第十三話 やり直し
「……ごめんなさい、言葉を間違えたわ。暖炉の前に一日中いても、という意味よ」
厨房に自分で立つことのない王侯貴族が一日中竈の前にいることは当然あまり考えられることではない。
ガイウスの表情の変化を自分の迂闊な発言を咎めるものだと受け取ったらしいリーゼが、目を彷徨わせて身を小さくする。
怯えの色を濃くしてガイウスを窺うリーゼの視線に、彼女から些細な失言ひとつで逆上するかもしれない男だと思われている事実を突きつけられた。
「リーゼ。私はおまえに役目を与えられたはずだ。相応しくない発言だと思えばその権限においてその場で諫める。私とおまえの間に思考の前提の違いがあることも理解した。おまえの発言を邪推して感情のままに振る舞うことはもうしない。……無理に信用してくれとは言わない。私にその意思があることだけ、覚えておいてほしい」
下手なことを言えばさらに委縮させるだろうか。まだ怯えるばかりならリーゼから離れてコルベラに交代したほうがいいかもしれない。
不用意な身じろぎも憚られてじっとしていると、リーゼは引き結んでいた唇を震わせ、青褪めた顔でそれでも小さく頷いた。
「……怖いか。手を離すか?」
「…………大丈夫。もう少しだけ」
指先はずっと冷えきっているのに気丈にも首を振って、躊躇いがちに口を開く。
「……怒ったのでは、なかったの」
「そう見えたか」
「いつも、そう見えるわ。顰めっ面ばかりで、私の扱いを持て余していると、顔に書いてあるもの。私は貴方の理想のリティーツィアとは随分かけ離れているのでしょうから、当然のこととは思うけれど」
リーゼの口調はどこか自嘲気味だった。もどかしさを堪えてリーゼを覗き込む。
「私が会いたいと思っていたのはおまえだ、リーゼ」
リーゼは目を瞬いた。相当情けない顔でもしていたのか、ガイウスを困ったように眺めて、気の強さを取り戻した声色で、
「嘘。でなければ見え透いた機嫌取りだわ」
「嘘ではない」
「なら、もっと、私に会えて嬉しいと思っていると分かる顔をしなさいよ」
「……努力するが、私は元々表情の豊かなほうではない」
「王城でユスの隣に立っているときは笑っていたわ」
「社交用の表情を作ることはできる。――ユスブレヒト殿下に、寒気がするから公の場以外では見せるなと命じられていた」
「ユスが?」
ユスブレヒトの名を出すとリーゼはいつも少しだけ目に強い光を宿す。片割れである弟を姉としてずっと案じていたのだろう。
出自を偽って容姿を偽って、何をどうしたのか別人としての身分証明まで作り上げて王城の女官募集に応募してきたことを思い出す。
「……殿下は、『姉上は聡いお方だから、姉上にお会いするときに社交場で貴婦人を釣るためのその薄ら寒い作り笑いを浮かべていれば、企み事を腹に隠していると警戒されるだろう。普段の鉄面皮のほうがあるいはまだましだ』と」
母や姉と生き別れる形となった当初は気弱で物怖じしてばかりだったユスブレヒトは、甘さや優しさなどとは縁遠い自分が教育係についたせいか、あどけなさを微かに残しながらも美しく整った柔和なかんばせに朗らかな笑みを広げて平然と毒を吐くような王子に育ってしまった。
第一王子を差し置いて王太子と目される王子として生きていくのに必要なしたたかさではあるが、リーゼは八年前の弟像と繋がらないらしく首を捻っている。
「……ユスに、私が生きていることを、教えていたの?」
「父はおまえのこともユ―リア様のことも殿下には伏せるつもりでいたが……聡明な殿下が、父や私の言動の端々から察してしまわれた、と言うほうが正しい」
「……そう。ユスの中に、私はもういないのだと思っていたわ。それでも顔を見られるだけで十分だったの。姉だと認識されなくても、傍にいたくて……」
リーゼは口を噤む。平民として雇われの労働で日々の糧を得て生きてきたことは隠さなければならない。祈力によって繁栄を得る貴族にとって、自分の肉体で日銭を稼ぐことは卑しいこととされているからだ。
