小さな手を押しつけてくる。
ああ。
こんなにも可愛い。
こんなにも愛しい。
だからこそ、まずい。
この子はきっと、“いいことをした”と思っている。
家族に近づく怖いものを、自分が追い払ったのだと。
褒められることだと。
守れたのだと。
──それが、一番まずい。
もしこの感覚を覚えてしまったら。
もし“追い払う”ことがこの子の中で正しい行為として根づいていったら。
次に逃げるのは、魔物だけで済むのか?
「……」
喉の奥が、ひどく重かった。
言葉にならないまま、ただトールを抱く腕に力がこもる。
腕の中の息子は、無邪気に笑っている。
空は晴れている。
王都は守られた。
なのに──
胸の中には、勝利とも安堵とも違う、ひどく嫌な感覚だけが残っていた。




