第三十一話 聖樹の啓示
「お父様から預かった春の宮に毎日祈力を注いでいたことで、基盤祈術陣への祈力補給にも幾分慣れましたし、祈力の器もまた少し成長したようなのです。――今ならば、王城に来たばかりのころよりも少しだけ多く、お父様のお手伝いができるかもしれませんわ」
「それは頼もしいな」
ライドルフは嬉しげに微笑んで、椅子から立ち上がって壁に手のひらを当てた。
ゆらりと空間が歪んで、そこに扉が現れる。
リーゼが毎日出入りする基盤祈術陣の間への扉とそう大差ないのに、護国祈術陣の間へと続く扉だと思うと緊張感が募った。
この先に国のすべてを管理する祈術陣があるのだ。
「リティーツィア、こちらへ。私と祈力が適合するそなたなら問題なく入れるはずだ。基盤祈術陣の扱いとそう変わらないから構えずに行ってくるといい」
「わたくしがひとりで入るのですか? 護国祈術陣の間に国王陛下以外の者をひとりで入れてしまうなんて、危険はございませんの?」
「そなたが滅多なことをするとは思わぬよ。――それに、護国祈術陣の核となる鍵は、聖樹の王としての新たな位階を賜った者にしか触れられないものだ。そなたの『ライヒ』の位階では触れることはできない」
リーゼはこっそり目を瞠った。この情報は王の子というだけでは知らされないものだ。
「……お父様は、聖樹から新たな位階を賜っていらしたのですか?」
「この位階は他人に明かしてはならないものなのだ。私が他の者に名乗ると天上から賜った加護をすべて失うことになり、聖樹に認められていない者が名乗ると天罰が下る。聖樹の王とは本来、その位階を賜った者をいうのだよ」
ライドルフはどこか自嘲じみた笑みに唇を歪め、それからリーゼの背後に張りついているガイウスを見て、宥めるように苦笑した。
「以前ユスブレヒトとともに祈力を補給した際に、慣れていないユスブレヒトの祈力が私に引きずられて祈力欠乏に至るまで吸い出されたことがあった。二の舞にしてはならないとアッシュヴァルツ卿から厳しく言いつけられてしまったよ。私は一緒に入ることはできないが、入ればすぐに護国祈術陣の間だから迷うこともないだろう」
ライドルフはそう変わりないと言っていたが、護国祈術陣の間はリーゼが毎日見ている春の宮の基盤祈術陣の間とは少し趣が違っていた。
円形の広間は中心にかけて高くなる階段状になっていて、最上壇には済世の七柱をかたどった石像が等間隔に立っている。
祈術陣がたくさん浮かび上がっているところや、中央の金色の杯に鍵が浮かんでいるところは同じだが、祈術陣は端が分からないほど広く描かれ、金色の杯は近づくと頂点が見えなくなるほど巨大だった。
杯の上に浮かんでいる鍵も、リーゼの腕では抱えられないだろう。
管理者の交代ではないので、鍵ではなく金色の杯に祈力を流せばいいのだという。
言われた通りに杯に手のひらを触れて祈力を注ぐと、一瞬呼応するように祈術陣が光を放った。
触れた部分から祈力が勢いよく引き出されていく。よほど足りなかったのだろうか。
吸い尽くされる感覚に驚きながらも流れに任せて祈力を補給していると、周囲が放つ光がさらに増したことに気がついた。
眩いほどの光は祈術陣だけのものではなく、壇上にリーゼをぐるりと取り囲むように立つ石像たちからも放たれていた。
七柱の石像、というよりは、その石像が持つ神具を模した什物が、七色それぞれの輝きを放っている。
輝きは大小様々だが、最も強く輝きを放っているのは、赤い双剣を持つ石像だった。
――――王……祈……を捧……よ。
どこからともなく聞こえてきたその声を、リーゼは初め、空耳かと思った。
――――王……祈り……捧げよ。
もう一度聞こえた気がして、はっと目を瞬いた。金杯に手を触れたままぐるりと辺りを見回す。
誰かいるのかと思ったが、その空間にはリーゼしかいないはずだった。
――――王の祈りを、捧げよ。
今度ははっきりとそう聞こえた。
男とも女とも、若者にも老人にも、高くも低くも聞こえる、不思議な声色だった。
「だ、誰なの!」
リーゼは声を上げた。
ここにはリーゼの他にはいない。いかに神々を模したといえ石像は喋るはずがない。
ひとりでいるはずの空間で得体の知れない声が聞こえてくる心霊現象など御免だ。
――――リティーツィア。ライヒの名を持つ者。かそけき祈りなれど、確かに王たる器なり。なれどいまだ、黒き加護、青き加護足らず。
これにはなんとなくかちんと来た。
リーゼは自分が黒の属性や青の属性の祈術が苦手なことを自覚しているが、得体の知れない他人から『かそけき』などと言われる筋合いはない。