いかにリーゼを想う侍女たちであっても、『主は辺境の神殿で清貧とともに過ごしていた』のと『主は平民階級に身を落として労働に追い立てられていた』のとでは、リーゼに向かう心証はかなり違う。
「――殿下はおまえが王都に上がったことにも気づいておられた。姉上の気配がする、とおっしゃって我々を驚かせたことがある」
思わずというようにリーゼは驚きの声を漏らした。零れ落ちそうなほど大きく目を見開いて「それって……」と言いかける。
ガイウスは目を伏せてゆっくり首を横に振った。
「……この話の続きは、後日にさせてほしい」
貴族家出身の侍女の同席するこの場では、リーゼが下級女官として王城務めをしていたことを伏せなければならない。ここでは詳しく語るのは難しい。
ちらりと横目で侍女たちを示すガイウスに、リーゼは暗い目をした。
「それは、本当に日を改めたら教えてくれるということ? それとも煙に巻きたくてこの話を切り上げようということ? ……そうならそうと言って。貴方が詮索するなと言ったことを私が知るすべなんてないのだから、誤魔化されなくてもきちんと諦めるわ」
こんな言葉の裏まで読まなければならない相手だと思われていることに、傷つきそうになる。ガイウスはぐっと堪えてリーゼの目を見つめ返した。
「後日、必ず教える。おまえが知りたいと思うユスブレヒト殿下の話ならいくらでもする。だが、私が同席する部屋で人払いをかけるのは、まだおまえにとっては負担が大きいはずだ。日を改める理由はそれだけだ。それ以外に私に意図はない」
「……本当に? 私が、貴方が近くにいても平気になったら、本当に教えてくれる?」
「本当だ。約束する」
やり直しとはこういうことなのだ。
ガイウスはゆっくりと言葉を重ねながら思い知らされていた。
事あるごとに噴き出してくるリーゼの猜疑心を何度でも晴らして、こうして一から信頼関係を築いていかなければならない。
長く先行きの見えない道であったとしても、数歩進んだらその分だけ戻るような歩みであったとしても、根気強く。
「絶対よ」
それでも、ガイウスはどれほど足踏みや徒労を重ねることになったとしても、芽吹く前から自分で踏み潰してしまった信頼を、どうしてもどうにかして育て上げたいと願うのだ。
張り詰めていた気配をほのかにほどいて表情を緩めるリーゼに、ガイウスは誓いを捧げるようにしっかりと頷いた。
コルベラに代わったほうがいいかとガイウスが離れようとすると、リーゼがさっと顔色を変えた。ガイウス、と不安そうな声が名を呼ぶ。
たったそれだけのことにガイウスの胸の奥は弾むのだが、浮かれている場合ではない。
「無理をするな。一日でどうにかなるものではない。少しずつ慣れていけばいい」
「……明日も、来るわよね?」
「明日も、明後日も、そのあとも毎日来る。――リーゼに呼ばれれば、私はいつでもリーゼの許に駆けつける」
「……だから、いちいち極端だと言っているのよ」
大真面目に告げたつもりだったが、リーゼは呆れたように言った。
リーゼの手をそっとコルベラに預けて下がると、コルベラがリーゼを長椅子まで連れていって座らせる。侍女に囲まれて世話を受けているうちにリーゼの肩から力が抜けたようだった。
「コルベラ、湯浴みのたびにガイウスがどれだけ忠義に厚い男か聞かせてくれた努力が実って嬉しいのでしょうけれど、いい加減その締まりのない顔をやめてちょうだい」
ある程度落ち着いたらしいリーゼが唇を尖らせてコルベラを睨む。
王女らしくはない仕草にすぐさま小言が飛ぶかと思ったが、あの口煩い乳母がリーゼに対しては困ったように微笑み続けている。
リーゼの目がすっと細められた。
「――コルベラ。私、貴女にもずっと言いたかったことがあるわ」
部屋がしんと静まり返った。リーゼはコルベラを冷え冷えと見下ろした。
