第二十七話 捧げるべきもの
「でも、貴方たちは困るんじゃない? 担ぎ上げる相手が言うことを聞かないんだもの」
「――私は、リーゼの主席側近を拝命したはずだ。主の望みが叶うことが私の喜びだ」
強い口調と非難の目でガイウスが反駁する。心外そうに眉を寄せるガイウスが少しおかしかった。
ジルヴィーナに蟄居勅命が下された経緯だって、アッシュヴァルツ一等爵も家門の貴族たちも喜んでいたのに、ガイウスだけは喜ばしく思っていないようだった。
「……私が側妃を陥れたことが、貴方は気に入らないみたいね」
ガイウスが苦渋に満ちた目でリーゼを見据えた。
「リーゼのすることに口を出したいわけではない。……だが、あんなことをすれば、側妃の矛先は必要以上におまえに向く」
「かつて自分から陛下の寵愛を奪った愛妾の娘で、第一王子より明らかに陛下から目をかけられている私が、あの側妃に恨まれていないはずがないわ。それにあれくらい分かりやすく茶番劇を演じておけば、陛下の寵愛を一身に集める王女は側妃を敵対視していると宮廷を牽制できるでしょう。貴方たちにとっても都合がいいのではなくて?」
「アッシュヴァルツにとっては側妃の派閥を切り崩す絶好の契機になることは間違いない。宮廷における側妃の勢いを抑えることも急務ではあった。だが、……進んで自らを危険に晒すような真似は、やめてほしい」
ガイウスが真剣そのものの表情をするので、リーゼはくすぐったさを通り越してむず痒い居心地の悪さを覚えた。
アッシュヴァルツの利益を生み出したはずの自分たちの旗頭に対して苦言を呈するなんて、本当にアッシュヴァルツの次期当主のすることだろうか。
この男のひたむきさの前ではリーゼはときどき自分が卑小なもののように思えてしまう。
「私は、アッシュヴァルツより陛下より、あの元正妃のことを誰よりも憎んでいるの。お母様を貶めたあの女を引きずり落とすためなら何でもできるわ」
毒を含んだほの暗い笑みを浮かべるリーゼを、ガイウスが黙って見つめていた。
リーゼの中に渦巻く憎悪など、ガイウスにはとっくに分かっていたのだろう。
それでもやめてくれと、その目は雄弁に語っているのだ。
ガイウスから目を逸らす。
どこまでも静かな紫水晶に、リーゼの中の黒くどろどろしたものまで見透かされてしまいそうで、怖かった。
「……気分が悪いわ」
「勝手なことを言って悪かっ――」
「――ずっと、気分が悪いの。側妃が引っ立てられていったときから。胸焼けみたいに、もやもやしたものがずっと残っていて、むかむかして。もっと清々しい気分になるものかと、期待していたのに」
そんなことはぜんぜんなかった。
ジルヴィーナに対する怒りが引いていくと、あとにはユーリアの望んだ在り方に反したという後味の悪さばかりが残って、自分自身がどんどん汚れた感情に侵食されていくようだった。
祈力を失っても、王の娘として名乗れなくても、平民に身を落としても、どれだけ落ちぶれても誇り高くあれと自分を律してきたはずなのに、ライドルフを唆してジルヴィーナを罠にかけて自滅させるような、自身の誇りを傷つける真似をしたことが、棘のようにリーゼの胸中に突き刺さっていた。
「……言われなくても、もう二度と、できないと思うわ」
呟いたリーゼに、ガイウスは静かに「そうか」とだけ答えた。
「お母様と、もしかしたらユスの、仇なのに。あんな女、今すぐ殺してやりたいくらい憎んでいるのに。慈悲深く許すことなんてできないくせに、容赦なくこの手にかけることも、私にはできないんだわ」
「リーゼの手が汚れるようなことがなくてよかった」
「私はこれからも、陛下の前では同情を引きながら、心の中ではずっと側妃を憎み続けるのよ。手が汚れているのと心が汚れた感情に囚われているのと、大差はないわ」
「リーゼ」
自嘲じみた吐露を制するような声だった。
リーゼは軽く息を吐いた。
「……初対面の人間を次々と相手をしてきたから、少し気が立っていたのかもしれないわね。八つ当たりして悪かったわ」
正直に白状したリーゼを見つめて目を瞬いてから、ガイウスはゆるりと愁眉を開いた。手のひらを差し出して、リーゼが重ねた指先をそっと握り込む。
これがリーゼに不用意に触れないガイウスの精一杯の慰撫の仕草だと、リーゼは知っている。
「謝らなくていい。配慮が足りずにすまなかった」
「いくら主席側近だからって、そんなことまで先回りしようとしなくていいわよ」
律儀に申し訳なさそうにするガイウスに笑みが零れる。
この男は冗談を言うたちではないので、紛れもなく本心から負い目を感じて言っているのだろう。八つ当たりをされたと分かったのだから、もう少し怒ってみせてもいいものなのに。
「私はいつでも、八つ当たりでも憂さ晴らしでも意趣返しでも受け止める用意がある」