リーゼに偉そうにできるのは、この国では父王だけだ。
――――王たる器、大樹へ至れ。王たる器、大樹の下に、加護を得よ。王たる器、器を満たせ。疾く満たせ。さすれば、頂への道、開かれよう。疾く至れ。頂へ至れ。
大樹とは聖樹のことだろうか。
リーゼが聖樹の御許で成人の儀を受けるのはまだ先だ。疾く、などと急かされてもリーゼの一存ではどうにもならない。
加護を増やすことだって一朝一夕でできることではない。随分と簡単に言ってくれるものだと思う。
――――いまだ、王の祈りならず。地は満ちず。大樹は満ちず。王の祈りを捧げよ。
その声を皮切りに、周囲が放つ光が鎮まった。
同時に少しだけ金杯から祈力が押し戻されて、リーゼは思わず手を離してしまう。
くらりと体から力が抜けて、そのまま座り込んだ。
どうやら祈力を使いすぎたらしい。
アッシュヴァルツ邸でガイウスや侍女の目を盗んで祈術の練習をしていたころ、祈力を使いすぎて動けなくなってしまったときの、覚えのある倦怠感が全身を襲う。
リーゼは意識して体内の祈力を薄く伸ばして、ゆっくり循環させた。
徐々に指先に体温が戻ってくる。しばしそうして体が動くようになるのを待ってから、体を起こして扉に向かう。
足元がまだふらつくようだったが、あまりのんびりしているとガイウスが案じているかもしれない。
「――王女殿下、お手を」
護国祈術陣の間から出てきたリーゼをひと目見て、ガイウスが顔色を変えた。
そんなに酷い顔をしているのかと思いながら、ガイウスから手渡された祈力石を握り込む。
「問題ないわ。少し祈力を使いすぎただけよ」
あらかじめ自分の祈力を溜めておいた祈力石から祈力を引き出して、体内に補給する。
心配そうに見守っていたライドルフに、窺う視線を向けた。
「お父様」
「何かを、聞いたかい?」
リーゼが不可思議な声を聞いたことを知っているような口振りだ。どこか達観した穏やかな微笑を浮かべるライドルフが、何を考えているのか分からなくてうそ寒くなる。
「……王の祈りを捧げよ、と」
「そなたにも聞こえたのだな……」
ライドルフはリーゼを長椅子に座らせた。自身もその隣に腰を下ろす。
「ユスブレヒトも、同じように声を聞いたそうだ。器は満ちた、大樹へ至れ、頂へ至れ――とね。そなたも同じことを?」
「いえ、わたくしの場合は、器を満たせ、と。大樹の下で加護を賜れば、大樹の頂への道が開かれると言われました」
「そうか……そなたはまだ足らぬか」
ライドルフは残念そうに言った。
リーゼは表情を引き締めて、慎重に疑問を口にした。
「……あれは、誰の声、なのですか?」
「さて。ユスブレヒトは、祈力枯渇に喘ぐ聖樹自身、もしくは聖樹の意思を語るものの声……という言い方をしていたがね」
やけに他人事だ。リーゼの視線に気がついたのか、ライドルフは唇を引いた。
「リティーツィア。聖樹の王の位階は父から私にかけての代までは問題なく王家によって継承されていたのだ。聖樹が祈力を求めて我々人間に啓示を下すことなどこれまでなかったことだ。……十中八九、私が既に聖樹の王としての祝福に値しないと見做されたからだろう。王たる器でなくなった私には、そのような声など聞こえた試しがないのだよ」
リーゼは慌ててその場に跪いた。
ライドルフが聖樹の加護を失ったことは聞かされていたのに、あまりに不躾だった。
これでは初対面のときのガイウスを悪し様に言えた筋合いではない。
「浅慮をお許しくださいませ。偉大なる国王陛下を愚弄する意図などございません」
「ああ、リティーツィア、分かっているからそう勢いよく動くものではない。祈力が回復するまでは安静にしていなければならないよ」
ライドルフは怒った様子もなくリーゼの手を取って長椅子に座らせて、息は苦しくないか、頭は痛くないか、気分は悪くないかと尋ねてくる。
父親らしい仕草にかえって居心地の悪さを感じるリーゼを他所に、最後に少しだけ偏屈そうな表情を作って言った。
「それから、私のことは国王陛下ではなく、お父様と呼びなさい。分かったかね、娘よ」
「……はい、お父様」
「うむ、よろしい」
鷹揚に頷いてみせて、ライドルフは改まった声で「リティーツィア」と名を呼んだ。
暁色の双眸はふだんの娘への甘さを打ち消し、国王に相応しい厳かさを孕んで、リーゼを射竦めるように映し出していた。
リーゼの胸が微かにどくりと鳴った。
「今日そなたを護国祈術陣の間に招いたのは、そなたがユスブレヒトと同じ立場にあるかを確認したかったからだ。つまり……聖樹に望まれる王の器たり得るかを、だ。そのうえで、我が娘が王の器であると知ったからには、私はそなたに覚悟を迫らなければならない。成人の儀まで既にひと月を切った今、そなたが心を整える時間を確保するためにも」