「貴女のそういう態度、とても気持ちが悪いわ。前までは散々私をがみがみ叱りつけてきたくせに、いきなり腫れ物に触るように顔色を窺われると、貴女の皮を被った別人が貴女に成り代わっているようで心の底から不気味なのよ。今さら従順な侍女の振りをしても貴女の本性はとっくに割れているわよ」
リーゼの辛辣さに周囲の侍女たちは慄いていたが、この邸に来て以降のリーゼの鬱憤を受け止め続けていたコルベラは、そんなことで動じたりしない。それがまだ誰にも気を許していないリーゼが見せる唯一の甘え方だと知っているからだ。
リーゼもコルベラがめげることはないと分かっているのか、コルベラには初めから当たりが強かった。
「私が貴女を疎んじるのは今に始まったことではないのだから、阿るような真似は無駄だしとても不愉快だわ。さっきまでの勢いはいったいどこへやったの。――それとも、王女の筆頭侍女という役職は、主の言うことにただ頷いているだけで信頼を得られるほど軽いものなのかしら」
リーゼは言い捨ててつんと顎を逸らした。頬杖をついて明後日のほうを向いて、コルベラのほうはもう見ようともしない。
刺々しい言動の意味を理解した侍女たちが、一生懸命に澄ましている主を微笑ましそうに見守っていた。
コルベラはこの部屋の誰よりも年長者であるがゆえの余裕か、主人の稚い強がりもすべて分かっているというように鷹揚に、しかしながら慈愛に満ち溢れた表情で穏やかに一礼した。リーゼの手を取って両手で額の前に掲げる。
「……それでは、姫様に申し上げますが」
顔を上げたコルベラは、ガイウスにも馴染み深い、厳しい乳母の顔をしていた。
「王族の姫がそのように肘をつくお行儀の悪い振る舞いをなさってはなりません。所作の美しさは普段の立ち居振る舞いの中で磨かれるもの、常に背筋を正して優雅な所作を心がけるようになさいませと、ヴォルケ夫人の言葉を聞いていらっしゃらなかったのですか。ガイウスの祈力交感の件もそうです。ご存知でいらっしゃらないことを察せずに先にお教えできていなかったのはわたくしどもの不徳ですが、高貴な姫君が知らずに許容してよいことでも、あれほど簡単に口に出すようなことでもございません。姫様に祈力制御をお教えできる人間がガイウス以外にいない以上、今後もガイウスが適合薬を飲んで姫様の補助につくことはやむをえませんが、他の貴族の耳にでも入ろうものなら姫様の名誉にかかわる問題となります。このことははけっして口外なさいませんよう……」
どこまでも長く続きそうな小言に、リーゼがだんだん眉を寄せていく。しかしその頬はほのかに緩んでいて、口許に至ってははっきり嬉しそうに弧を描いていた。
「やっぱり貴女はそうでないと張り合いがないわね。……けれど、鬱陶しいものは鬱陶しいわ。はいはい、分かったからお小言の続きはまたにしてちょうだい」
「姫様! お返事は一回と何度も――」
「はいはい」
「姫様!」
リーゼはコルベラをおちょくっては怒らせて、際限なく続く小言におかしそうに笑みを溢れさせる。コルベラが仕方なさそうに眦に皺を作った。
「……まだまだ申し上げたいことはたくさんありますが、姫様、あとひとつだけ、わたくしからお願いを申し上げます」
コルベラはリーゼの頬を手のひらで包み込んだ。
「いつも顰め面なのはガイウスだけではございません。姫様も同じですよ。たまにはわたくしどもにもそのようにお可愛らしい笑顔をお見せくださると嬉しく存じます。姫様にとってはまだ快いものではないかもしれませんが、これから美味しいものも美しいものも楽しいことも、たくさんの幸せが姫様を待っているはずなのですから」
差し出口をお許しください、とコルベラは微笑んで身を引いた。
リーゼは居心地悪そうに身じろぎしてむくれている。戸口まで下がって様子を見ていたガイウスの視線に気づくなり目許を赤くして膨れっ面を作り、ぷいと部屋中の全員に背を向けた。
「……気が向いたら、ね」
照れ隠しの声色がそう呟くのに、侍女たちが微笑みを交わし合うのを見守ってから、ガイウスはコルベラに視線を送って静かにその場をあとにした。