「そんなことを言うと、むしゃくしゃしたときに本当に呼びつけてしまうわよ」
「むしゃくしゃしていないときでも、好きに呼びつけろ。リーゼに呼ばれれば、私はいつでもリーゼの許に駆けつける」
ガイウスがリーゼの手の甲に口づけを落とす真似をする。大袈裟だわ、とはにかみながらリーゼは何度も受けたことのあるその恭順の礼を受け取った。
リーゼの様子を気遣わしげに見つめていたガイウスが、不意に「リーゼ」と静かな声で名を呼んだ。
「……側妃への憎しみというなら、私も同じだ」
「ガイウス」
「私は、リティーツィア王女を擁立するアッシュヴァルツの嫡男という立場でなく、リーゼの側近として仕える栄誉の身でもなければ、とっくにこの手で側妃の首を落としていた。――条件が整えば、この先もいつでもそうするだろう」
リーゼは驚いてガイウスを仰いだ。
リーゼの手を温かな手のひらに包んだまま佇む男は、その温かさが嘘のように暗く冷たい影を背負って、双眸に鋭利な憎悪の光を閃かせた。
氷のごとく凍てついた、炎のように烈しい――怒り。いつかも見たことのある目だ。
「……ユ―リア様の美貌を損なうためだけに離宮に火まで放ったあの側妃を、私は絶対に許しはしない。おまえが望むなら、今すぐ側妃の首を打ち取って、おまえの前に献上してみせる。私の剣の腕はそのために磨いたものだ」
人払いはしてある。国王の妃の暗殺を企む発言はリーゼの他には聞かれていないはずだ。
分かってはいても思わずごくりと唾を飲み込んだリーゼに、ガイウスはゆっくり視線を合わせた。
「私が怖いか?」
怖いかと問われれば、言われた物騒な台詞はもちろん怖い。
目の前の男は基本的に無表情の冷静沈着な人間だが、激高したときは手が早くなることもリーゼは体験済みだ。
けれど、肯定してしまったら、この男はリーゼに触れる手を離していってしまうだろうということも、リーゼはとっくに知っている。
だからつんと顎を上げて、ひねくれた言葉を返した。
「主席側近が側妃殺しの罪に問われるのは困るわ。私の宮廷における政治的な発言力に支障が出るもの。私に甘い陛下といえども庇いきれないわ」
「……リーゼの臣下であるうちは不用意なことはしない。リティーツィア王女の名に傷をつけないように身辺を整理してから決行する」
「なら、貴方はこの先死ぬまで私の主席側近を外れることを許されないのだから、側妃のことをどれだけ憎んでいても自分で手にかけることは一生できないわね」
びっくりしたようにガイウスが目を見開いた。
心底呆気に取られてリーゼを見下ろす彼の、どこかあどけないほどの素っ頓狂な表情に、せっかくの男前が台無しだと思いつつ、リーゼはわざと尊大に言葉を続けた。
「ずっと私の側にいなさい。少し一段落ついたからって気を緩めているからそんな他所事を考えるんだわ。貴方は常に私の考えていることだけ考えていなさい。暗殺などと口にするのもおぞましいこと、栄えある王女付き主席側近の務めではないわ」
「リーゼ、だが、」
「……私を『リーゼ』と呼べる人間は、今はもう貴方しかいないのよ。貴方が私の前に捧げるべきものをはき違えないで」
側妃の首なんて貰っても嬉しくない。人を手駒にして都合が悪くなったら切り捨てるあの毒婦と同じことをリーゼにさせるつもりか。一度自分の誇りを忘れて私怨に駆られたリーゼを、この男はそこまで見下げ果ててしまったのだろうか。
「――リーゼ」
ガイウスの静かな声が、リーゼの名を呼ぶときだけ普段の単調さを微かに緩ませて、労わるように低く響くのが、リーゼの密かなお気に入りだった。
言葉の少ないガイウスがその内側でどれほど心を配っているかが伝わってくるような気がして、いつもこそばゆさとともに胸がじんわり温かくなるような喜びを噛みしめていた。
張り詰めていたものがほどけて決壊しそうになるのを堪えながら、リーゼは顔を伏せてガイウスの手を握り込んだ。
ガイウスは口を噤んだリーゼを困惑したように見つめていたが、リーゼの表情を見てはっとすると、わざわざその場に腰を落としてリーゼの顔を覗き込んだ。リーゼと目を合わせて自分のほうが悲痛に顔を歪ませる。
「リーゼ。馬鹿なことを言って悪かった。私が愚かだった。おまえが恐ろしいと思うことは絶対にしない。どうか忘れてくれ」
「……私が馬鹿なことを言ったから、貴方も馬鹿なことを考えたのでしょう。いいわ。謝らないでちょうだい」
首を振ってガイウスを制して、繋いだままの手を引き寄せた。
立ち上がったガイウスがまだ気遣わしげにリーゼを見つめるので、リーゼはもう一方の手もガイウスに差し出して、その手がいつもの温もりに包み込まれるのに小さく微笑んで言う。
「それなら、代わりに、またここに来るのに付き合って。……いい?」
「分かった。いくらでも付き合う」