覚悟。心を整える。
この父王は何を言い出すのだろう。
リーゼはなんとなくその答えを知っている気がした。
王たる器にあらざる国王が、新たな王の器に望むこと。
双子の弟ユスブレヒトがとうに望まれ、応えようとしていたこと。
「――リティーツィアよ。そなたが成人の儀を終えたとき、余はそなたを余のあとに王位を継ぐ者として指名するであろう。今はその覚悟は問わぬ。さりとてその意思も問わぬ。王家に生まれた者は須らく、聖樹と聖樹が司る国に尽くすものである。王女たる者、その天賦の責を放棄することはまかりならぬ。――来たる時、余は王として、そなたの未来の女王としての覚悟を問う」
ライドルフはリーゼが視線を落とすことすら許さなかった。
張り詰めた空気の中で、重々しい余韻ごとリーゼの全身をその場に縛りつけていた。
拒否の選択肢など初めから存在していないのだと、その目が語っていた。
「……御意に。時が到来しましたら、我が覚悟を御前にお見せいたします。国王陛下」
リーゼはライドルフを見つめ返した。
リーゼのいらえに父王の凛々しい眉尻が緩んだ。
今度はライドルフは「お父様と呼びなさい」とは言わなかった。
「今日からは毎日少しでも護国祈術陣に祈力を補給したほうがよいだろう。そなたは毎日礼拝室に通って朝晩の祈りを欠かさない習慣があるというし、その片方だけでも祭壇での祈りに替えれば足りない加護も得られやすくなるはずだ」
護国祈術陣の間は一種の祭壇のような造りになっていて、かの祭壇から護国祈術陣へ祈力を補給することは神像の前で捧げる祈りと同一の意味を持つという。
「そなたが護国祈術陣の祈力の担い手であることは、成人の儀を終えるまでは私とそなたと両者の側近だけが共有する秘密とする。いずれ間もなく公表することにはなるだろうが、そなたの周囲を不要に騒がせぬためでもある。よいな」
「仰せのままに。お気遣いに感謝いたします」
「……私は、そなたには王家の姫として、これまでの分も周囲に傅かれて幸福のみを享受する満ち足りた日々を過ごしてほしいと思っていた。これまでの薄幸の境遇のうえに、さらに苛酷な責務を伴う立場など負わせたくなどなかった……その一方で、私はかつてユスブレヒトに受け渡したいと思っていた王位を、ユスブレヒトの姉であるそなたも得る資格を持っているという事実が、この上なく嬉しくて堪らないのだよ」
毎日顔を合わせなければならない苦行に今から辟易しているリーゼの内心など知るよしもない満面の笑顔で、ライドルフがリーゼを厚い胸に引き寄せる。
慈しむように抱きしめられることはこれまでもときどきあったことだが、実のところリーゼはこの力強く温かな腕にまったく慣れることができないでいた。
それは周囲から耳に胼胝ができるほど父王に気をつけろと忠告されているからかもしれないし、リーゼの中に実父に対して慕わしさや懐かしさ以外の複雑な感情があるからかもしれないし、八年ぶりに自分に向けられる父の愛情というものの受け止め方を、いまだに思い出せていないからかもしれなかった。
困惑のまま硬直しているリーゼをどう思ったのか、ライドルフは表情に少しだけ愁いを混ぜてから、そっと腕をほどいてリーゼを解放した。
その愁いはすぐに朗らかな笑みで上書きされたが、父の愛惜を見つけるたびにリーゼの胸は痛みに疼き、自分が何かとても残酷なことをしている気分になってしまう。
かといってこの父相手に無邪気に甘えて抱きしめ返すような真似ができるようになりたいかと言われれば、リーゼはそれもまたすんなり頷けない気持ちになるのだった。
「……お父様のご期待に応えられるよう、励みますわ」
どうにか微笑を浮かべてそれだけを返し、リーゼはライドルフの自室をあとにした。
春の宮に戻ってくると、まるで全速力で走ったあとのような疲労感がどっと湧いてきて、ともすれば護国祈術陣の件に湧き立つ侍女や側近たちにも耳触りだと当たり散らしてしまいそうだった。
まだ話し足りなそうな彼らを「疲れてしまったみたい」とそれとなく部屋から追い出し、コルベラだけを伴って言葉少なに湯浴みを済ませ、早々に寝室付きの侍女も追い立てて全員下がらせた。
しんと静まり返った寝室にようやく息をつき、このまま基盤祈術陣の間に赴くべきか少しだけ悩んで、ひとりになるためなら寝室でも一緒だと思い直す。
リーゼはそのまま寝台に突っ伏した。
その日は初めてメーアからの言いつけを破って、夜の祈りを怠けてしまった。




